最後の平和
グレン教授はその後姿を消した。
連絡先もわからないまま、あの日の出来事はまるで夢だったのではないかと思うこともあったが、私以外にもあの日の目撃者がいるのだから事実に間違いはないのだ。
「ねえ、お腹空いちゃった。ランチ買ってくる間ちょっとこの検体見といてくれる。」
「ああ、任せとけ!」
「よろしく。温度変わらないように気を付けてね。戻ったときおかしくなってたらただじゃ置かないから!」
「わかってるって!さっさと行ってこいよ。もうすぐ食堂閉まる時間だぞ。」
「そうだ!急がなきゃ!」
「ついでにチョコバー買ってきて!」
「わかった。」
イリーナが足早に部屋を出て行く。
「おい、なんでお前らそんなに最初っから仲良いんだよ?出身とか全然別だっただろう?」
隣にいたマイクが羨ましそうに尋ねてきた。
グレン教授は幻のようだったがお陰でイリーナと仲良くなれた。それだけでも教授には感謝だ。
「たまたま入寮手続きの日に知り合ったんだよ。お互い留学生で話も合ったしね。」
誰が見ても美人のイリーナは男子に人気だ。紹介を頼まれる事も多いが学業が忙しいのを理由に断り、イリーナに時間を作らせないように次々新しい予定を組み込むのにも余念はなかった。
実際留学生で編入学、しかもデリケートな細胞培養の実験をやっているような学生は授業と実験と宿題をこなすだけで食事と寝る時間さえ足りないくらいだった。
結局グレン教授の思惑がどこまで影響したかは不明だけど私もイリーナも遺伝子と細胞の研究に打ち込んでいた。
いつも一緒にいる私達は周囲からも付き合っているように見えたのか私がイリーナの紹介を依頼されるようなことはなくなった。私としてはこのままの流れでイリーナとはいずれ付き合いだすだろうと思ってきっかけを探っていた時だった。
「ねえ、医療工学のタカヒロって知ってる?」
「ううん。見たことはあるけど知り合いじゃないよ。喋った事もない。」
「そうなんだ。この前から培養器の改良テストに協力してるんだけど他にも使いそうな人がいたら紹介してって言われてるの。ユウトも使ってみる?センサーで検体の状態を感知して設定条件キープしてくれるから楽よ。観測条件も全部記録できてて録画も遠隔操作もできるの。AIのシュミレーターが付いてて何度か実験したらある程度の予測をしてくれるから闇雲に色々試さなくて良いらしいし。」
「へえ、そりゃすごいな。じゃあ頼んでみようかな。」
「じゃあタカヒロに言っとくね。」
工学部から来たタカヒロは元々生物医療系から来た私やイリーナとは毛色が違うと思っていた。接点もほとんどなかったがいくつか同じ授業をとっているせいかいつの間にかイリーナと協力関係を築いていた。
私の中で嫉妬と不安が鎌首をもたげ始めた頃には既に手遅れだった。
奥手で恥ずかしがり屋の私と違い、体育会系で勢いのあるタカヒロは早々にイリーナをデートに誘い、いつの間にか付き合い始めていたのだ。
イリーナから相談を受けた私は狼狽た。
「ねえ、タカヒロから付き合って欲しいって言われちゃったんだけどどうしよう?」
「え⁉︎いや、だってイリーナ忙しいだろう?そんな暇ないって言って断ったほうが良いんじゃないかな?」
「うーん。理由ってそれだけ?」
「え⁉︎それ以外にある?」
今思えばこの時もっと気の利いた事を言うべきだったのだ。いっそ告白でもしていれば良かったのかも知れない。いずれにせよ私は千載一遇のチャンスをみすみす逃してしまったのだと後になって後悔した。
数年後ー私は遺伝子の中からいくつかの特別な塩基配列を見出した。それこそがグレン教授の言っていた神の遺伝子なのだと直感で分かった。それは正に暗号のようで誰もが持っている物質のはずなのに並び方が違うだけで全く別の性質になるのだ。私はそれら特別な遺伝子を組み合わせるべくまずは遺伝子の収集にあたっていた。だが一番手に入れたい遺伝子をまだ手に入れられずにいたのだ。イリーナの遺伝子だ。
イリーナの研究はいつしか私とは袂を分かっていた。彼女は生体の表面に生息する常在菌の中に特別なものを見出した。それも神遺伝子の一種と言えるのかも知れないが、彼女はその菌で人体を覆うことであらゆる細菌と化学物質に対する抵抗力を得ようと考えていた。彼女はそれを『スーパーバイオバリア』略して『SBB』と呼んでいた。