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 緑が目の前に迫っていた。

今朝、その緑はわたしの前に根付いていた。正確に言うと、わたしと緑の間に立つ山がさっきどこかへ去っていたのだ。今、わたしの鼻と目の先に谷山由衣が存在している。

他の背景を差し置いて、緑だけがズームされているような、視界が緑一色になるような感覚に襲われる。

何故、こんなにも青々しいのだろう。

枯れ木のなか、どうして、こんなにも瑞々しい葉をつけていられるのだろう。

喉の奥がきゅっと締まる。速まる鼓動を喉で感じた。わたしを焦らせるかのように、音は徐々に膨らんでいく。

ずっと、あの反省文を読んでから、ずっと疑問に思っていた。


何故、彼女は負けない?


カンカンカン。

柿色の電車がやってくる。それは今日もわたしたちの前に止まり、大きく口を開ける。

目を離せない。目の前の緑から目をそらすことができない。

山々が動き出す。

わたしは緑に触れた。

「なんで、そんなに強いの」

 流れる山々の中、わたしは立ち止まる。決して衝動的行動ではない。彼女に聞かなくてはいけない。そんな、義務に駆られた。

振り返り、わたしを捉える緑の目は、あちらこちらに泳いでいた。山々の雑踏が遠のいていく。

「……何言ってるの? 訳分からないよ」

 谷山由衣はわたしから離れ、電車に飛び乗った。口が閉じ、動き出す。わたしひとりが残された。



 遅刻してまで学校に行く気にもなれず、ホームを出たところにあるガラス張りの待合室で時間を潰していた。大きな石が腹の底に沈んだのにつられ、心までもが重力に引っ張られている。頭を上げることはおろか、鞄を抱えタイル張りの床を眺めることしかできない。ベンチの奥に追いやられた菓子パンの包装がちらりと顔を出している。

 突拍子すぎた。

それが谷山由衣のあの言動を引き出した大きな理由だろう。きっと、放課後の体育館裏か図書館か、どこかゆっくり話せる場所で話を持ちかけるべきだったのだ。

 そう分かっていても、心は晴れない。

もし、わたしが順序よく丁寧に話を持ちかけたとして、谷山由衣は自身の強さの理由を答えるだろうか。彼女は答えられないのではないだろうか。

 何故周囲から離れてまでも、自身の信念を貫く強さがあるのかを彼女は知らないのでは、とふと頭に浮かんだ。知らないから、無意識であるから、強く信念を突き通せる。それが真実だとしたら、わたしのような弱者には強者の如く戦うことはできないということだ。それに気づいてしまったのだ。

 

 頭から液体のセメントをかぶったような心持ちだ。わたしの頭を垂らし、やがて二度と元に戻れなくする。その姿勢のまま、化石の如く冷たく固まる。

 谷山由衣は生粋の夢想家だ。信念を現実にしようと強く世間に抵抗している。わたしたちは遠い対角線上に位置していた。わたしは谷山由衣のように強くない。


「小林さん、わたし、さっき言われたこと、よく考えてみたの」

息の上がったその声に、わたしは顔をあげた。首を固めるセメントがバリバリと剥がれ落ちていく。谷山由衣が待合室の扉を開けて、そこに立っていた。

何故?

「小林さんがわたしの何を強いと言ったのかが分からなくて、ずっと考えてたの」


真緑の体操着に身を包んだ谷山由衣は、わたしの横に腰を下ろす。走ってきたのか、こめかみには汗が浮かんでいた。


「本当によく分からなくて、でも、わたしが人と違うことと言えば、これかなって思って」


谷山由衣は体操着の襟をつまみ、自信なさげに笑ってみせた。

わたしは彼女の目を見つめ、こくりと頷く。


「やっぱり、そうだよね。でも、なんでこれを強いと思ったんだろうって、それが本当によく分からなくて。ほら、皆、わたしのこと変人って思ってるじゃん」


 谷山由衣は自身の膝に視線を落とした。鞄を抱え、猫背でわたしの答えを待っている。

言わなきゃ。

 口の端が震えている。できれば、勝手に反省文を見たことを含め、谷山由衣に対する全てを彼女本人に伝えたくはなかった。できることなら、自身の中で燻らせておきたかった。しかし、このきっかけを作ったのは――あの時、谷山由衣という人間を知ろうとしたのは――紛れもなくわたしなのだ。その答えを聞く前にまずわたしが、自分が犯した罪も含め、全てを谷山由衣に伝えなければならない。

自身の心に根付く想いを人に言うのは怖い。拒絶されたらと思うと、みぞおちに傘の先端でぐりぐり押されるような痛みを感じる。


でも、言わなきゃ。

谷山由衣はわたしの言葉を受けて、ここまで探しに来てくれたのだ。それに、谷山由衣なら、わたしを拒絶することもないような気がする。


「わたし、谷山さんの反省文読んだ。谷山さんが体操着を着る理由を知って、それは谷山さんにとって意味あることだって知って、周囲に負けずにひとりで戦っているってことを知って、それって、とても強いことだと思った」


 まっすぐに谷山由衣を見つめた。彼女は頭を上げる。目を見開き、頬を紅潮させていた。


「あれ、読んだの」

「うん、読んだ。勝手に読んでごめんなさい」

「うん」


 彼女は再び猫背に戻り、わたしもつられ、床に視線を落とした。床に落ちている包装はカスタードクリームパンのものだったらしい。白色の文字を黄色く縁取って、「ママ特製・カスタードクリィムパン」と書かれている。

 谷山由衣の頭の中でどんな考えが生まれ渦を巻いているのか、わたしは怖くてただひたすらにカスタードクリームパンに思いを馳せた。ゴミはゴミ箱に捨てるべきだが、今回ばかりは床に捨てた人の無神経さに救われた。


「わたしはね、小林さんが言うような強い人間ではないよ」


谷山由衣の落ち着いた声が静かな待合室に響く。わたしの心臓は一度大きく跳ね、体の自由を失ったかのように包装を凝視し続ける。


「逃げているだけだよ、自分が嫌なことから……きっと本当に強い人はずっと戦っているんだよ。自分の意思をより多くの人々に伝える為に行動している。わたしみたいにこんな暗号めいたもの使わない」


 目の端に映った谷山由衣の拳は緑の上で固く握りしめられていた。


「わたしは声を大きくするのが怖いのだと思う。広い世間に対して主張することがどうしようもなく怖いのだと思う。ひとりよがりのモチーフを駆使して、世の中の嫌なことから逃げているだけ。ぜんっぜん、強くないよ」


 谷山由衣は口をつぐむ。待合室は沈黙に包まれた。正直、わたしは彼女の言い分をすっかり理解することはできなかった。懸命に彼女の話に耳を傾けたが、上手く脳で消化できない。彼女が何を言おうとわたしにとって彼女は強い人間であることに変わりない。


「きっと、なにかとずっと戦っている小林さんの方がずっと強いよ」

「……あぁ、えっと、そんな鋭い眼差しを持っている人、わたし会ったことないから、きっとなにかしら日々戦っているんだろうなって思って。よく知りもしないのに、勝手にそんなこと言ってごめんね」


 谷山由衣は早口で言い終えると、再び猫背になり、床に視線を落とした。それに対し、わたしの目線は彼女の言葉を聞きながら徐々上がり、今ではすっかり彼女を捉えている。


 谷山由衣はわたしを強いと言った。

 なんだか面白く感じた。谷山由衣は自身の強さを否定し、よく分からない理由でわたしを強いと言った。なんだか、とても面白い。全くもって意味不明。

そしてなんだか、とても温かい。ふっと全身の力が抜ける。地面にのめりこんでいた重い心が少し浮上する。生ぬるい風が浮いた心を撫でていく。


「ううん」


 わたしがやっとの思いでそう返事すると、涙が両目からぼろぼろ落ちていった。慌てて拭っても、床に水を落とすばかりで止まる気配はない。

涙の元になる感情はわたしの中に存在しない。今自分が嬉しいのか、悲しいのかは勿論、そのどちらかに寄った感情であることさえも把握できなかった。

 ただ温かい。身を引き裂くような冷風に晒される時間のなか、急に毛布をそっとかけられたかのような温かさであった。気を抜いたら、すっと眠りに入ってしまうようなそんな温かさ。わたしは何の感情も抱かないまま、暫く泣いていた。



 空っぽの待合室で二人の女子高生が宙を見つめている。

谷山由衣はわたしが涙をやめた後も、黙って隣に居てくれた。スマホをいじったり、本を読み始めたり、退屈そうに手足を遊ばせることもなく、ただじっとわたしの隣に座っていた。


今は谷山由衣の言葉を信じたい。

頬を伝う涙と嗚咽のなか、思い浮かんだことである。

自由に肉体や現実を変化させることに限界はあっても、何を信じるかはどこまでも自由だ。そう考えたら、彼女は生粋の夢想家なのではなく、信じることができる人なのかもしれない。そうであるならば、今のわたしは彼女の言葉を信じて生きていたい。


 谷山由衣は生粋の夢想家であり、わたしとは対角線上に存在している。そう思っていたが、考え方を変えることにした。

谷山由衣は信じることが出来る人で、同時に戦っている人でもある。

例えわたしたちが対角線上に存在していたとしても、その距離は限りなく近い。わたしたちは日々なにかと戦い、なにかを信じている。

わたしは自分の強さを信じると共に、自分の病気の回復も信じたいと思った。だって、信じることはどこまでも自由なのだから。はやく、この病気を治して、一刻もはやく安らぎを得たい。

それに必要なのは、やはり信じることと戦うことなのだ。

もっと前向きな気持ちで病院に通おう。

わたしはそう感じることができた。


「いちごみるくとカフェオレ、どっちがいい?」

 谷山由衣が唐突に口を開く。そのぼやけた目線の先には、待合室の外にある自動販売機に注がれている。

「なにそのマイナーなチョイス」

「えー。じゃあ、何だったらメジャーかな?」

「んー。コーヒーかお茶か、とかじゃない?」

「……確かにメジャーかも」

 わたしたちは目を合わせて、ふふふと控えめに笑い合った。

「それに――」

 久しい涙のせいか、少し喉に違和感を覚える。

「買い食いじゃん。いいの?」

 谷山由衣はこちらを向き、白い歯を見せて笑った。

「また二人で反省文書こうよ」

 初めて見る谷山由衣の清々しさに押され、思わず笑みがこぼれる。彼女に促され、わたしは立ち上がった。


 ひとりで戦うのが辛くても、ふたりで戦うのなら、少しは体にかかる重みが減るかもしれない。

わたしは自販機に向かう谷山由衣の背中を見ながら唐突にそう感じた。

きっと、ふたりなら痛みを分かち合えることもできる。それに戦っている相手は違えども、同じ戦う者としてどこまでも感情を分かち合える気がするのだ。そして、その強さにはちゃんと意味がある。

そう、それは牛乳のように。

牛乳が使われる分野は多岐にわたるけれども、それぞれに輝ける場がある。それぞれの使用方法にちゃんと意味がある。わたしたちだって、分野は違えど、きっとそれぞれが戦い続けることに意味があるのだ。

わたしたちはいちごみるくとカフェオレだ。


わたしは待合室を出た谷山由衣を追った。

ふと、振り返ると遠い太陽の白い光がガラス張りの待合室を輝かせていることに気づいた。


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