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渡し場を追放されるはずの私を、三本の麻綱を覚えた公爵令息が救い返しました

作者: 花房 ゆり
掲載日:2026/09/06

「水を怖がるだけの役立たずに、客の舟を任せられるものか」


 バーナードは客の前でそう言い、舟板を靴先で二度叩いた。


 一つ、朝一番に水路の泥をさらった。


 二つ、支給札付きの十二尋綱三巻を洗い、毛羽立ちを確かめ、杭へ渡して乾かした。


 三つ、固いパンを船小屋の戸口で立ったまま食べた。


 役立たずというのは、ずいぶん忙しい。


「聞いているのか、マリアン。今夜も番小屋に残れ。水位が上がったら俺を呼べ」


「夜番の賃金欄が空いています」


「訓練に賃金が出ると思うな」


 なるほど。夜通し水位を測ると訓練になり、朝になって帳面を渡すと監督の仕事になるらしい。便利な渡し場だ。泥も綱も手柄も、上流から勝手に流れてくる。


 私は水位帳へ今朝の数値を書き込んだ。指先についた泥が紙の端を汚す。


 賃金欄は今日も白い。


「本日は水量調査だ。余計な口を挟むなよ」


 バーナードの声が一段大きくなったところで、背後から足音がした。


「調査を担当するエドワードです。よろしくお願いします」


 王国治水院から来た公爵令息様は、川辺には少々きれいすぎる外套で頭を下げた。


 するとバーナードは自分の椅子を引き、布で座面まで払った。私に泥さらいを追加するときには見せない手首の柔らかさである。


「どうぞ、こちらへ。現場の判断はすべて私がいたします。この娘は臆病でして、水かさが増すたび騒ぐのです」


「臆病ではありません。上流の濁りが濃くなっています。昼前に増水します」


「返事は求めていない」


 舟板を叩く靴先が、今度は私のつま先すれすれで止まった。


 公爵令息様は川面を見た。次にバーナードを見た。


「航行に問題は?」


「ございません。私の監督下では一度も」


 私が淀みから舟を戻した三度は、どなたの監督下だったのだろう。水位帳なら知っている。帳面は口を挟めないので、たいへん扱いやすい証人だ。


「では、出しましょう」


 バーナードが言った。


 私の警告より、監督の安全宣言が選ばれた。


 よろしい。川だけは肩書を読まない。そこは信用している。


    *    *    *


 増水は昼前ではなく、鐘半分ほど早く来た。


「右へ寄せろ!」


 バーナードが岸から叫んだ時には、舟は横腹を流れへ向けていた。右へ寄せれば、淀みがきれいに呑み込んでくれる。親切な号令である。敵に対してなら満点だ。


「棹を上げて! 舟首を下流へ!」


 私は艫綱を外した。


 舟が傾き、公爵令息様の手が縁を滑った。水音。きれいすぎた外套が一瞬だけ浮かび、すぐ沈む。


 軽口はそこまでだった。


「十二尋綱を三巻! 支給札のあるものです!」


 岸の者が一本を投げた。私は受け取り、二本目の端へ重ねる。濡れた麻は乾いた綱より締まり、雑に結べば固まる。輪を返し、端をくぐらせ、もう一度。


 二重はた結び。


「三本目を! そこ、結び目は滑車の外」


 結び目を滑車へ噛ませれば止まる。止まれば、水が人を持っていく。


 私は余り綱を大きな八の字に畳んだ。輪を一つ取り、公爵令息様の上流側へ落とす。


「腕へ通してください! 握るだけでは駄目です!」


 水面から指が出た。一度外れ、二度目で輪をつかむ。


「六人、二人一組! 三組に分かれて! 一組目は引く、二組目は送る、三組目は後ろを押さえる!」


 私は滑車側へ回り、綱の震えを手のひらで拾った。重い。人一人と、水を吸った外套と、流れ全部。


「まだ引かない!」


 公爵令息様の腕が輪をくぐった。


「三つ数えてから」


 一つ。


 水面に顔が出る。


 二つ。


 一組目の腰が落ちる。


 三つ。


「引いて!」


 三組が動いた。滑車が鳴り、結び目は外側を通り、公爵令息様の肩が岸へ上がった。


 私は最後まで綱を緩めなかった。膝をついた彼が咳き込み、濡れた髪を上げる。呼吸が続いている。それで足りる。


 足りるはずだった。


「マリアン」


「はい」


「君は、今すぐ私の屋敷へ来なさい」


「はい?」


「この仕事を辞める。舟へは二度と乗らない。今後の生活は私が保障する」


 一つ、屋敷へ来い。


 二つ、舟を降りろ。


 三つ、私が養う。


「三つとも不採用です」


 助けた相手が公爵令息様だった場合、報酬として職を失うらしい。川より話が急で困る。


「なぜです」


「私の仕事だからです」


「今、死ぬところだったのですよ」


「公爵令息様が」


 彼の咳が止まった。


 岸でバーナードが鼻を鳴らす。


「その娘は口だけは達者でして。たまたま上手くいったからと——」


「あなたは先ほど、右へ寄せろと命じましたね」


 公爵令息様の声は穏やかな敬体のままだった。


 バーナードは私には決して見せない速さで頭を下げた。


「緊急時ゆえ、言葉が足りず——」


「足りなかったのは言葉だけでしょうか」


 外套から水が落ちる。


 彼は私が畳んだ綱へ手を伸ばし、崩れた輪を八の字へ戻そうとした。右、左、右。ぎこちないが、見ていたらしい。


「それも違います。交差するところを広く」


 私は直した。


「こうですか」


「はい。そこは合っています」


 救われたばかりの公爵令息様は、私の手順を覚え始めた。


 屋敷へ連れていく相談よりは、見込みがある。


    *    *    *


「フィン!」


 二度目は短かった。


 荷を抱えたフィンが足を滑らせ、同じ淀みへ落ちた。私は十二尋綱三巻を出し、三本を二つの二重はた結びでつなぎ、六人を二人一組の三組へ割った。


「公爵令息様、余り綱を」


「任せてください」


 エドワード様は大きな八の字を作った。先日の端正な外套はやめ、袖をまくっている。貴族の袖にも改善というものはある。


 ただし、結び目は駄目だった。


「待って。これは一重です」


「二度くぐらせました」


「同じ輪へ二度通しただけです。濡れ綱が縮んだら、ここが噛んで解けません」


 私は容赦なくほどいた。命を預ける結び目に、身分への遠慮を編み込む余地はない。


「もう一度お願いします」


「輪を返して。端は反対から」


 エドワード様の指が動く。今度は正しい。


 フィンの腕へ輪が通った。三拍置いて引く。前回より滑車の音は短く、少年の体はすぐ岸へ上がった。


「けほっ……あのさ」


 腹ばいになったフィンが、綱を指した。


「そっちは絡まない」


 八の字を見て一度だけ笑い、また咳き込む。


 エドワード様はその八の字をたいそう大事そうに押さえた。褒められた見習いの顔である。公爵令息様にそんな顔をさせてよいのかは知らない。治水院の規則に書いておいてほしい。


「やはり、君は舟へ乗るべきではありません」


 前言撤回。見込みなし。


「見て覚えたなら、次は邪魔をしないでください」


「邪魔」


「勤務希望として扱います。綱係の見習いからです」


「屋敷への誘いは?」


「不採用のままです」


「生活の保障は」


「自分で稼ぎます」


「では、どうすれば君の隣で働けますか」


 四つ目が来たので、私は黙って綱を絞った。


 水がばしゃりと彼の長靴へかかった。


「それは返事ですか」


「片づけです」


 エドワード様は濡れた長靴のまま、八の字を崩さなかった。


 その日から彼は、水量調査のたび帳場へ入り、水位帳と通行料帳を見比べた。


 最初のずれは、増水日の舟数だった。私の水位帳では運航中止。通行料帳では六艘が無事に渡り、判断者はバーナード。


 二つ目は、フィンを救った日の綱だった。支給札は三巻とも使用済み。修繕票には未使用、保管責任者はバーナード。


 三つ目は夜番の回数。水位帳には私の記録が月に十八夜。賃金欄には受領済みの印。私の手元には一枚もない。


「数字が毎回、同じ人に都合よく転びますね」


「数字も監督を恐れているのでしょう」


「君は?」


「恐れていたら、ここまで帳面を残しません」


 言ってから、水位帳を閉じた。


 名誉を求めれば、もっと奪われる。それは幼い頃から覚えた順番だった。泥さらいを断れば食事を減らされる。戸口ではなく中で食べたいと言えば、仕事が遅いと決められる。夜番の賃金を問えば訓練になる。


 一つ要求する。


 二つ奪われる。


 三つ目からは、言わない。


「マリアン」


 呼ばれても、私は帳面の留め紐を結び直した。


「原本がある」


 オスカーが帳場の奥から三巻の帳簿を抱えてきた。支給簿、水位帳の控え、通行料帳。その上に、署名入り修繕票が重なっている。


 古い紙の角は丸くなっていた。保存された年月の分だけ、重い。


「写しではありませんか」


 エドワード様が尋ねる。


「原本だ。支給札の番号も、受領者も、修繕の申告者もある」


 オスカーは私ではなく、机の中央へそれを置いた。


「私が見なかった欄も、私の責任だ」


 慰めはなかった。だから受け取れた。


 バーナードが戸口に立った。


「勝手に帳簿を持ち出すな、マリアン!」


 私一人だと思ったらしい。舟板を叩く時と同じ声量だった。


 エドワード様が帳場の陰から出る。


「確認のため、お借りしています」


「ああ、これは公爵令息様。本人が望んだ訓練の記録でして。若い者には厳しさも必要かと」


 声が痩せた。見事である。水位より変化が読みやすい。


「次に舟を損ねれば追放だ、マリアン。これは決定事項だ」


 それでも私へ向くと、語尾だけ太くなる。


「修繕済みと署名した綱を、確かめなくてもですか」


「俺の署名を疑う気か」


「疑っていません。読みました」


 署名は疑うものではない。残すものだ。


 バーナードは修繕票をひったくり、紙の端を折った。


 翌朝、私はいつもどおり三巻の綱を点検した。


 一巻目。毛羽立ち、異常なし。


 二巻目。湿り、異常なし。


 三巻目を杭へ掛け、荷重を移す。


 麻綱が鳴った。


    *    *    *


 乾いた裂け音が、手の中を走った。


 体が後ろへ持っていかれる。舟縁が腰へ当たり、次には何もなかった。


 水。


 杭へ片腕を打った。指が開かない。外套が水を吸い、足を下へ引く。岸は見える。見えるのに近づかない。


 泳げる。流れも知っている。淀みの抜け方も知っている。


 腕が動かない。


 その瞬間だけ、はっきり分かった。


 怖い。


「マリアン!」


 岸でエドワード様が切れた綱を拾った。


 違う。それは使えない。切れた一本を捨てて残りを——声が出ない。水が口へ入る。


 彼は切断面を見た。次に支給札を見た。


「残り二巻を持ってきてください! 六人、二人一組で三組!」


 短い命令が飛ぶ。


 切れた綱の端を折り返し、二本目へ重ねる。輪を返す。端をくぐらせる。


 一度。


 二度。


 二重はた結び。


 彼の指が迷わない。


「結び目は滑車の外」


 同じ言葉だった。


 結び目が滑車の手前へ置かれる。残る二巻がつながる。六人が二人ずつ並び、エドワード様自身が先頭の組へ入った。


 八の字に畳まれた綱から、輪が一つ取られる。


 一投。


 私の肩の先へ落ちた。


「右腕は使わないでください! 左を輪へ!」


 指が水面を掻いた。届かない。


「マリアン、こちらを見て!」


 命令調だった。


 見た。


「もう一度投げます!」


 八の字がほどけ、今度は輪が胸へ当たった。左手を通す。肘まで。そこで外套が沈み、輪が脇へ食い込んだ。


 まだ引かないで。


 伝える前に、彼が叫ぶ。


「『三つ数えてから』と言ったのは君だ」


 綱を握る六人の肩がそろった。


 一つ。


 輪が締まる。


 二つ。


 六人の視線が綱へ落ちる。


 三つ。


「引け!」


 体が水から剥がれた。


 岸へ上がるまで、私は何もできなかった。綱へ左腕を預け、六人の力へ預け、彼の号令へ命を預けた。


 泥へ引き上げられる。エドワード様の腕が背中へ回った。右腕には触れず、外套の留め具だけを外す。


「息は」


「でき、ます」


「腕は」


「打っただけです」


「もう舟へ乗るな」


 救助直後の第一声がそれである。覚えた手順は満点、過保護は再試験。


「一件、不採用です」


「一件で済ませました」


 彼の額が私の濡れた髪へ触れかけ、止まった。


「触れても?」


 私は答える前に、切れた綱を見た。


 断面が平らだった。裂けた麻なら、繊維は長さを違えて乱れる。これは何本もの繊維が、同じ位置で短くそろっている。


 刃だ。


 支給札の番号は、昨日バーナードが修繕済みと署名した番号だった。


「先に、仕事です」


 エドワード様は一度だけ目を閉じ、私の背から腕を外した。


「分かりました」


 それでよい。


 私を囲う腕より、私が選んだ順番を守る手のほうが信用できる。


    *    *    *


「読み上げてください、バーナード」


 公開の調査席で、私は水位帳を開いた。


 常連の船頭、荷運び人、舟を待つ客が帳場を囲んでいる。記録官は机の端で原本の印と綴じ紐を確かめた。


「これは、どういう真似だ」


 バーナードは私へだけ低く言った。


「調査です」


「お前のような役立たずの証言で、俺を——」


「証言ではありません」


 オスカーが三巻の原本を置く。


 エドワード様は椅子を引かなかった。バーナードが自分で座ろうとした椅子は、いつの間にか常連の手で壁際へ寄せられていた。


 立ったまま読むには、よい高さである。


「最初は水位帳です。増水日の欄を」


「読み上げる義務など」


 記録官が修繕票を示した。


「署名者の確認を」


 バーナードの指が紙の端を折り始めた。


「署名者は、私です」


「敬称を使えるようになったのですね。では続けます」


 私は一つ目の欄を指した。


「水位、運航判断、記入者」


「水位は……警戒値を超過。運航中止。記入者、マリアン」


「治水院へ提出した報告では?」


 別紙を置く。エドワード様が持ち帰らず、原本と照合できる形で預けたものだ。


「監督バーナードの判断により六艘を安全に通した、とあります」


「現場全体の責任者として、成果をまとめただけです」


「六艘は通りましたか」


「結果として事故は起きていない」


「通りましたか」


 客の中から、あの日岸で待たされた者たちが前へ出た。


 バーナードの声がまた少し痩せる。


「……通っていない」


「では、安全に通したという報告は?」


「事実ではない」


「成功を自分の名へ移したのですね」


「……はい」


 紙の端を折る指が止まった。


 一つ。


 私の働きを消したことを、本人の口で原本へ戻した。


「次は支給簿です。十二尋綱、三巻。番号と受領者を」


「三巻。番号は記載のとおり。受領者は私です」


「修繕費は?」


「三巻分を受領」


「誰が修繕しましたか」


「作業の指示は、私が——」


「誰の手で?」


 オスカーが修繕票の控えを開く。麻糸、蝋、交換札。受け取り欄は空白だ。


「マリアンです」


「私は支給を受けていません。古い綱から使える繊維を抜き、継ぎました」


「経費を節減するためだ!」


 声が一度だけ太く戻った。


「では、受け取った修繕費はどこへ?」


「管理費として必要だった」


「帳簿へ記載は?」


「……ない」


「返せますか」


 エドワード様が問う。


 バーナードはそちらへ向き、両手をそろえた。


「公爵令息様、現場には帳面だけでは計れぬ出費がございまして——」


「質問したのはマリアンです」


 彼は私へ向き直った。椅子はない。逃げ道も、もう二つ消えた。


「返せますか」


「全額、返します」


「受領した修繕費を抜いていたのですね」


「……はい」


 二つ。


 盗られた金は、同情より数えやすい。しかも返ってくる。たいへん健康によい数字である。


「三つ目。署名入り修繕票を」


 私は昨日折られた紙を伸ばした。


「支給番号を読んでください」


 バーナードの口が動かない。


「読み上げを」


「第三巻。支給番号は……この番号だ」


 机には切れた麻綱が置かれている。泥を落とした支給札と、平らにそろった切断面が、全員の目へ向いていた。


「修繕内容は?」


「毛羽立ちを確認し、該当部分を切除。継ぎ直した。荷重試験済み」


「署名者は?」


「私だ」


「今朝、この番号の綱が切れました。切断面には古い継ぎ目がありません。荷重試験をしたなら、なぜ刃の跡を見落としたのですか」


「お前の点検不足だ!」


 舟板を叩いていた声が戻った。


 私は切断面の隣へ、彼の修繕票を並べた。


「点検不足による破断なら、繊維は引かれて裂けます。これは刃でそろっている。さらに修繕票には、昨夜この綱を保管棚から出し、今朝戻したと、あなたの字であります」


「修繕のためだ」


「どこを?」


「それは」


「切除した古い部分は?」


「廃棄した」


「継ぎ目はどこです?」


 ない。


 白い紙、黒い署名、平らな切断面。どれも声を上げない。声を上げる必要がない。


「私が落ちれば、次に舟を損ねたとして追放できましたね」


「違う」


「では、なぜ刃を入れましたか」


「違うと言っている!」


「昨夜この綱を保管棚から出し、今朝戻した者は、記録上あなた一人です。刃を入れていないのなら、この修繕票が虚偽です。刃を入れたのなら、事故を作った。どちらを記録しますか」


 記録官が筆先を紙へ置いた。


 バーナードはエドワード様を見た。


 エドワード様は何も言わなかった。


 オスカーを見る。


 オスカーは原本から手を離さない。


 常連を見る。


 誰も壁際の椅子を戻さない。


「……追放するつもりだった」


「聞こえません」


「綱へ刃を入れた。事故を起こし、マリアンの責任にして、追放するつもりだった」


 記録官の筆が動く。


「成功した救助は自分の功績にし、破損と事故だけを私の責任欄へ足しましたか」


「はい」


「修繕費を抜きましたか」


「はい」


「夜番賃金も?」


 私は水位帳の最後の欄を開いた。十八夜、十五夜、二十一夜。私の数値が並び、隣には受領済みの印がある。


「本人が望んだ訓練だった」


「受領済みの印は?」


「俺が押した」


「誰が賃金を受け取りましたか」


「俺だ」


「戸口で食べさせ、無給で夜番をさせ、働きだけを自分の名へ移した。間違いは?」


 バーナードの喉が上下した。


「ない」


 三つ。


 役立たずと呼んだ口が、私の働きを一項ずつ返した。


 胸の内側に長年積もっていた泥が、きれいにさらわれていく。ああ、これはいい。川風よりずっとよく効く。


 記録官が原本の署名を確かめた。


 エドワード様が治水院の処分欄を開く。


「バーナードの監督職を解きます。不正に受領した修繕費および夜番賃金は全額返還。切断による損害も賠償額へ加算します」


「待ってくれ。ここを追われたら、俺は——」


「追放はしません」


 私は言った。


 バーナードが顔を上げる。


 赦されたと思った顔だった。採点するなら零点。問題文を読んでいない。


「護岸の修繕が残っています。賠償を続けながら、私の指示下で働いてください。監督職へは戻しません」


「お前の下で?」


「返答を遮らないでください」


 舟板を叩く靴先が動いた。けれど、もう私のつま先までは届かない。


「作業時刻と賃金は記録します。怠れば、その欄も残ります」


 バーナードは署名欄を見た。記録官の筆、オスカーの原本、切れた綱、囲む人々。


 逃げずに働く。


 奪った分を返す。


 私の指示に従う。


「……承知しました」


 署名が置かれた。


 そこで初めて、常連たちが動いた。


 船小屋の戸口にあった私の小さな椅子が持ち上げられる。誰かが帳場の中央を空け、オスカーの大きな机の前へ運んだ。


「違う」


 オスカーが言った。


 椅子を運んだ手が止まる。


「そちらではない」


 彼は自分が使っていた中央席を引いた。


「渡し場主任の席はここだ」


 記録官が新しい主任欄を開く。


 マリアン。


 私の名が書かれた。その下に、これまでの救助三件、水位記録、綱の修繕実績が治水院の功労記録として転記される。


 戸口ではない。


 事故の責任欄だけでもない。


 帳場の中央へ、私の名が残る。


 椅子へ座ると、机が少し高かった。


「足台が要るな」


 オスカーが言った。


「そこは記録しなくて結構です」


 周りから笑いが起きた。


 エドワード様だけは笑わず、一枚の書面を私の前へ置いた。


「まだあります」


「横領の追加ですか」


「私の不首尾です」


 書面には三条が並んでいた。


 一、マリアンの勤務を奪わない。


 二、乗船前に本人の許可を取る。


 三、夜番を分担する。


「仕事禁止は撤回します。屋敷へ囲う提案も」


「ようやく結び目が正しくなりましたね」


「署名します」


「公爵家の印だけでは足りません。本人の自筆で」


「もちろんです」


 エドワード様は三条の下へ名を書いた。記録官が署名を確かめ、オスカーが証人欄へ署名する。


 甘い言葉より、撤回できない字のほうが好きだ。


「これで、君の隣で働く許可をいただけますか」


「夜番は半分です」


「はい」


「綱の点検は私が主任です」


「はい」


「舟へ乗る時は」


「君に尋ねます」


 三本の麻綱を覚えた人は、三つの境界も一語ずつ覚えた。


 救われたからではない。


 私の仕事を奪わず、私が教えた手順を岸から返し、私の名が中央へ戻るまで待った。その事実が、署名と一緒に机の上にある。


「では、交際の申し込みも記録しますか」


「それは公文書にする必要がありますか」


「私は撤回しません」


「私にも選ぶ欄をください」


 エドワード様が一歩だけ下がった。


「お願いします。私を選んでください、マリアン」


「受け入れます、エドワード」


 初めて呼ぶ名は、濡れた綱より扱いが難しい。


 彼が両腕を少し広げ、そこで止めた。


「抱き上げる許可ですか。却下します」


「では、何なら」


 私は中央席から立ち、左手を差し出した。


「手を貸す許可なら、ひとつだけ」

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