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短くなった日照時間を惜しむかのように夕陽が教室を赤く燃やしている。わたしは机に置かれた原稿用紙を前に頬杖をつきながら、谷山由衣の背中を見つめていた。
さっきから、気が散った様子でせわしなく上半身を揺らしている。振り子のように動く、その緑色の背中をわたしだけが見守っていた。今週の生活指導対象は、わたしと谷山由衣の二人だけであるようで、放課後の教室を二人で独占している。
どこからか、金管楽器の断末魔が聞こえた。現在進行形で痛みと苦しみを味わっているかのような、必死の叫びであった。それが彼女の中で良いきっかけとなったのか、谷山由衣は席を立った。そして、そのまま駆け足で教室を去って行った。燃える教室にひとり、わたしだけが残される。
二年星組には、三つの謎がある。
一つ、大久保麻里の尋常じゃない量のお弁当、二段弁当三つ分の食事を一体誰が毎朝作り上げているのか。
二つ、小林紗良は何故全ての授業を寝て過ごすことができるのか。
三つ、谷山由衣は何故制服を着ずに、体操着を着て学校生活を送っているのか。
一つ目は、入学して間もない頃から、二つ目は二年に上がった頃から、三つ目は二ヶ月ほど前から教室に浮上した謎であった。
今、そのうちのひとつを明らかにするチャンスがわたしに訪れている。三つ前の席には、谷山由衣の反省文が行儀よく机上で留守番をしている。勉学において真面目な彼女が生活指導に引っかかる理由はひとつしかない。制服を着ない。絶対にこれだ。
ということは、あの原稿用紙を埋め尽くす文字は谷山由衣が体操着を愛する理由とそれに対する謝罪に違いないのだ。わたしは、さほど三大不思議に惹かれはしなかったが、彼女が制服を着ないことを疑問に思っていたし、人並みにその理由を知ってみたいとは感じていた。でも、無理に聞いたりせず、時が来たらでいいかなってくらいの軽い願望であった。
その時が、今なのではないか。
あの落ち着かない様子からして、きっと谷山由衣が戻ってくるのは暫くあとになるだろう。
わたしは好奇心のままに、席を離れる。ひとつ、机の横を通り過ぎる。傾く日が落ちる影すべてを伸ばしていく。床には宝箱へのはしごが置かれていた。わたしは一段ずつ登るようにして、影を踏んでいく。ふたつ、みっつめ。
谷山由衣の席だ。隙間風に吹かれることもなく、律儀に原稿用紙は座っている。教室にある他のものと変わらず、赤の西日に照らされていた。わたしはなんのためらいもなく、谷山由衣の反省文へ手を伸ばす。壁には好奇心に駆られた盗人の影がありありと映し出されていた。
『わたしは自分のした行いを、悪いことだと思っていません。ですが、先生方は一方的に悪いことだと決めつけているようなので、今回は反省文の代わりに、わたしがジャージで登下校および学校生活をするに至った経緯を述べていきたいと思います。
一言で言い表すと、わたしは女でも、男でもない、無性別として生きていくことを決めたからです。先生方もご存知であると思いますが、最近女性を狙った殺傷事件が多く報道されています。わたしはその報道を見たとき、ひどく憤慨しました。そして、同時に社会に根づく数々の差別意識をも思い出しました。
何故、女性は弱者として虐げられなくてはならないのですか。この地球には男性と女性しか存在しないというのに、何故、大昔から女性を見下すような価値観があちこちで生まれているのですか。わたしがそのような思いをするようなことを誰かにされたことはありませんが、この世界にそういう差別意識が敷かれていると思うだけで、わたしはとても嫌な気持ちになります。
だから、わたしは無性別として生きていくことを決めたのです。このジャージは、この世界に根付く差別意識を真っ向から否定するわたしの意思の表れです。自分が無性別として生きていくことで、差別のない世界を生きていきたいと思います。
それだけではありません。女性だからメ』
反省文はここで終わっていた。書き途中だったらしい。時間は三十分以上あったから、谷山由衣は相当慎重にこれを書いていたのだろう。
いとも簡単に三大不思議のひとつが解明された。
彼女は無性別として生きていくことを決めたから、制服を着なくなったのだ。
わたしは原稿用紙を元の場所に戻し、谷山由衣の席を離れる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
そのまま自身の原稿用紙と鞄を持ち、燃える教室を後にした。
馬鹿馬鹿しい。無性別だなんて。あの文章を読んで、わたしはそう最初に思った。謎に対して勝手に期待していた分、あまりの理想論に拍子抜けしたとも言える。どう足掻いても、谷山由衣は女だ。スカートを拒否し続けても、その事実は変わらない。ここは地球で、わたしたちは人間だ。宇宙人でも、植物でもない。いくら精神は自由を望もうと、肉体が変化することは決してない。わたしたちは人間で、女で、それぞれ名前がある。無性別なんて概念は存在しない。
廊下を進む足取りは、気づかないうちに速度を増していた。交互に前へ出す両足が忙しない。
谷山由衣は生粋の夢想家だ。きっとわたしたちは互いに遠い対角線上に位置している。
からすの声に呼ばれ、窓の外に目をやる。教室と反対側の世界は既に夜の気配が広がっていた。
オレンジに混ざる薄い闇にひとつの星が浮かび、とめどなく瞬く。