井の中の蛙が見上げた空。
僕は、藤谷がペディキュアを塗る意味を、彼に打ち明けられた。
そして、僕は彼の考えと、想いを知る。
僕の太股に乗せられた藤谷の左足の爪先を、僕は左手で撫でて居た・・・。
彼の足の爪に塗られた、薄紫色にラメの入ったペディキュアが、とても愛しく思えた。
彼は、無言で、そんな僕の行為を受け入れてくれて居た・・・。
僕は、彼の爪先を見つめながら(本当に藤谷の言う通りだ・・・。)と、思った。
僕を含めた多くの高校生にとって『社会』は教科書で習う事であって、自分達の周りが社会だとは思って無いと思う。
確かに理屈では、自分達の周りが『社会だと認識してはいる』のだろう。
でも、それなら、社会の問題は自分の問題でもあるんじゃないのか?
きっと高校生の僕らの大多数は『学校と言う名の井の中の蛙』なんだろう。
いつだったか、教職員が『井の中の蛙 大海を知らず』と、得意気にその意味を説いてたのを思い出す。
そして僕は、最近になって改めて、その言葉をネットで調べた時に出てきた、その続きとも言われてる言葉も思い出した。
「されど・・・『されど空の深さを知る』・・・か。」
僕がそう言うと、藤谷は「そんな言葉を、良く知ってたね。」と、言った。
僕は「うん。『井の中の蛙・・・』は、わりと最近読んだ、異世界バトル漫画の主役が敵キャラに言われてたから、改めて調べたんだ。その主役は、とある小国の王子なんだ。」と、言った。
藤谷は「そうなんだ。それで、後の部分は?それも?」と、聞いてきたので「それも、そうだけど。最初に調べた時には、そこまで調べて無くて・・・。そっちは、敵キャラを倒した後の主人公のセリフだよ。当然、後から意味を調べたけどね・・・。」と、僕は少し照れ笑いしながら言った。
藤谷は「そっか・・・格好いいね。」と言って笑ってから「僕も、そんなに強くなれたら良いのに・・・。」と、寂しそうに言った・・・。
そんな藤谷の言葉に、僕は胸が苦しくなった・・・。
それで少し考えた僕は「藤谷が求めてるのは・・・周りを蹴散らして認めさせるとかじゃないんだろ?」と言って、笑いかけた。
すると藤谷は僕に、『されど空の青さを知る』の意味を、自分なりの言葉と思いをのせて、噛み締める様にして僕に説明してくれた。
「安全な古井戸に住む蛙が見る事の出来る外の風景は、井戸の底から見上げる空しかない。だから、外の世界に関心があるなら、空ばかり見上げ、観察するしかない。
空は、晴れの日、雨の日、曇りの日・・・朝、昼、晩、それに大気の外の星空・・・月と太陽の動き。
更に、僕らが日常に思い、感じてる現象だけでは無い意味も空にはある。
それは、僕らは当たり前に見るともなしに見てる空の風景は、地球が誕生して大気を持って以来、1度だって同じ風景になった事は無いだろうし、今、見上げて見れる空だって、同じ位置で観測できるのは、地球上では自分一人しか居ないとも言えるんじゃないだろうか・・・?
だから、井の中の蛙は、飽きもしないで、自分だけが見知る日々の空の変化を観察してたら、時に訪れる美しい空の・・・その青の中に現れる『深い青の尊さ』を知るって事なんだろうって・・・僕は思うんだ・・・。」
僕がネットで調べた時に書いてた説明は、もっと言葉少なくて、簡素な説明だった。
だから藤谷の説明が、世間一般に通じるのかは、僕には分からない。
それでも、彼の説明は、僕の心を打ったのは確かだった・・・。
藤谷がペディキュアを塗ってる理由。
それは、お洒落の為であっても、それだけでは無い・・・。
今の時代、男がペディキュアをして、それが見えるようにして公共の場に居たら、欲しくもない注目を集めてしまうだろう。
それは『普通とは違う』とか『あの人は男が好きな男』だから、とかなって・・・。それで多くの男にとっては『自分を好きになられたら困る。又はそんなのは気持ち悪い』となって、女性にして見ると、多くは『恋愛の対象外』と、思われたり『BLの延長線での興味』として映るだろう・・・。
藤谷のペディキュアは、社会への抵抗だと、彼は言った。
しかし、その抵抗は、小さな・・・細やかな抵抗なんだと言う・・・。
藤谷は社会に反発してる訳でも無いし、したい訳でも無いんだって。
更に言うと、彼は認められたい思いが無い訳じゃ無いけれど、どちらかと言うと『男がペディキュアを塗ってるのと、女がペディキュアを塗ってるのとが、同じように、ちょっとしたお洒落の一つとして見られる社会になって欲しい』と、言うと事になるんだと思う。
藤谷は、そうした事を『学校を中心とした自分の生活圏』で、行って居て、それは、今はまだ『一匹の井の中の蛙の、他の井の中の蛙達への小さな抵抗』でしか無いんだろう・・・。
それは藤谷が想い、見据えてる『世界』とは程遠い・・・今は、とても小さな世界への、小さな抵抗なんだ・・・。
それなのに・・・そんな小さな抵抗なのに・・・藤谷は、平穏な学校生活を失うかも知れないんだ・・・。
そう思った僕は、何だが切なくなってしまった・・・。
藤谷の言い分は分かる。
理屈で考えても、彼の疑問は筋が通ってると思う。
なのに何故だか僕は、藤谷のペディキュアなら良いが、それ以外の男のペディキュアならダメだと思ってる。
では、藤谷のペディキュアは、僕以外の男が見たらどうなのだろう?
それはきっと、さっき僕が思ったのと同じく、多くの男は気持ち悪いと思うか、イタズラな好奇心を抱くか、攻撃的な態度を取るんじゃないだろうか・・・。
女だって、やっぱり殆どは似た感じになるのかと思う。
僕に左足を預けてる藤谷は、無言のままだった。
僕は、彼の質問に、自分なりの答えも出せない事に、脱力感と無力感が同時に襲ってくるのを感じた。
気持ちの喪失を感じたからなのか、藤谷の左足の爪先を撫でていた僕の左手の指先からも、触ってる筈の彼の爪先の感触が薄れていった・・・。
僕は、やり場の無い想いで、彼の爪先をじっと見た。
すると、突然だった・・・。
さっきまで薄暗く感じた視界が急に明るくなり、藤谷の爪先のペディキュアが光輝いて見えたのだ・・・!
その瞬間、僕の頭の中に、閃きに似た想いが沸き上がった。
(もしかしたら・・・藤谷の薄紫色のペディキュアは、彼なりの『空の青さ』なんじゃないだろうか?今の藤谷は『淡い色のペディキュア』しか塗れないんだ・・・。本当は、赤や、オレンジ・・・青だって・・・濃い色も塗りたいんじゃないかって・・・。でも、そんなハッキリとした色を塗ると、誰からもペディキュアを塗ってると分かってしまう。だから、藤谷は自分はペディキュアを塗ってるという事実があっても、周りからは気付かれ難い色を選ぶしか無いんだ・・・。)
「藤谷は・・・他の色のペディキュアも持っているの?」
「うん。これの他に、あと3つ・・・。」
「それはどれも、こんな感じの淡い色?」
「・・・時々塗る2つはそう。あと1つは・・・。」
「濃い色?」
「うん。・・・オレンジ色のを持ってる。」
「塗った事はあるの?」
「部屋でね・・・3回ぐらい塗ったかな・・・。」
「塗ってから、そのまま外には出なかったってこと?」
「・・・本当は、1回だけ。・・・誰にも見えない様に、スニーカーで街まで買い物に行った事があるんだ・・・。」
僕は思った。(きっと藤谷なら、オレンジのペディキュアは、とても似合うだろう)と・・・。
そして・・・僕はちょっと嫌らしい質問をしたくなった。
「そ・・・その時は・・・どんな気持ちだった?」
藤谷の少し驚いた瞳が、僕をドキドキさせた・・・。
「どうって・・・そんなの・・・。」
「・・・。」
「そんなの決まってるよ・・・ドキドキしてたって。」
「興奮してたってこと?」
藤谷は瞳を潤ませながら、無言で頷いた。
僕は、ふぅ~・・・っと、溜め息をついて心を落ち着かせた。
僕は藤谷の爪先を触りながら「藤谷は、この色は気に入ってるの?」と、彼に聞いた。
藤谷は、少しハニカミながら「気に入ってる・・・。なんて言うか・・・夜明け前の薄紫色の空に、まだ星が見えてる感じに見えて、好きなんだ。」と、言った。
その藤谷の言葉を聞いた僕は(もしかしたら・・・今の彼にとっての、この淡い紫色は『未来への夜明け前の空の色』なのかも知れない。)と、思った・・・。
勝手にだけど・・・そう想った。
でも、そんな想いを、藤谷に聞きはしなかった。
僕は、彼の足指の一本一本を、自分の指で確かめた・・・。
「擽ったいよ・・・。」
藤谷のその声は、甘える感じであり、そして穏やかだった・・・。
僕が触る彼の足指は、僕の指に応え、時々キュっと握ってきた。
「面白い事にね・・・。」
その少し寂しさの混ざった藤谷の声に、僕は無言のまま耳だけを傾け、彼の爪先を見て居た。
「僕のペディキュアって・・・校則違反じゃないんだ。」
僕は、その意外な言葉に、藤谷の顔を見た。
「生徒手帳にはね。ペディキュアが・・・と言うか『手足の爪に色や光沢のあるものを塗ってはいけない』って事は書いてはあるんだけど・・・」
「・・・。」
「それは、女子の服装や身なりの校則で、男子にはそんな校則は書かれて無いんだよね・・・。」
「・・・。」
「変だよね?」と言って、藤谷は、ぎこちなく笑った。
僕は(確かに・・・言われてみれば、変だ。)と、思った。
男子が爪に色を塗る事は、今の学校では想定されて無いって事だからだ。
それは『そんな事をしてはいけない!』って書かれてたり、言われたりするよりも、もっと存在を否定してるって事なのかも知れないって思えた。
『そんな事をする男が居る訳がない』とか・・・もっと言えば『そんな生徒は、本校の生徒では無い』って事なのかも知れない・・・。
だから藤谷のペディキュアは、校則には書かれて無いのだから、法律に例えれば合法って事なのに・・・『世間の常識で考えたら分かるだろ!』とか『そんな事をして恥ずかしく無いのか!』って、出所のハッキリしない・・・なのにハッキリとした圧力で否定されるパターンになるんじゃないかって思った・・・。
「ダメじゃ無いのにダメって・・・どういう事なのかな?」
「・・・。」
「でもね。それで居て僕も、その意味が分かってるから・・・隠してしまうんだよね・・・ペディキュア・・・。」
「・・・。」
「だから、本当は、隠さずに・・・皆が、僕の足の爪がどんな色で塗られてたって、何とも思わないで済むよになったら良いなって・・・。」
「そうだね・・・。」
僕はやっとの思いで、そう言った。
彼の言葉に乗せられた思いが伝わって、胸が締め付けられて苦しかったのだ。
だから、せめて藤谷の言葉を・・・彼を肯定してあげたかった。
「じゃあさ・・・。」
僕はそう言って、藤谷の目を見た。
彼は、少し悲しい目をして僕を見て居た。
「じゃあ・・・最初に、僕の意識を変えてよ?」
僕が藤谷にそう言うと、彼は少し驚き「君はもう・・・僕のペディキュアは、嫌いじゃないんだって思ってたけど・・・違ったのかな?」と、さらに悲しい目をして言った。
そんな彼に僕は、笑顔を作って「違わない。僕は藤谷のペディキュアは・・・大丈夫って言うか・・・その、正直に言うと・・・好きだよ。」と、伝えた。
しかし、そう言った直後、僕は、この告白こそ逆に気持ち悪いって彼に思われるんじゃないかと思った・・・。
「ありがとう・・・。嬉しい。」
藤谷は、緊張が解けた様にして、僕に笑かけてくれた。
僕はホッとした・・・。
そして「だからさ・・・藤谷はもう、一人の男の・・・いや、『世界中の中の一人の意識を変える事に成功した』って思ってよ。」と、藤谷に言った。
それは、事実だった。
世界にして見たら、きっとハッタリにしかならない小さな事実だろうけども・・・。
これは、今の僕に出来る、小さいけど最大限の彼へのエールだった。
それから、少し遅れてだった・・・。
彼の目から溢れた涙が、頬をつたって流れ落ちたのは・・・。
つづく
つづく!