僕が殺すまで
ゆっくりと、心臓の音が早くなる。
呼吸は荒くなり、駅内の喧騒は徐々に消えていく。
落ち着け僕。彼は僕にぶつかって舌打ちをしただけじゃないか。そんな事気にするな。落ち着け、追うな。
スーツを着た男が携帯いじってて前を見ず、僕の肩に後ろからぶつかってきた。眉間に皺を寄せて僕を見て舌打ち。男は何事も無かったかの様に僕の前を歩き出した。
いらない。
落ち着け、と自分に言い聞かせても心臓の音は抗うように激しさを増し、殺人犯が視界に入って額に汗が滲む。
殺人犯が僕の前に現れなければ、こんな感情を持たなかったかも知れない。気づけばいつだって僕の視界にいた。
男が殺人犯の横を通り過ぎて、殺人犯は僕を見て不敵に笑っている。いつも以上に。僕は男を見失わない程度の距離を保ちながら追ってしまう。
今、僕はどんな顔してるだろうか。
* * *
数ヵ月前。
僕の目の前で人を次々に包丁で刺した男がいた。
刺されて倒れてる人は血だまりを作り、まだ動く人、もう動かない人に分かれた。
殺人犯から離れようと、激しい人波が僕を襲った。人波の中で僕はソイツから目が離せなくて立ち尽くしてしまう。なぜ?
最後に殺人犯は自分の首を包丁で切った。赤い虹を作って生き絶えた。最高の笑顔で。やりたい事をやって、欲求に従って、責任を取ることもなく、自由に死んだ。
殺人犯を見ても恐怖はなく、違う感情。何だ?
僕とは真逆の人間であろう殺人犯に思うこの感情、僕は知らない。
ただわかる事がある。殺人犯は光っていたんだ。
* * *
学校帰りの僕は、仕事帰りであろう男の後を駅から追って住宅街まで来た。時間も遅くて辺りは暗くて人通りもない。
住宅街なだけあって街灯は多いい。男が街灯の下を通るたびにハッキリと姿を確認できる。僕は街灯の光を避け、夜に溶け込む様に男を追う。
僕がここまでの行動を取るのは初めての事。日に日に増す衝動を抑えるのは無理だ ポイ捨てすらした事のない僕が、ここまでするなんて誰も思わないだろうな。
追い続けると、男は十字路を過ぎた先にある街頭の下で急に止まる。僕も足を止め、すぐさま十字路の角地にある家の塀を背に隠れる。バレたか?
男はしゃがんで靴紐を結び直す。絶好のチャンス到来。僕は制服の内ポケットからボールペン取り出して強く握る。
これを、男の首に……。
緊張の瞬間。心臓の音が最高潮に達して、一時は引いた汗が体全体に滲む。バレるかも知れないのに荒い呼吸を抑えられない。だから何だ、もうどうでもいい。今はただ僕のやりたいように……。
僕は塀の陰から足を前に一歩出す。男はこちらに気付く様子もない。僕の視線は獲物を狩る獣のように外さず、ボールペンを持つ手は胸の辺りにまで上げ準備万端。次の一歩を出す。次の一歩、次の一歩……。
男は靴紐を結ぶのに手間取っているのか、依然として姿勢はしゃがんだまま。少しイラついてる様子。
まさにチャンス。しかし距離は一向に縮まらない。
僕は視線を自分の足元へやると、あの大いなる一歩から僕は全く進んでいなかった。
足を前に出していたつもりなのに、なぜ進んでいない?
思いがけないことに焦っているのか、頭の中が真っ白になる。
次の行動に迷っていると、真っ白の頭の中に、不意に人の顔が浮かぶ。
それは家族。
父さんは厳しいけど、僕のことを一身に考えてくれてる。そんな厳しさが好きだ。
母さんはお淑やかでとても優しい。少し心配性だけど、そんな優しさが好きだ。
僕の大好きな家族の顔だ。
一瞬の出来事が長く感じる。
僕は徐々に落ち着きを取り戻すが、男は靴紐を結び終わり歩きだした。
しまった! そう思った瞬間、自然と足が動く。男に向かってゆっくりと。
先ほどまで動かなかった足は快調。だけど何だ? 今度は僕が、足を止めたいと思い始めている。
迷い。
自分の衝動、欲求に忠実。自由でありたい。
不意に浮かんだ家族の顔、悲しい顔にさせたくない。
……大事な家族。
僕は咄嗟にボールペンを右太ももに突き刺す。味わった事のない痛みが体全体にまで伝わり、歯を強く噛んで叫び声を必死に殺す。僕は右太ももを支えながら家の塀を背に持たれ、ゆっくりと地面に右足を伸ばして座り込む。少し進んだせいで、男が振り返ればバレてしまう位置にいるがそれどころではない。
ボールペンは制服のズボンを突き破って突き刺さり、溢れ出した血でズボンを汚す。
痛みを誤魔化すためか、体を小刻みに揺らすが消えない痛み。流れ出る涙は痛みの結果だ。
信じられない痛み。これほどの痛いのは初めでだ。そうだ痛いんだよ。忘れるな、これが痛みだ。痛みは怖いんだ。覚えろ僕。こんな痛みを誰かに与えちゃダメだ。僕が使用としたのはこれ以上の事だ。
気付けば男の姿はなく、静かな住宅街で悶えてる僕と、それを見下ろす殺人犯。
暗くて顔がよく見えないが、僕は痛みを堪えて見下ろす殺人犯を睨みつける。
「僕は……殺人犯にはならない」
言ったって仕方がないのは分かっている。殺人犯が喋った事は一度もないのだから。初めて現れた時からそうだ。いつの間にかいて不敵に笑ってるだけ。
幽霊なのか、幻覚なのか。なんで姿があの時の殺人犯なのか。わからない事が多い。わかるのは、確実に殺人犯が現れてから僕はおかしくなったって事。
殺人犯に言ったところで痛みは消えないし、涙も止まらない。ひとまず、ここから離れよう。誰かに見られたら騒ぎになるかも知れない。
僕は痛みに堪えて塀に手をつき、片足だけでゆっくりと立ち上がる。動くと痛みが増して倒れそうになり、塀に体を預ける。
早く帰りたい。帰って、家族にありがとうって言いたい。
こんな状況なのにもかかわらず笑顔が溢れる。僕はもう大丈夫だ。痛みを知った。悲しませたくない人がいる。きっと、僕はこれからも、今まで通りの僕だ。いや、これからは新しい僕だ。
立ち上がる時に少し見えた殺人犯の表情は、少し悲しそうな顔をしていた。
* * *
何で僕ばっかり! 我慢しなきゃならないんだ!
殺人犯が現れてから日常は変わった。
今まで気にしてこなかった民度の低い奴やらの行動が目につく。憎たらしい。
死ね! 死ね! 死ね!!
何で僕ばっかり……。何で僕のようにできない!
内に秘めた想いは徐々に表に出そうになる。
何で僕はこうなった!? お前だよ、お前! お前が僕に何かしたんだろ!?
殺人犯は何も答えない。
笑ってんじゃねぇよ!
苦しい日々は夢にも現れる。
僕が、家族を殺してる夢。笑いながら、何かを求めてる。
夢から覚めて、涙と笑い声が止まらない。
悲哀か歓喜か? 自分がわらかない。
誰か、僕を助けてくれ。
* * *
普通に歩けばなんて事ないが、片足を引きずって帰るには距離のある場所に僕の家はあった。なんて事ない普通の一軒家だ。あぁ、やっと着いた。
ここまで来るのに数人とすれ違ったが、皆同様に怪訝そうな表情でこちらを見て来る。そりゃそうだ、応急処置はしたとはいえ、片足から血を垂らして歩いてるんだ。警察に出会わなかっただけましだ。
それより、血を垂らしたまんま家まで帰ったから、地面の血を辿ると僕の家がわかってしまう。これじゃヘンゼルとグレーテルのパンくずみたいだ。どうしよう……。
余裕があるのか無いのか、余計なことを考えていた僕を足の痛みが現実に引き戻す。
リビングの電気がついてる。父さんか母さんが起きてるのだろう。僕の携帯に連絡がないから、きっと部屋にこもって勉強してると思っているだろうな。
僕は痛みが引かない右足を引きずって家に入る。
玄関は電気がついていなくて暗い。僕はこの時間にはいつも寝ているからか、とても新鮮に感じる。知らない家にいるみたいだ。
玄関を入って目の前に二階へ上がる階段があり、階段の左横にリビングへ続く廊下がある。僕は痛む右足を気にしながら靴を慎重に脱ぎ、リビングへ続く廊下を行く。
リビングの扉にある磨りガラスから光が漏れ、父さんと母さんの話し声も少し聞こえる。二人とも起きてるんだ。丁度いい、僕の現状を二人に話そう。そしてありがとうって言いたい。何よりも家族に会いたいんだ。
考えただげで目に涙を浮かべる僕は、扉の取手に手を伸ばす。
「おい! お前、まだあの男と会ってるのか?!」
僕は驚いて取手に伸ばした手を引いた。え?、父さんの声?
「やめてください! あの子に聞こえる……」
父さんに返答した声は紛れもなく母さんの声。荒げた声なんて聞いた事ない、母さんの声。これは……、何を話して……。
「俺を裏切っといてどの口で言ってんだ! この売女め!」
「八つ当たりはやめてください! もう終わった話でしょ! 元はと言えば、貴方が会社のお金を横領してなければこんな事には……」
「うるせぇ!」
否が応でも聞こえてくる二人の怒声が僕の頭を真っ白にした。目に浮かべていた涙が頬を伝う。先ほどとは違う意味の涙が。
僕は振り返って玄関の方へ歩き出す。右足を引きずる事なく、怪我なんて最初からしてなかったかのように歩く。靴下に染み込んだ血が床を汚す。
「…………ックズが」抑える気の無い気持ちが口から出る。
裏切られた。家族に対して残ったのはそれだけだった。家族だけは、家族だけは違うって思ってた。大好きな家族を信じてた。だって完璧な僕の親なんだ、大丈夫だって思うだろ。でも違った、クズ共と同じクズだ……。
僕は二階へ行く階段を上がる。足の痛みは感じない。もう僕に痛みはないんだ。
自分の部屋に入ると、真正面の壁側に勉強机がある。僕は鍵付きの引き出しを開けて、中から取り出したのは包丁。これはストレス発散用に買った物だ。その証拠に、刃には糸がくっついている。僕は殺傷痕の跡が目立つクマのぬいぐるみが入ってる引き出しを締める。
とうとうこの時が来たんだと、僕は包丁の刃を見つめる。さっきのぶつかってきた男の時とは訳が違う。今僕に、悲しませたくない家族はいない。枷はないんだ。僕は自由。殺人犯の様に光るんだ。
清々しくて体が軽い。これぞ自由。
よし、リビングに行こう。やる事は決まってる。
僕は振り返って扉の方に向く。
ん? 今、殺人犯がいたか? 振り返った瞬間、視界の隅に彼を見た気がした。僕は彼の方に顔を向ける。
彼はいた。初めて会った時の、最高の笑顔で。しかし違った。
「ぼ、僕……?」
彼じゃなく、姿見に映った自分だった。殺人犯の様な、最高の笑顔で。
いつの間に僕は笑ってたんだ? まるで彼の様じゃないか。喜びが溢れて僕は顔に触れる。
殺人犯の様に笑えた。僕は本当に自由なんだ。これが自由の証だ。
そう思ってたのもつかの間、僕はある事に気づいて、早々に喜びは消える。
「光ってない?」
理想と現実はあまりにも違った。自由になれたのに、姿見に映った僕は殺人犯の様な光る魅力は一切ない。これが現実か。それは余りにも酷な話だ。
客観的に見た僕はこんな物か……。殺人犯の様にはなれない。僕はこんな物の為に、親を殺そうと考えてるのか?
怒りを抑える日々、人を殺そうとして足に怪我までした。くだらなくて情けない。何だよそれ。
自分が我慢してきた事がとても矮小に感じて、思わず笑い声をあげる。
僕は今まで真面目に生きた。法を、マナーを、モラルを、全て守ってきた。殺人犯に会い、知らない自分に出会って我慢の日々。その末に行動に移そうとしてまた我慢。我慢我慢我慢。何で僕ばっかり……。
僕のしてきた事は、無駄だったのだろうか? 真面目手に生きて、自慢の息子でいたくて。頑張ってきたのに何で苦しいんだ。何も考えず生きてる奴らの方がとても楽しそうだ。僕は生きるのが下手なんだろうか? なら、下手は下手なりに、いっそこのまま親を……。
笑顔も笑い声も消え、苦痛の表情に変わる。僕はベットに腰を降ろす。
裏切りだ。このまま殺しに行けば、僕の今までの努力を裏切る事になる。そんな事、クズ共と同じじゃないか。客観的に見る事で、僕は少しだけ冷静を取り戻す。
また僕は我慢しななきゃ行けないのか? いや、無理だ。あの親とこれからも一緒に暮らす事はできない。
これまでの努力とくだらない自由を、天秤にかけても答えは出ない。なら僕の答えは……。
これしかない、月並みな答えなのかもしれない。でも、僕にはこれしかない。
ベットから立ち上がり、腕を垂直に伸ばす。両手で握った包丁の刃先を自分に向けて、一つ深呼吸。今は覚悟を決めた表情だろう。
僕はそのまま目の前の壁に向けて走り出す。この部屋の広さでは狭過ぎるほどの全力で。包丁を握った両手が壁にぶつかり動きを止め、僕の止める事の出来ない体が包丁に突き刺さる。
勢のおかげで包丁は僕の胸に深々と刺さる。
僕は床に背中から倒れ、傷口から漏れ出す大量の血が服に赤色に染める。床は流れた血で血だまりを作る。
僕はこれから動かなくなる人だ。
手と足の指先とから徐々に感覚がなくなる。とても楽な気持ちだ。
清々しいとかではなく、至福だろうか。疲れた体には丁度いい。これほど感情の起伏が激しい日はない。とても疲れた。とっても、疲れた。
ボヤけてきた僕の視界に殺人犯が入って来て、また僕を見下ろしてきた。
表情は全くわからない。だから訊きたかった。
今……、笑ってますか……?
(終)
ここまで読んでいただきありがとうございました。
この作品はSSの会メンバーの作品になります。
作者:アポロ