お母さんの葬式
その日私は夜職の最中で姉からの電話を取れずにいた。やっと一息ついて姉に折り返す。
「ねぇちゃん?どうした?」
「…お父さんから連絡あって…お母さんが急に死んだらしい…」と姉は泣き声で話せなくなった。
「もしもし、マナ?」と義理の兄の声。
「姉ちゃんが動揺して喋れんけん。夜になってお父さんから連絡あったらしくて、お父さんとお兄さんが仕事から帰ってきたらすでにお母さんが冷たくなってたらしい。」
「えぇ!?」「うん…うん…」
私はスナックのエレベーター付近に身を隠しながら電話をし、見つからないように声を落とした。涙がとめどなく出てきた。
「とりあえずねぇちゃんの家で明日朝まで待機して朝から葬儀場へ直接行くから、お前は今から用意してうちへ来い。」と義理の兄。
「分かった…タクシーでそっちに行くね」
それしか言えず電話を切った。
自分の家へ急ぎ帰る途中、私は自転車に乗りながら溢れる涙を抑えきれず、街並みのネオンが目にキラキラと映り込んで目にしみる感じがした。
お母さんとは15年絶縁していた。
実家へも同じ期間帰っていないのでお父さんとも兄ちゃんとも会っていない。
母はその時も女王様のように頭ごなしで怒鳴りつけてきた。その時私は、実家でのいざこざに辟易し姉の家に転がり込んで生活していた。
母は父ともうずっと、私が保育園の時から仲が悪く、父は母を殴ったり蹴ったり物を投げたりして夫婦喧嘩はしょっちゅうだった。酒に酔った父は不機嫌になり
物にあたり戸をバンっと閉めたりひとりでくだを巻いたりして、他の家族は自室でそれを息を潜めているしかなかった。今でこそDVという言葉があるが、まだそれがなかった時代。
昼間は一戸建てで平和に過ごす家庭も、夜には父の恐怖が始まる。母はそんな父の悪口を子どもに言いつけて子どもを味方にするようになった。機能不全家族の状態が何年も続いた。
早く家を出たかった。こんな暴力のあるいつも人が家族がののしりあっている家。何度も辛くて、
「仲良くして」って両親に懇願した。喧嘩で物を投げ合って、観葉植物の土が散らばったリビングで喧嘩を止められず警察を呼んだ時も、私の誕生日だった。
数十回喧嘩の仲裁に呼ばれた警察も、またかという雰囲気で帰っていく。毎回毎回の部屋の片付けも辛かった。空虚な感じがした。
ある日母は会社勤めの私に、金融から借金をしてくれと頼んできた。なんでも父と別れるにあたって必要だと。今まで何度も何度も子どもが別れろと進言してきたのに、多分自身の専業主婦という地位を失いたくなかったんだろう。母はそれでも別れないと言ってきた。なのに今度は、である。
「ごめんけどお金を借金してまで貸せない。まず自分で何とか工面してダメだったら言ってきて。」と私は答えた。
母は怒鳴って、
「育ててやった恩も感じんでなんねアンタその言い草は」と言ってきた。
私はほとほと愛想がつき、
「もう帰らない。子どもは親を選べんとよ」と言って電話を切った。
その時はもう姉の家からも独立しワンルームを借りていたので、私と姉は一緒に市役所へ出向き、除籍届を出して実家の電話を出ないし住居も分からないようにした。事実上の縁切りだった。