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亡国皇女の追想

作者:




 時代の趨勢というものは女の身では見極めることは難しく、私はただその時々の最善を選んで生き残ってきました。

 私は亡国の王女として生まれ物心が付くまで王宮で何不自由なく過ごしていたそうです。どうして曖昧な伝聞かと言えば、私自身の記憶の始まりは教会だったからです。後々に自分の身分を知った時にはそんなお伽噺のようなことあり得ないのだと抗弁もしましたが、それは悉く覆されて私も認めざるを得なかったのです。何より、教会の神父様からやんごとなき人から訳ある子だからと託されていたという告白は私の期待をへし折るものでした。

 私は物心が付いてから本格的に神に身を捧げる頃まで教会で慎ましやかな生活をして成長していました。友人達とささやかな悪戯をし神父様やシスターを困らせることもありましたが、本当に牧歌的な生活をしていました。自分が生まれて暫くして起きた戦争というものの実感もなく、多くの国が併呑されてヴィンケル王国が拡大したことも情報として知っているだけでした。何しろ王都から離れた片田舎では戦争による影響を感じることは稀だったのです。

 教会の庇護の元で暢気に成長していた私は、当然のように将来は神に仕えるのだと考えていました。

 平和というものは永遠のものではないと思い知らされたのは成人の儀を迎える前でした。

 王都で王が崩御されたことを皮切りに王位継承権を持つ王子達が立て続けに暗殺されたのです。それでもその時は物騒なことがあるものだと余所事のように考えていました。何しろ王都から離れたこの片田舎は嘗ては違う国が治めていた土地で重要視されていなかったのです。争いから避ける為に都市部から人は流入してきましたが私達は細々と生活をしていました。早く、次の王が即位して欲しいと私はそれを願っていました。王が即位すれば平穏な生活が戻ってくると考えていたのです。

 幾つかあった王位継承の争いの勢力はやがて二つに集約していきました。一つは崩御した前王ヴァーリック様の兄の子、つまりは甥にあたるオルローク様を王にと望む勢力で、もう一つは前王の王弟ミロス様を王にと推す勢力でした。二つの勢力は拮抗していましたがそれぞれの勢力は各都市を手中に収めて支持を増やそうとしていました。政治のことに疎かった私は知らなかったのですが、私のいた教会は予てよりミロス様を密かに支持していました。後々にそれを知らされてお忍びで来ていた高貴な人が私を含め教会で暮らす孤児を幾度も慰問していたことを思い出したのです。優しく私の頭を撫でてくれたあの人が争いの渦中の当人なのだと知った時は胸が拉いだものです。

 戦争の気配は徐々に片田舎にも漂ってきました。

 オルローク派の軍隊は教会がミロス様を支持していると知っていたのか教会を取り囲み降伏を勧告してきました。神父様は誤解だと遣いを向かわしましたが事態は好転せずに教会は屈強な騎士達が雪崩れ込んできました。教会には僅かばかりの護衛騎士様がいましたが、争いなどに不慣れな上に、多勢に無勢呆気なく制圧をされました。教会にいた多くは女と子供で騎士達は褒賞代わりに攫おうとしました。神に身を捧げたからと屈辱に耐えかねて命を絶った友人もいました。教会の中は筆舌に尽くしがたい恐ろしいことになっていました。逃げようとしましたが急なことで私の足は棒のようになり逃げ遅れて騎士の一人に腕を掴まれました。騎士は私を見ると品定めをするように頭の天辺から爪先まで視線を彷徨わせました。教会という禁欲の世界で男の肉欲にこれまで晒されることがなかった私はその浅ましい情に怖気を感じました。抗議の言葉は喉の奥に絡まり、逃げる為の足は震え、男の劣情を一層煽るだけでした。何をされるのか、男が女に暴力的なことをするという知識は持っていた為、私は怖くて混乱していました。

 腕を掴んでいた騎士の掌から力が抜けてその身体が地面に伏していることは私にとって驚くべき事でしたが、倒れた騎士の奥に頑強な鎧を身に纏った勁悍な騎士の姿を見かけて私は自分が助かったわけではないことに気付きました。

「それは、俺のだ。失せろ」

 低い厚みのある男の声というものを私はその時初めて聞きました。それまで私が聞いてきた男性の声は柔らかなまろみのあるものばかりだったのです。

「はっ!? 何言ってやがる、俺が先に見付け――申し訳ありません、失礼します」

 私を最初に掴んでいた騎士は後からきた長躯の騎士を振り返ると顔を青ざめさせて膝を払い去ってしまったのです。

 何が起きたのかその時の私には分からないことでした。後々になって、後から来た白銀の髪を持つ勁悍な騎士は軍の中でも指折りの高貴な貴族なのだと知りました。

 先程の騎士と同じように彼も私を凝視しました。ですが、それは先程の品定めとは違うもので私の髪に目を留めると驚いたように眼を瞠りました。

「……名前は?」

「み、ミラです」

 喉から絞り出した声は掠れていました。

「それは地毛か?」

 彼の指は無遠慮に私の髪に触れました。

 奇妙な尋ねの意図を考えていると焦れたように彼は私の髪を軽く引っ張りました。

「地毛です……」

 暴力を振るわれるという恐怖で私は慌てて答えましたが、何故そのような質問をされるのか全く覚えがありませんでした。

 私の髪は黒いですが、教会には同じ黒髪の子が沢山いたのです。珍しい色ではないと思わず彼を見詰めてしまいます。私からすれば彼の髪の色の方が余程珍しい色です。日常生活ではお目に掛かることがない白銀でした。清潔感のある短髪に刈り上げられていましたが、初めて見た白銀は目映く見えました。意思のある双眸は琥珀色でした。

「歳は? 家族は? 神に仕えているのか?」

 矢継ぎ早に質問をしてきた彼は及び腰になった私に気付いたのか逃さないよう腕を掴みました。その力は先程の騎士とは違う軽いものでした。私は私の知りうる限りのことを言葉少なにですが伝えると、彼は私の手を引いて歩き出しました。

 何処へ連れて行かれるのか、殺されるのかもしれない、と怯えていた私は教会から連れ出されて彼らが駐留している宿泊施設へと押し込まれました。

 教会の神父様の部屋よりも豪華なベッドとデスクと椅子が設置されている部屋に連れ込まれて私は身体を強ばらせました。男がどのように女を陵辱するのか知識としては知っていたつもりです。ですが、目の前の屈強な男の相手を自分がするのだと思った瞬間に気分が悪くなりました。怖くて怖くて逃げ出したくて、しかし逃げることもできなかったのです。自分と頭二つ分は違う上背のある男の威圧感に私は抵抗をする気を削がれていました。

 彼の手が私の腰に回されて引き寄せられました。自分の腕とは比ぶべくもない太い男の腕に抱き寄せられるのは初めてでした。

「やっ、私、いやですっ」

 恐怖を振り払って私は拒否の意思を示しました。少し声が泣き声になったのは恐怖によるものです。

 彼は私の言葉など取り合うつもりがないのが私の身体をベッドに突き飛ばしました。軽い力にも私は呆気なくベッドに倒れ込んでしまいます。

「勘違いするな。ぶっさいくな泣き顔になってるぞ」

 呆れを滲ませた彼の声に私はベッドから逃げようとするのを押し止めて顔を向けました。

「胸も尻もない子供に興味はない」

 ごつごつとした男の手が私の胸とお尻を無遠慮に撫でました。

「ひぃいっ」

「予想通り色気のない声だな」

 彼がどこまで本気なのか分かりませんでしたが、兎に角彼は私の泣き顔と声が不満で興が削がれたようでした。

「暖を取るだけだ」

 そう言うと彼はベッドに横になり私を後ろから抱き締めました。

 言葉通り、本当に彼は私を陵辱しなかったのです。

 これがグリモアルト・トーヴィルとの始まりの一夜でした。

 翌日から私は彼の部屋で待機するよう命令されました。どういう意味なのか分かりませんでしたが、彼は腰に剣を据えており、私は無力な女でした。

 彼は日に何度も部屋に戻ってきては私に食事を持ってきました。二日目からはそれに甘い嗜好品が添えられて、三日目には部屋から出られない私を憐れんだのか花を持ってきてくれました。節張って剣胼胝のできた手が小さな花を手にするのは酷く不釣り合いで、目を瞬かせば彼は不機嫌そうな顔をしました。そして夜には訊問をしながら私を抱き締めて眠るのです。

 最初こそ戒心していた私ですが幾日か過ぎて私は自分が助かったのではないか、と考えるようになっていました。グリモアルト様の考えは分かりませんが私を殺すつもりはなく、もしかしたら解放してくれるのかもしれないと思うようになっていたのです。

「肉付きは悪いが、まぁ……それなりか」

 眠る時以外にも彼は私を後から子供のように抱き締めることが多くなりました。思いの外優しい手に私の戒心は解けていきました。

「わ、私を食べるつもりなのですか。王都では人食が流行っているのですか!? 皮と骨で食べではありませんよ」

 身体を縮こまらせれば彼は、馬鹿な子だと私を優しく見詰めて笑いました。

「人を蛮族みたいに扱うとは良い度胸しているな」

「だ、だって、私王都のことなんて、何も――」

 物を知らぬ私にはグリモアルト様が本当のことを言っているのか嘘を言っているのか見極めるのは酷く難しいことでした。

「まぁ、これから知ることになるだろうな」

 未来のことをそれらしく言う姿は本当のようにも嘘のようにも思えました。

「小さい手だな。荒れている」

 私の手よりも一回りも二回りも大きな掌で掴んで興味深げにグリモアルト様は見詰めていました。その眼は購入した品物に瑕疵があるか確かめる眼に似ていました。

 私の掌の輪郭を撫でるその指先は性的な緊張感は一切ありませんでした。

「今度は手を保湿する薬を持ってこよう」

 私の手荒れなどグリモアルト様にはどうでも良いことです。私に親切にしても、私が返せるものなど何もないのです。グリモアルト様の目論見が分からず私は困惑するばかりでした。

「……どうして、私によくしてくれるのですか?」

 知りたいが答えを聞くのが恐ろしいことを私は思わず尋ねていました。少し驚いたように眼を瞠ったグリモアルト様は視線を逸らしました。

「お前を助けたのは俺の益になるからだ」

 その言葉の意味も分からず私は抱き締める手が優しくてグリモアルト様は優しい人なのではないかと思うようになりました。

 そうして旬日が過ぎ王都では王位継承争いに決着が付いて、ミロス様を破ったオルローク様が即位をしたのです。

 そうして、私の運命が大きく変化した日が訪れました。

 オルローク様が敵対していたミロス派の掃討の為にこちらに立ち寄ったのです。私は後になって知ったのですが教会が中核となりミロス様の支援網が一帯には出来上がっていたのでオルローク様が警戒するのも今に思えば当然のことでした。

 グリモアルト様は私を入浴させて身嗜みを手ずから整えました。子供みたいで恥ずかしいという訴えの言葉は向けられた険相によって飲み込まざるを得なかったのです。これまで着ていた質素な服とは違う、それこそ令嬢が着るようなドレスを無理矢理着せられて私は物理的に息が出来ない状態になりました。

「洗えば、マシになるな。これなら気に入るか」

 若草色のドレスを身に纏った私を見てグリモアルト様は笑いました。

 私の手を掴むとこれまで歩くことを禁止していた施設の中を歩き出しました。重厚な扉を叩いて中からの返事を待ってグリモアルト様は扉を開きました。

「お前が探していた相手を見付けた」

 公的な場ではないからかグリモアルト様の口調は気安いものでした。握りしめていた私の手を離すとグリモアルト様は部屋の奥の人物に声を掛けました。

 白い騎士服に身を包んだ金髪の青年は緑色の目に人懐っこい色を滲ませてグリモアルト様との距離を詰めました。

「君が連絡を寄越してきたから、俺自ら来たんだ」

「手紙にも書いたが――」

「分かっているよ。人擦れしてないんだろ」

「オルローク……」

 呆れたようにグリモアルト様が零した名前に私の身体の内にあった警戒回路は即座に作動しました。

 この国の王が目の前に居る、と慌てて頭を下げました。

「君がミラかい」

 グリモアルト様の後で頭を垂れている私に気付いたのかオルローク様は視線をこちらに向けました。近付いてくる足音に逃げ出したくなる気持ちが膨らんでいきます。

「驚いた。本当に髪が黒いんだな」

 許可を得ずにオルローク様が私の髪を一房手に掴みました。まるで絵の真贋を確かめるかのような慎重な目付きでした。

「オルローク」

「ああ、分かってるよ」

 溜息を零してオルローク様は私の髪から手を離しました。

「顔を上げてくれるかい? 大丈夫、安心して。君を傷付けるつもりはないよ」

 柔いまろい声には威厳のようなものは感じられず私はゆっくりと顔を上げました。かちあったのは青竹色の眼で、そこには敵意は感じられず寧ろ好奇の色が滲んでいました。

「驚いた、予想よりも可愛いだなんて」

 そう言うとオルローク様は嬉笑しました。それが演技には見えず私は混乱しました。可愛いだなんて男性に言われたのは初めてでした。

「悪趣味だな」

「余計な世話だよ」

 唇を尖らせたオルローク様は私に瞳を据えると薄く笑って手を握りしめました。

「ミラで合っているかい?」

「ミラ……です」

「初めまして。俺はオルローク。この国の王だ」

 慌てて服従の礼をとろうとすればオルローク様は私の行動を制しました。何故だろうかという疑問が容に浮かんでいたのかオルローク様は苦笑しました。

「畏まらないで。君にはそういう態度を取って欲しくないんだ」

 初めて会った筈なのにそこはかとない好意が漂ってきていることは人間関係が狭かった私でも分かりました。

「それで、証拠は本当なのかい?」

 グリモアルト様に顔を向けたオルローク様の声は私に向けていた声とは違うものでした。私に向ける声が幼子に怖がられない為の優しい声だとすれば、グリモアルト様に向けるのは事情を共有している同志への期待の滲んだ硬質なものでした。

「神父ならば生かしたままだ。聞きたきゃ自分の耳で確認すれば良い」

「この黒髪も偽物じゃないだろうね」

「先刻俺が髪を洗ってもそのままだ」

「君がかい?」

 不服そうなオルローク様の声にグリモアルト様は不本意そうに溜息を吐きました。

「他の誰かにさせるわけにはいかないだろう」

 自分の黒髪が何か問題になっているのだと二人の会話で気付いた私は思わず声を漏らしてしまいます。

「黒い髪の子なんて沢山、居ます……」

 私の言葉にグリモアルト様とオルローク様は顔を見合わせると私に視線を向けました。グリモアルト様の琥珀色の眼には呆れが滲み、オルローク様の青竹色の眼には惻隠が滲んでいました。

「君以外は全部偽物だよ」

「え」

「黒い髪に蒼い目は亡国の皇族の徴というのは有名な話だよ。叔父上が肩入れをしていたのも一部では有名な話だ」

 十数年前に滅んだ国のことなど私は知らずに生きてきました。そして、この時に初めて教会に慰問に来ていた高貴な人がミロス様だったのだと知ったのです。戦いに敗れたのがあの優しい人だと知って私は悲しくなりました。

「待って下さい。違います。私、違います。皇女なんてそんな、私はそんなの知りません。私には親はいなくて、教会でみんなと一緒に暮らしていて、成人したら神に仕えて……」

「神父から言質はもらっている」

 必死に否定をしようとする私の言葉を面倒そうな顔をしたグリモアルト様が遮りました。そんなグリモアルト様にオルローク様は突っ込みを入れるかのように声を掛けました。

「何したんだい、君」

「黙っていたらミラが不幸になるだけだと言ったら素直に口を割った。自分の身はどうなっても良いから皇女はミロス様から託された大切な存在だから丁重に扱って欲しいだと」

 私の与り知らぬところで話はどんどんと進んでいきます。私が亡国の皇女だというのはまるで確定された事実かのようにグリモアルト様とオルローク様は話していますが私の耳を素通りしていきました。

「叔父上が敵国の皇族と交流があって生き残りを保護しようと画策していたのは事実だし、証言もある。時期も髪と眼も合致している。本物に間違いないだろう」

 私を見詰めて深く頷くオルローク様は薄く笑うと言葉を続けました。

「ミラ、君にはこれから王都で俺を支えてもらうことになる。良いね」

 尋ねると言うよりは事実を通達する事務的なもので私は自分が王都に連れて行かれるのだと言うことに驚きました。

 支えるとは何をするのかと尋ねようと私が口を開くよりも先にグリモアルト様の低い声が私の耳朶に触れました。

「おい、オルローク」

 不満の滲んだその声に私は王都に連れて行かれることに抗議するものだとばかり期待しましたが、事実は残酷でした。

「誰がただでやると言った。これを保護するのにそれなりに労を割いたのだからそれ相応のものをもらえて当然だろう」

「君、がめついね。恩を売っておこうとか思わないの?」

「売っているから格安で手配してやっているんだが」

「これぐらいでどうだい?」

「ふざけているのか」

「じゃあ、これぐらいは?」

「もう一声」

 指で数字を表しながら軽口を叩く彼らの姿を見詰めながら私の頭は混乱を極めました。まるで金銭が差し挟むような台詞は私を売り買いしているようでした。

「待って下さい。グリモアルト様。私、これからどうなるのですか?」

 庇護してくれるとばかりに思っていたグリモアルト様に声を掛ければオルローク様はつまらなそうにグリモアルト様を見遣りました。

「随分と君に懐いているようだね」

「冗談だろ」

 心底迷惑だと顔を顰めたグリモアルト様に私は思わず一歩後ずさってしまいます。

「……でも、私に優しくしてくれたではないですか」

「オルロークに渡すものに不備があったら問題だろう」

 それ以外に理由などないときっぱりと断言されてしまい私はグリモアルト様を過剰に信じていた自分に気付かされてしまいました。

「君、少し優しくし過ぎたんじゃないのか?」

 咎めるような眼差しを向けたオルローク様にグリモアルト様は不本意そうに首を竦めて溜息を零しました。

「ふざけたことを言う。敵国の皇女などに気を許すとでも思ったか。おめでたい馬鹿な女だ。お前を探して助けたのはミロス派に不利になると思ったからに過ぎない」

 敵なのだと念押しをするように告げたグリモアルト様に私は落胆しました。私に触れる優しい手は全て偽りだったのです。

 グリモアルト様は私を出来るだけ高値で売りたかったのでしょう。その為の優しさに懐柔されてしまったことは恥じ入るばかりでした。

「……そうですか」

 その時の私は寄る辺を失った気分でした。

 不用意に人を信じた自分の迂闊さを疎みました。

 騙したのか、とグリモアルト様への憤りは確かにありましたが、その感情は自分を情けなく思うことに塗り潰されていきました。勝手に錯誤して、期待をして、裏切られた気持ちになったのは私の都合でした。彼は一度たりとも私を救うとも言わなければ自分の都合を話していなかったのです。

 そうして、私の所有権はグリモアルト様からオルローク様に正当に移ったのでした。

 それから私は亡国の皇女として扱われるようになりました。オルローク様の部屋で管理をされ、表面上は大切に扱われました。

 王都へとオルローク様と移動することになった前夜に私は神父様と面会をすることになりました。部屋の外には監視がいましたが、小さな部屋で私は神父様と久しぶりに顔を合わせました。ミロス派の一人として処刑をされる神父様は私が知る姿とは掛け離れていて痩せ細っていました。酷い拷問にあったのだろうと思うと直視するのが恐ろしくて私は目を逸らしてしまいます。

「貴方を守り切れず申し訳ありませんでした」

 皮と骨になった両手で私の手を掴んで悔しそうに神父様は首を項垂れさせました。

「神父様」

 威厳のある恐ろしい姿が印象に残っている神父様の気弱な姿に私はなんとも悲しい気持ちになりました。

「……貴方は本当に皇女なのです。ミロス様が亡国の皇族から託されて教会に成育を見守るように言いました。これから辛いことが御身に降り掛かるでしょう。辛いことがあったらどうぞこれで祈って下さい。貴方のお母様が肌身離さずお持ちになっていたお守りです。きっと貴方を守って下さるでしょう」

 そう言って隠しポケットから取り出したお守りを私に握らせました。

 神父様との永遠の別れが訪れ、私はオルローク様に連れられて王都へと向かいました。




 黒髪が私以外にはいないというのは大袈裟な話だとばかり思っていましたが、王都に着いてそれが本当なのだと思い知りました。私の黒髪はとても目立ち、そして嫌忌な眼で見詰められました。それを憐れんだのかオルローク様は私にベールを被っても良いと準備をして下さったのです。私は日中ベールを被って過ごしました。

 オルローク様は私に慈悲を与えたつもりだったのかもしれませんが私には王都に到着することこそが苦難の始まりでした。慣れぬ王宮での生活に心身は疲弊しましたが私には戻る場所すらなかったのです。王都に到着してからの私の生活はそれまでとは一変しました。私は亡国の皇女として扱われました。それは丁重に扱われるというよりは腫れ物に触れるようなよそよそしさを孕んだ危ういものでした。十数年前に戦争は終結しているといえど、私は敵国の人間だと目に見えて明らかだったのです。王宮では嫌忌の眼差しに晒されることもありました。嫌がらせだって受けたことがあります。私はオルローク様の役に立つよう礼儀作法を身に付けるよう強いられました。幾人もの先生によって私は王宮の礼儀作法を学ぶことになりました。多くの人は物を知らぬ私に呆れたような目を向けていましたが、敵意にも晒されていた私には十分耐えられるものでした。

「こんな相手を妻にするなんてオルローク様も可哀想に」

 蔑みの言葉に私はイングヴァルト・プレヴィンを窃視しました。こちらの反応を楽しむような悪意を滲ませた笑みに私は手元のテキストに視線を向けて平気だと笑みを浮かべます。

「オルローク様からそのような話は聞いていません。結婚なんて誤解なのではないでしょうか」

 王都に来て暫くして私は自分がオルローク様の妻になる為に連れてこられたのだという噂を聞き及びました。けれど、肝心のオルローク様からそういった話は一切ありませんでしたので、あくまで噂なのだろうと思っていました。亡国の皇族の血縁を保護するには何か他に理由があるのではないかと私は考えていたのです。

「結婚に、お前の意思なんて関係ないだろう」

 両者の合意に基づいて結ばれるものが婚姻だと思っていた私に自由意志はないのだとイングヴァルト様は鼻で笑います。

 後々知ることになるのですが、十数年前の戦争でプレヴィン家は随分と痛手を受けた為亡国に対しての敵意は和らいでいなかったのです。そういう相手を私の教師役に宛がったオルローク様の考えは私には想像出来ぬことでした。しかしながら、イングヴァルト様は辛辣なことを告げますが教えることに関しては私心を挟む事はありませんでした。それは私にとっては有り難いことでした。

「私と結婚して益なんてないでしょう? 貴族同士の婚姻は政治的な意味があると習いました。私には後ろ盾になる家もありません。それどころか敵国の皇族の血で負債があるではありませんか」

 王都に来てから私は自分の意見を主張することを覚えました。教会での連帯で繋がった関係による相互共有の理解というものが王宮では通じないことを知って、気持ちを伝える大切さを学んだのです。生意気だと私を憎々しげに見る人もいますが、全てに肯っていたら意志薄弱だと蔑まれるのです。どちらにしても私にとって不都合なことですが、私の生活環境をより良くする為には意見を告げた方が良かったのです。

「ああ、そこまでは理解しているのか。そう、お前自身に価値なんてないさ」

 明け透けな物言いに私は、綺麗な顔立ちをしているのに、と王宮の女性が騒ぐような美貌を勿体なく思いました。

「オルローク様は自分の出自に劣等感を持っておいでだからな」

 溜息を漏らして告げたイングヴァルト様を私は思わず凝視してしまいます。

 前王の甥であれば出自は王族でなんら恥じることはないのだと考えた私の思考をなぞったのかイングヴァルト様は鼻で笑いました。

「本当に物を知らぬ女だな。……まぁ、敢えてお前に話そうなんて奴は然う然ういないか。俺は優しいから教えてやる。オルローク様がお前と結婚したいという理由を」

 ニヤリと笑ったイングヴァルト様の言葉は到底善意とも思えませんでしたが勉強をしている最中に席を立つのも失礼なので私は黙って耳を傾けていました。

「オルローク様の父上、ウィルバート様はヴァーリック様の兄君というのは知っているか?」

 王室の姻戚関係なども貴族社会の常識と教えられている為私は頷きました。

「どうして長子であるウィルバート様が王に即位しなかったか考えたことは?」

「御身体が弱いからだと教えていただきました……」

「はっ、そんなの建前だ。ウィルバート様の母君は時の王妃ではないからな。ヴァーリック様とは異母兄弟だ。公然の秘密というやつだ」

 その時の私の驚きは如何ほどか推察して頂ければ有り難いです。

 母親が違うという事実は理解出来ても脳での処理が追い着かなかったのです。何しろ、この国は一夫一妻でありそれは王であってもかわりありません。王には妻となる王妃は一人なのです。愛人と目される夫人はいても、側室を正式に持つ王というのは聞いたことがありませんでした。その上、ウィルバート様のお母様は王妃様なのだと私は教えられていました。愛人の子だなんて話は初めて聞くことでした。

「そんなっ――」

「まぁ、民衆には同腹だと言われているからな。違和感を覚えた者がいたとしても敢えて口に出す者もいないだろう」

 王室の公然の秘密に私は驚きました。そして、一番に思ったのは自分が腹を痛めて産んだ子供ではない子を実子として扱った王妃様の気持ちでした。同じ女として惻隠の情を抱かずにいられませんでした。

「ウィルバート様は御身体が弱いと小さい頃から執務から遠ざけられていた。それこそ離宮で過ごされることが多く、王に顧みられることも少なかったと言われている。オルローク様も同じような立ち位置だ。卑しい身分の女の血が入っている、それだけで表舞台から爪弾きだ」

 あの明るい笑顔を浮かべるオルローク様の出自を教えられてうら悲しい気持ちになりましたが、それが何故私と結婚をしなければならないのかは思い至りませんでした。

 合点がいかぬ私の表情を読み取ったのかイングヴァルト様は呆れたような目を向けました。

「察しの悪い女だな。王には能力だけではなく血縁も必要なことだ。その点、敵国といえど皇女というのは格好の権威だろう。要はお前はオルローク様を引き立てる為の添え物だ。愛されるかもなんて夢みたいな不遜なことは重々考えるなよ」

 添え物と言われて私は胸が締め付けられる思いでした。私自身のことなどお構いなしに男性達は私を好き勝手に扱うのです。私を商品として売り渡したグリモアルト様、王の役に立つからと仕方がなく私を指導するイングヴァルト様、そして私に何も話そうとしないオルローク様と私は男性に対して過剰な期待を抱かなくなりました。

「……王妃として務めればオルローク様もお前を無下にはしないだろうさ」

 期待に応えなければ私は直ぐさま切り捨てられるだけの軽い存在なのだとイングヴァルト様のその言葉から思い知らされました。

「……勉強を再開しましょう」

 殺されない為には役に立つところを見せなければならないのだと私はイングヴァルト様に勉強を進めようと提案しましたが返されたのは溜息でした。

「休憩だ。根を詰めたところで効率が悪いのも気付かないのか。今のその鈍い頭じゃ無駄になるだけだ」

 そう言うと彼は部屋の外に居る侍女にお茶の準備を命じました。

 イングヴァルト様は勉強の合間にお茶の時間を設けてくれました。それは勿論私の気散じではなく、効率の問題でした。それでも、彼が準備するお菓子は美味しくて私は密かに楽しみにしていました。

 その厳しい指導のお陰で半年もすれば私は淑女の鑑と言われるようになりました。

「漸く、お前と離れられて清清する」

 別れの時にそう告げたイングヴァルト様に私は笑みを浮かべて礼を告げました。

「可愛くねぇな。最初はなんにつけてぴぃぴぃ泣きそうな声を漏らしてたって言うのに」

 不服そうなイングヴァルト様に私は頬の筋肉に力を込めて笑みを深めました。

「イングヴァルト様の指導の賜だと思います」

「……そうだな。俺の持てうる知識は全部教えたつもりだ。不出来な生徒だが、俺の生徒には違いない。まぁ、頑張ったな。それは認めてやる」

 そう言ってイングヴァルト様はヴェール越しに私の頭を撫でました。初めて認められたような気がして嬉しかったのを今でも覚えています。

 淑女として申し分の無い所作を叩き込まれた私は、オルローク様と結婚する運びになりました。

 王都に連れてこられてからもオルローク様は確かに紳士的な方でした。私に声を荒らげたり暴力を振るったりすることもなく淑女教育で悩む私の様子を心配して声を掛けるぐらいには親切な方でした。生きる上で絶望的観測が癖になった私にはそれは他者を気遣うものではなく自分の所有物を丁重に扱っているように感じていました。他人のものならば粗雑に扱うが自分のものは惜しんで大切にする、そんなものの扱いを言葉の端々で受け止めていました。顔を合わせて話をして交流を持っても私は打ち解けることが出来ませんでした。結婚をして欲しい、でもなければ、結婚をしよう、でもなく、予定通り結婚をするという決定事項を通達する言葉に落胆した自分が私は嫌で堪りませんでした。抗言することは出来ず私は肯うほかなかったのです。グリモアルト様に捕獲された時から私の運命は定められていたというのに、人の厚情を期待する浅ましさに呆れもしました。

 成人をしたら神に仕えると決めていた私でしたが、人並みに色恋に対しての憧れというものもありました。それが情愛もなければ連帯も親愛もない望まぬ婚姻関係を結ぶことになるとは夢にも思っておりませんでした。

 結婚式で愛のない誓いの言葉に肯った時のその虚しさは筆舌に尽くしがたいものでした。

 結婚式には国中の貴族が集められてその中にはグリモアルト様やイングヴァルト様も列席していましたがいつものように黒髪を隠す為に分厚いヴェールを被っていた私には表情を窺い知ることは出来ませんでした。ただ、花嫁姿の私を見てオルローク様が満足そうに笑うので自分には落ち度はないのだと私は安慮しました。

 豪華な式を終えて私には初夜という難題が立ち塞がりました。

 私の部屋を訪れたオルローク様は私を抱き寄せました。いつもよりも私に触れる回数が多く緊張を解そうとしているかのようでした。

「君が好きだよ、ミラ」

 初めて聞いた愛の言葉は夫としての最小限の義務を果たそうとしているのだと思いました。オルローク様が私を好きになる理由など私には考えもつかなかったのです。夫として配慮を見せようとしているのならば、私も妻として応える義務がありました。何しろ元より私に選択肢はなかったのです。

 少し我慢をすれば良いことだと閨房での作法は勉強していました。男性に委ねれば間違いはないから抵抗しないように、と私はオルローク様の口付けを受け入れました。肌を撫でられて、ベッドに押し倒されて私は肌が粟立ったのは気の所為だと自分に言い聞かせました。諦めを覚えることにも慣れていたのです。

 私から一枚一枚服を剥ぎ取っていたオルローク様の動きが止まり私は背けていた顔をそちらに向けました。

「怖いかい?」

 どうしてそんなことを尋ねるのだろうかと疑問に思った私に教えるかのようにオルローク様の視線がやおら動きました。胸元で握りしめていた手は小刻みに震えていました。

「震えている」

 気遣わしげな視線が私の肌を撫でました。

 申し訳なさと恥ずかしさで私は一杯になりました。

「……いえ、大丈夫ですから。オルローク様の好きになさって下さい」

 王妃としての責務を放棄することは出来ないと私は先を進めようと促しましたがオルローク様は困ったように笑いました。

「でも、泣いてる」

 オルローク様の指先が私の目尻を撫でました。

 泣いている、と言われて私は咄嗟に顔を手で触れました。確かに濡れていて私は無意識に泣いていたのです。感情をコントロールするようにイングヴァルト様からも厳しく指導されていたというのに大事な場面での失錯でした。

「……いえ、これは、その……嬉しくて――」

「嘘を吐かないで。ミラ。神と婚ごうとしていたんだ、怖いのは当然だ。少しは気を許してもらっていたと思っていたんだけど自惚れだったな」

 自嘲の笑みを漏らしたオルローク様に私はなんとか初夜を完遂しなければと頭を振り絞ります。王妃とは王の子を産むのが一番の責務です。私に望まれたのは子を産むことだと言うことは理解していました。

「大丈夫です。粗相をして申し訳ありません」

 指先の震えを押し止めようとすればするほど震えは大きくなりました。その様子にオルローク様は溜息を漏らしました。

「君が大丈夫だというまで、行為は保留にしよう。俺に出来るのはそれぐらいだ。だから、俺のこと嫌いにならないでくれないか」

 そう告げるとオルローク様は私に覆い被さっていた身体を起こして乱れた服を直そうとします。

「待って下さい。失態はお詫び致します。私に慈悲をどうか――」

「君の身体が俺を受け入れられるまで、少し時間をおこう」

 オルローク様は頑是無い子供を窘めるかのように優しい声で私にそう言いました。それは王妃として失格だと言われたも同義でした。

 オルローク様は寂しげに中扉を潜って自室へと戻って行かれてしまいました。

 そうして、失敗した初夜が再開することは終ぞなかったのです。




 妻として夫の肉欲を慰めることが出来ない私に対してオルローク様は恐ろしいほど寛容でした。夫として妻を労り、王として王妃の執務にも配慮をして下さいました。王妃として出来損ないの私は一層執務に注力しました。私が出来るせめてものことだったのです。

 共寝をせず一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ、それでもオルローク様は私を求めようとはしませんでした。

 ここまで来ると私の返事を待っているのではなくオルローク様自身が私の身体を欲するつもりはないのではないかと考え始めました。抑も、私には性的な魅力というものが乏しかったのです。嘗てグリモアルト様が私の胸とお尻のまろみのなさを馬鹿にしたように、周囲の女性と比べても私は控え目でした。あの頃よりは少しは成長していますが、それでも男に劣情を催させるほどの性的魅力は私にあるとは思えませんでした。女性として魅力に乏しい私のことなど関心を持たないのは当然なのではないかと思い始めました。悲しいことですが、どこかで肉欲を発散させていて私は不要なのだと伝えたいのだろうと思いました。もし、赤子を連れたオルローク様から自分の子供として育てるようにと命令されても笑顔で応じられるように私は何度もその光景を思い描きました。

 夫婦としてはぎこちない私達でしたが国を運営する為のパートナーとしては噛み合っていたのだと私は感じていました。

 閨で相手が出来ない分、王妃としての執務に励んだ為、王宮での視線は幾分か好意的なものに変化していました。

 このまま平穏に過ごすことが出来るのだと私は夢を見ていました。

 夢を見る時間はとても僅かでした。

 王国の北の方で聖女が出現したのは春先のことでした。怪我人を快癒させた奇蹟の遣い手だという評判は王都にも直ぐに広まりました。

 貴族の一人が是非オルローク様にお目通り願いたいと彼女を王都に連れて来ました。私はオルローク様の隣で艶やかな彼女に目を奪われました。心底から溢れる神気のようなものが彼女にはあって圧倒されました。

 金糸のような鮮やかな金髪にこれまた黄金の眼は特別な人間だと姿貌に顕されていました。表情はクルクルと変わり感情豊かな彼女は私とは真逆の存在のように思えました。

 オルローク様が王宮に彼女を留めたいと願ったのをどうして私が否定することができるでしょうか。私はオルローク様の提案に頷きました。

 明るく活発な彼女は直ぐに王宮に受け入れられました。日に何度も彼女を褒める言葉が私の耳朶に触れました。侍女の仕事を手伝った、子供に親切にした、騎士の相談に乗っている、というものでした。彼女を褒める言葉は枚挙に暇がありませんでした。そうしていくうちに不穏な空気が醸成されていったのです。

 聖女こそが王妃に相応しい、という声が私の耳に届くのにそう時間は掛かりませんでした。

 王妃として噂の火消しに奔走するのは悪手だろうと私は放置していましたが、聖女であるアルベルタ様を王妃にと推す声が次第に大きくなったのです。結婚してから子を宿すことが出来なかった、そういう関係を持っていないので当然ですが王妃として不適格だと私は陰口を叩かれるようになったのです。止んでいた嫌がらせもこの頃から再開されるようになりました。

 私の部屋に猫の死骸が投げ込まれたり、枕元に蛇を置かれていたり、呪詛の人形を執務机の上に置かれたり、と大仰なものではありませんでしたが、それでも精神を疲弊させるには十分なことでした。尤もそれよりも私の心に負担になっていたのはオルローク様が聖女にご執心だという噂を何度も耳にしたことでした。王妃の立場を簒奪されることに怯えたのではありません。ただ用済みだと見限られることが恐ろしかったのです。教会の外に出てから私は望まれるように生きてきたので他の生き方が分からなくなっていたのです。

 嫌がらせの処理は殆ど自分で行っていましたが、ベッドに赤いワインをぶちまけられた時には侍女に見られて手助けをしてもらいました。白いシーツに広がった赤い色は血を想起させるもので私の命を奪うという予告のように思えてぞっとしました。私よりもそれを目撃した侍女の方が青ざめていたので私はなんとか冷静を保ちました。王に共有致します、と侍女は言ってくれましたが知ったところでオルローク様が動いてくれるか懐疑的でした。王妃であるのならばこの程度のことを単独で処理をするべきだと私自身も思っていたのです。

 私は王宮で一層存在を疎まれるようになりました。亡国の皇女など元より政治的に後ろ盾はなく快く思われてなどいなかったものですが輝かしい聖女と比較すれば取るに足らぬ矮小な存在です。王宮の中では王妃派と聖女派という派閥が出来てしまったのです。

「王妃様はどうしてヴェールを被っておいでなのですか?」

 回廊を歩いていた私に無邪気な声でアルベルタ様は尋ねました。それは私が敵国の人間だと言うことを王宮に思い出させるには十分なものでした。

 私は王宮で透明になりました。

 身を縮め、人々の視界から外れ、息を殺しました。

 眠りは浅くなり、日々の執務を処理するのが精一杯になりました。

「アルベルタ様が王妃になったらこれ程嬉しいことはないんだけどな」

「おい、不敬だろ」

「でも、お似合いだろう? 王と聖女様が一緒に居るところを見て歓迎しない人間はいないだろう」

「王妃様は十分責務を果たされておいでだ」

「御子を為してないだろう」

「王妃様に何かあれば何も問題はないんだがな」

「不吉なことを言うな」

 通りすがった私に聞かれているとは知らずに文官達の話は弾んでいきます。

 離縁は認められていないこの国ではオルローク様がアルベルタ様と正式に再婚するには私との死別が必要でした。

 私は多くの人から不幸を望まれるようになっていたのです。

 私の頼りない躯殻を支えたのは王妃としての矜持だけでした。

 疎外感を抱くようになり、周囲の目に孕む害意に怖気を感じる日々でした。その中にはグリモアルト様やイングヴァルト様も含まれていました。苦い顔をして私を見詰める彼らのことを時折目の端を掠めるようになりました。王妃という立場にしがみついている私をきっと疎ましく思ってオルローク様の為に排除しようと目論んでいたのでしょう。ヴェール越しに私はご愁傷様だと虚勢を張って笑顔を向けました。

 王は聖女に執心だと私の目の前でもあからさまな話をされるようになった頃、オルローク様は私を呼び出しました。

「ミラ、最近疲れているだろう。少し、離宮で過ごしたら良い」

 提案ではなくそれは王宮からの放逐を意味していました。体の良い厄介払いに私は抗議をする言葉を持ちませんでした。

「……仕事は、どうしましょうか?」

 それでも、仕事が滞るのではないだろうかという憂慮が私の口から零れ落ちました。オルローク様の仕事を支えていた自負が私にはありました。

「少し休んだ方が良い」

 仕事も私は取り上げられてしまいました。

「君が寂しくないように供廻りは俺が選んでおいたから安心してくれ。離宮の内装も君が好むように改装したんだ」

 用意周到に私を追い払う手筈を整えていたのだと思うと胸が締め付けられました。

 私に拒否権はありませんでした。肯い辞して自室に戻りました。

 離宮へと出立する日が近付くにつれて私の心は凪いでいきました。私は誰が離宮に付き随うのかすら知りませんでした。侍女達はオルローク様に命令されていないと困った顔をしていました。ご一緒したいなんて言ってくれる侍女もいましたが、それが本当か嘘か考えることすら私は億劫になっていました。仕事だからと私に良くしてくれた哀れな侍女達にも感謝を伝えて最後の日を迎えようとしていました。

 相互理解を諦めたくせにそれでもオルローク様の本心が知りたくて私は夜にオルローク様の部屋に向かいました。寝室に人の気配は無く執務室に向かえば灯りが扉の隙間から零れていました。オルローク様からアルベルタ様を好いていると言質をもらったら潔く身を引くつもりでした。曖昧に濁していても誰も幸せにならないのは明白だったのです。

「……ミラ様の出立は明日ですね。漸くですね」

「ああ」

 部屋にはオルローク様だけではなかったのです。話題に出されてノックをしようとした私の手が動きを止めました。

「陛下、結婚はやはり早計だったのではないですか」

「……そうだな」

「早く片が付くと良いですね」

「ああ」

 結婚は誤りだったのだとオルローク様は後悔をしているようでした。話に相槌を打っただけで本心ではないのかもしれませんでした。けれど、誰が嘘ではないといえるのでしょうか。私には本当のように聞こえましたし、不要品を当然捨てるように私は片付けられるのだろうと思いました。もしや、私は離宮に向かう最中、不幸な事故で命を失うのではないかという予感は未来記のように思えました。それを認めたら、そんなまどろっこしいことをしなくても良いのではないかという気持ちが湧き上がってきました。その日の為に時間を費やすのはとても不毛なことに思えたのです。

 部屋に戻り私は僅かな光を頼りにこの手紙を書いています。無色だった私にも歩んできた道があったのだと誰かに知って欲しかったのです。教会から離れてからのことを振り返り、オルローク様との築き上げた関係は偽りだったのだと思うと少し胸が痛みますが、私はオルローク様にとって都合の良い道具だったのです。それを忘れて打ち解けようとしたのが私の落ち度なのでしょう。

 私の目の前には教会を離れる時に神父様から渡された白い粉があります。明日の朝、私を見付けるのは誰か分かりませんが、何かしら胸に過ぎるのであれば、ちっぽけな私の生にも意味があったのかもしれません。せめてものお詫びとして、お守り袋に入っていた指輪を貴方に差し上げます。多少の価値はあると思いますのでどうぞ有効活用して下さい。迷惑ついでに、最期に一つ、もし私を憐れんでくれるのならば、私の骸は生涯で唯一幸せだった教会に埋葬して下さい。





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