遅咲きのアリス
チクタク、チクタク。
今日もどこかで時計が回る。
リンリン、リンリン。
今日もどこかでベルが鳴る。
呼ぶのはどなた?
来るのはどの子?
さあ、耳を澄まして聞いてごらん。
さあ、声を揃えて呼んでごらん。
僕らのアリス。
わたしのアリス。
♪ ♪ ♪
「見て。〝遅咲きのアリス〟よ」
「あら、本当。よく、外に出て来られるわね」
「嗚呼、見ているこっちが恥ずかしいわ」
――クスクス、くすくす。
何処からともなく聞こえてくる、蔑称と嘲笑。
初めの頃は耐えられないくらいだった。
突き刺さる氷のような視線。
〝遅咲きのアリス〟という不名誉な呼び名。
そう、出来損ないのアリスは私だけ……。
でも、今は平気。
わたしは、わたしなんだから。
他の誰がなんと言おうと、構わない。
他の誰かと比べる必要なんてない。
いつか、わたしを必要としてくれる物語に出逢える。
そんな世界があると、わたしは信じている。
(でも……紅茶の一杯くらい、一緒に呑んでくれる友人くらいは欲しいわ)
少しだけ、そんな願いを抱いてしまう。
大好きな紅茶。
大好きな甘い物。
そんな大好きな物たちを集めてお茶会を開くのが、細やかな夢なのだ。
けれど、たった一人ではお茶会とはいえない。
〝名〟と〝役割〟を持ったアリスたちは、みんな好きに振る舞っている。
お茶会も開けるし、遊びにだって行ける。
そして、アリスとしての役目を果たすことだってできる。
でも、今のわたしはそんな資格すらない。
「……。今日も独りかしらね」
ポツリと呟く。
不思議の国という世界――。
その中は広大で、色んな〝アリス〟が存在する。
だからそんなアリスたちの邪魔をしないよう、世界の隅の更なる隅で、わたしは一人でお茶をする。
「一人じゃ〝お茶会〟とは呼べないものね」
大きな大きな自分だけの洋書を抱き抱えると、ぽてぽてと不思議の国の中を歩いて行く。
長い時間をかけて。
色んな〝アリス〟が行き交うのを横目に眺めながら、わたしはようやく一人きりになれる場所へと辿り着いた。
「ああ、もう。疲れたわ……此処に来るのも大変なのよ?」
誰もいない。
けれど、文句の一つも言いたくなる。
だからわたしはこの場所に咲く、粗末な花たちに文句を言うのだ。
「ふぅ。あなたは此処ね」
そして定位置に自分だけの洋書を置くと、パンパンと小さな掌を打ち鳴らす。
するとどこからともなく、紅茶のポットとティーカップ、そして数枚のクッキーがやって来る。この子たちは、そう。〝物語の欠片〟――。
「いつになったら、あなたはわたしを〝本物のアリス〟にしてくれるのかしら」
じとーっと恨みがましく、真っ白い洋書を睨め付ける。
不思議の国の世界に生まれ落ちてから、どれくらいの年月がたっただろう。
同じ頃に生まれたアリスは、三人。
〝白猫のアリス〟
〝月のアリス〟
〝ハートのアリス〟
それぞれの〝名〟と〝役目〟を貰って、旅立った。
帰ってくることもあるけれど、〝名〟を得た彼女たちが、出来損ないのアリスに興味を抱く筈もない。自然と距離が離れて、心が離れて、そしていつしか独りになった。
「こんなに美味しい紅茶もあるのにね」
琥珀色のティーカップの中身を見つめながら、ポツリと呟いたその時だった。
「今日も此処にいたんだね。〝僕だけのアリス〟」
「……!」
突如、声を掛けられた。
恐る恐る振り返り、内心やっぱりと口ずさむ。
そこには見慣れたフリルのエプロンドレスの姿とは違う、一人のアリスが立っていた。
「やっぱり貴女なのね……。〝黒ウサギのアリス〟」
その人物は、黒い燕尾服に身を包んだ男装の麗人。
みんなが〝黒ウサギのアリス〟と呼び、羨望を向ける人物だった。
「おや。声だけで私だと判ってくれるだなんて光栄だな。〝僕だけのアリス〟」
「…………」
勿論、声で判断できるのも理由の一つ。
けれどそれよりももっと判りやすい理由があった。
「貴女だけよ。――わたしのことを〝遅咲きのアリス〟と呼ばないで、〝僕だけのアリス〟だなんて変わった呼び方をするの」
「……嫌かい?」
「……嫌かどうかだなんて……。レディーに訊くのは失礼じゃないかしら」
「クスクス、それもそうだね。〝僕だけのアリス〟♪」
「……っ」
端正な顔立ちが、優しい笑顔を刻むたび、密かに胸の内が熱くなる。
(〝僕だけのアリス〟だなんて……。変に誤解をしてしまいそう)
この感情はなんだろう。
熱くて、苦しくて、そして少しだけ寂しい気持ちが解けていく。
〝黒ウサギのアリス〟を見ていると、それだけで〝蔑称〟が〝別称〟へと変化していくようだ。
「〝黒ウサギのアリス〟。貴女は出かけなくていいの? 貴女くらいのアリスなら、予定なんてごまんとあるでしょう」
「うん? そうだね。今日は〝僕だけのアリス〟と一緒にいるのが予定かな」
「…………」
「…………」
ニコニコとした微笑みだけが向けられる。
これ以上、何を言っても無駄だよと言われているようだった。
(他のアリスに見られたら困るけれど……)
「……もう、仕方ないわね。貴女にもあげるわ」
そう言って、再び、パンパンと掌を打ち鳴らす。
「わたしのお勧めの紅茶とお菓子。よかったら食べて頂戴」
「ありがとう。大切に頂くよ」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、〝黒ウサギのアリス〟はわたしの横に座ると、降りてきたティーカップを手に取り、紅茶に口付ける。
(確かに、お茶会を開きたいし……お茶ができる友人を求めたけれど)
不思議の国の世界を、少しだけ恨めしく思う。
だって、よりによってみんなの羨望の対象である〝黒ウサギのアリス〟。
どんな理由かなんて訊いたことはない。
でも初めて出逢った日以降――わたしはどうやら、この〝黒ウサギのアリス〟に気に入られてしまっているようだ。
「役目を終えて疲れてるんじゃないの?」
「ううん、全然」
「お茶会とかに、誘われてないの?」
「全部断ったよ。〝僕だけのアリス〟といたいから」
「……!」
全部、という言葉に思わずギョッとする。
爽やかな笑顔をしているのに、思いの外、鋼鉄の心臓の持ち主だった。
♪ ♪ ♪
「――ねえ。わたしはアリスになれるのかな」
それはとある日のこと。
いつものように蔑称で呼ばれ、嗤われ、逃げるようにして物語の隅にやって来た。
けれどお茶をする気分にもなれず、大きな白い洋書を抱えて座ったまま、問いかけたのだ。
不安がないと言えば嘘になる。
でも、虚勢をはれるだけの元気が不思議と今日はわいてこなかった。
「アリス……わたしはアリス」
「そう。キミはアリスだよ」
不意に、背中から抱き締められた。
もう驚くこともない。
声で、足音で、気配で、判ってしまう。
わたしの――わたしだけの〝黒ウサギのアリス〟が来たことに。
「今日は元気がないね」
「……少し、疲れてるの」
「だから、お茶もしないのかい?」
「ええ、そうよ」
「――なら、そうだな。今日は私のお勧めを呑んでごらんよ」
そう言うや否や、パチリと指を鳴らすと、どこからともなくマグカップが降りてきた。
そこには普段呑んでいるような紅茶ではなく、甘い甘いチョコレートの香り。
「ホットチョコレート?」
「そうだよ。〝僕だけのアリス〟。紅茶とはまた違って落ち着けるから呑むといいよ」
「……ありがとう」
素直に受け取り、口へと運ぶ。
ミルクの甘みと、チョコレートの甘みが溶けて優しい味がした。
なのに――胸が苦しくなった。
「なんで……」
ポロリと、涙が頬を滑り落ちる。
「なんで、貴女はわたしと一緒にいてくれるの?」
つい、問いかけてしまった。
労うような、優しい言葉が欲しかった。
それが例え偽りだとしても。
「わからない?」
「……ええ」
「それはね、キミのことが好きだからだよ」
「え……」
思いも寄らない言葉に、涙が滲んだ瞳を〝黒ウサギのアリス〟へと向けた。刹那、
「――――ッ!」
それ以上の言葉を塞ぐように、優しく唇が重なった。
♪ ♪ ♪
チクタク、チクタク。
今日もどこかで時計が回る。
リンリン、リンリン。
今日もどこかでベルが鳴る。
呼ぶのはどなた?
来るのはどの子?
さあ、耳を澄まして聞いてごらん。
さあ、声を揃えて呼んでごらん。
僕らのアリス。
わたしのアリス。
それは祝福の詩。
それは新しいアリスの誕生を祝う歌。
♪ ♪ ♪
その日は、いつもと違っていた。
目を覚ました瞬間から、世界が輝いていて――いつもと違って見えた。
慌てて白い洋書を抱え、愛しいアリスのもとへと駆けた。
「――ス、……黒ウサギのアリスはどこ……?」
いつのもように、他のアリスの目を気にする必要もなかった。
冷たい眼差しも、撥ね付けられる。
そう、愛しい貴女といられるなら……!
「〝黒ウサギのアリス〟……!」
他のアリスたちに囲まれていた、彼女の名前を呼んだ。
そして、告げた。
「わたしは――」
息を大きく吸って、言葉を紡ぐ。
「わたしの名前は〝白百合のアリス〟……!」