創世前夜
私は目の前の少女に見とれていた。
小さな一粒の卵細胞からようやくここまで育ったのだ。その美しさは例えるなら一粒の真珠がそのまま人になったかのような無垢で飾り気のない、それでいてその存在そのものが光り輝いているような、そんな美しさだ。
円柱形の水槽の中で胎児の姿勢のまま大きくなった少女はまだ生まれていない存在だ。
母親の胎内代わりの水槽にユラユラと浮遊してる彼女にはまだへその緒代わりのチューブが繋がっている。
一度も太陽に晒されていない肌は透き通る様な象牙色で、豊かに波打つ栗色の巻き毛が天女の羽衣のように裸の身体に纏わりつきながら揺れている。
まだ開かれていない両目は長い睫毛がその存在を誇張し、まだ見ぬ瞳の美しさを想像させる。
髪の間から見え隠れする整った顔つきは母親のあの人譲りだと分かった。母親と呼ぶのには語弊があるかも知れない。卵子提供者と言うのが正しいのだろう。
『私の卵子をあげるわ。あまり変な事には使わないでね。』彼女と交わした最後の会話を思い出す。この光景を見たら、彼女は何と言うだろうか?
私の研究は大学入学が決まったあの日に始まった。彼女との出会いも含めて、全てはあの日に始まった。あの、狂人さながらの老教授の言葉から、私の神を生み出す挑戦が始まったのだ。
十数年間の時を経て尚、鮮やかに脳裏に蘇るあの日の光景…。
あれは秋の訪れを感じる爽やかに晴れた九月の朝だった。私は入寮手続きの為に大学の学生課を訪ねるところだった。
大学自体が一つの小さな町と言えるほどの広いキャンパス。実際各校舎や寮、事務所の入った建物はそれぞれ数百メートル単位で離れていて、まだ慣れない私は地図を片手にキョロキョロしながら歩いていた。すると前方に一人の初老の男が大声で喚いているのが見えた。憧れの大学に入学できて浮かれていた私は、あまり気に留めず、ただ目的地に向かって黙々と歩みを進めていた。その時私の機嫌がすこぶる良かった事もあるのだろう。急に言い寄って来たその男をあまり不快とは思わず、つい相手をしてしまったのだ。
「君、新入生かい?専攻はもう決まってるのかね?」
「はい。医学部で遺伝子工学を取る予定ですが…。」
「医学部⁉︎遺伝子工学⁉︎素晴らしい!是非私の話を聞くべきだ!絶対に君の役に立つだろう!」
「あの、失礼ですがどなたですか?僕はこれから学生課に行かないといけないんですが…。」
「学生課なら夕方まで開いてるから大丈夫!それより今日私に出会った君は物凄い幸運の持ち主だ。これは本当に運命的な事なんだよ!私は宗教学教授のグレン・アッパーカッターだ。」
「宗教学ですか…?」
宗教学はもうどこの大学でも廃止が決まっているはずだった。世界政府の無宗教化政策で全ての宗教と宗教行為が全面禁止された事を受けての事だ。辛うじて哲学は残っていて、宗教関係者は大挙してその狭き門へと押し寄せたため、哲学分野で残れなかった学者や宗教家達は多くが失業したり、違う分野への転職を余儀なくされていた。
「ああ、全く世界政府は狂っている!宗教学と宗教は全くの別物なのに!私も今学期から教壇を去らなければならないが、君は本当にラッキーだよ!今日私の話を聞けるんだから!」
「いえ、別に話を聞くとは…」
「まぁ、聞いてくれ!絶対に君にとっても興味深い筈だから!遺伝子工学をやるんだろう?なら、神の遺伝子と言うのを知ってるかい?」
「神の遺伝子?いえ、初めて聞きました。一体何ですか、それは?」
「やっぱり知らないのか!言葉通りだよ!神の遺伝子だ!我々人類には実際に神の血が流れているんだよ!ごく微量ずつ世界中に散らばったその遺伝子をかき集めれば、今の技術なら神そのものを生み出すことだってできるだろう。どうだい?面白い話だろう?」
「いえ、ちょっと突拍子も無くて何とも…。そもそも神なんていないというのが今の常識でしょう?」
「そこだよ!そもそもの間違いは!確かに神話に誇張されているような神はいないかも知れないが、それに近い生物は実在したんだ!そしてその遺伝子がまだ我々の中に残っているんだ!まあ、聞きたまえ。」
彼は強引に私の腕を引いて近くのベンチに腰掛けた。胡散臭いとは思いつつも強く拒否しなかったのは私も彼の話に少し興味を持ち始めていたのだろう。
「いいかね?聖書を含め、多くの神話の冒頭部に家系を記してあるのは何故だろう?ヒンドゥ教の聖典にも、神と人が交わり、生まれた子孫の多くが英雄として描かれている。ギリシャの神話だってそうだ。古代エジプトのファラオは神の子孫とされて近親婚を繰り返していた。古代韓国の王族や日本の皇族も神話と自分達の先祖を繋げている。何故か?本当に神と呼ばれる生き物が存在し、その遺伝子を極力薄めずに受け継いで行こうとしていたのだと考えれば当然の事と納得が行く。そして我々は時折目にするじゃないか?人並み外れた能力の持ち主を!レオナルド・ダ・ヴィンチやアルバート・アインシュタイン、スポーツ会のトップアスリート、世界的大企業の創業者など、普通の人間では考えられない偉業を成し遂げる人たちがいるだろう?あれこそが神の遺伝子が実在する証拠さ!」
「あの、宗教の事は学校でももう習わないのでよくわかりません。それに宗教学の先生が何故遺伝子の話をするのかも疑問です。あくまでも仮説で何の証拠もないじゃないですか?」
「それだよ!証拠!正にこの目の前にいる私こそが証拠なんだ!是非私の遺伝子を調べて欲しい!神の遺伝子と言っても種類は色々あって、私の場合は『記憶』なんだよ!神の記憶だ!遺伝子に刻まれた神の意志を知っているんだ!イエス・キリストやモハメッドは『予言者』だった。聖書にもよく預言者が出てくるだろう?彼らと同じで私も神の言葉を知っているんだ!それは誰かから習ったものではなく、幼い頃から勝手に頭にインプットされていた。つまり遺伝子の中に組み込まれていた記憶なんだ!」
今にも何らかの体液を提供しだしそうな勢いに私は身の危険すら感じ始めていたが、何故かその場を動けなかった。頭が本能的に彼の言葉の信憑性に気づき始めていたのだろう。心の奥底に芽生えた興味を抑えるように私はあえて彼を否定する言葉を口にした。
「すみませんが、お話についていけません。気を悪くなさらないでいただきたいんですが、今までのお話を聞いて僕が言えることは、精神科の受診をお勧めすることくらいです。」
「またか!君もか!なぜ誰も分かってくれないんだ?君なら分かってくれそうだと思ったのに!」
「そんな勝手なことを言われても…。」
こんな変な人に仲間扱いされても迷惑この上ないだけだ。それがその時の私の偽らざる本音だった。だが、迷惑おじさんの話は続いた。
「何故だと思う?それは君も神の遺伝子を持っていそうだからだ。これは私の勘だが、君も私と同様に持っているんだ。何と無くわかるんだよ!血が呼び合うというか…。そうか、言葉を変えよう。何故人類は存在すると思う?我々は一体なんのために生きているのか?誰もが一度くらいは考えることがあるだろう?」
「生きる意味とかですか?」
『このおじさん、相当ヤバいな』と頭の片隅では思いつつ素直に答えている若き日の私。おかしいと思いつつも、この時既に私は彼の言葉を信じ始めていたのだ。
「そうだ、君は何の為に生きている?生きる目標は?」
「そうですね、僕の場合は人類の役に立つ技術を見つけていく事ですね。遺伝子に組み込まれた情報を解析し、人類全体を病気に強くてより優秀な種に発達させて行きたいです。」
「素晴らしい!それこそ今日私と君との出会いが神の意図した運命だと言うことだよ!あ!そこのお嬢さん!そう!君だよ君!今日はなんて日だ!次々に優秀な若者が現れる!」
私の話をすっ飛ばして、おじさんはすぐそばを通りかかった女生徒に声を掛けた。側から見ててもかなり怪しい。だが、声を掛けた相手がとんでもない美人だったので、普段自分から女性に声なんて掛けられない私は、実は内心とても喜んでいたのだが。
『ナイス!おじさん。うわぁ、すっごい美人だ…。どうしよう。自分も変態仲間だと思われないかな?』
思えばその場を立ち去るチャンスではあったのだが、私は遠くから彼女に見惚れて立ち尽くしていた。そこへ怪しいグレン元教授が件の美女を伴って戻ってきた。
「いや、君たちは本当にラッキーだよ。ほら、彼も医学部の新入生だそうだ。あ、そうだ、名前をまだ聞いてなかったね?」
「あ、ユウト・イリフネです。」
「イリーナ・カミンスキー。宜しくね。」
ニッコリ微笑みながら彼女が右手を差し出すので私は慌てて掌の汗をズボンで拭って握手した。緊張で汗ばんだ私の手に白く柔らかな彼女の手は大理石のように心地よく冷えて感じられた。
挨拶を交わす我々の肩をグレン元教授が軽くポンポンと叩きながら横のベンチに誘導する。
私は完全に立ち去る機会を失ってイリーナと2人でグレン元教授の話に付き合った。