4. 守護者の隠密とバラ
「私、この城を出るわ。」
姫のその言葉が天井裏まで聞こえる。ふっ、少し笑みがこぼれる。いよいよ、 リアムさまの言うとおりになってきたなと思った。
もう何時間も、この天井裏に潜んでいる。主人であるリアムさまが死んでから1週間。こうして姫の様子を伺うのが私の日課になりつつある。リアムさまがご存命の際は彼と姫との時間を邪魔するのが怖くて(主にその後に機嫌を損ねる彼の報復が、だが……大抵の場合は無理難題を突きつけられた)近づきもしなかったのに。彼が亡くなったその日にはじめて様子を伺いにきたが、そのときはあまりの姫の取り乱し様に声もかけられなかった。それからというもの、ここへ来てもなにもできずに立ち去っている。リアムさまに頼まれたことはあったのだが、果たしてそれが姫の本意なのかどうか。そんなこと考えるのは私の仕事ではないのは百も承知だが、これから主人にしようと思う人の身の上を案じずにはいられなかった。
今日こそは行動に移さなければ。
リアムさまとはひと月以上前から、ずっとこの話をしていた。『もし僕がいなくなったら、』彼はまるで仕事の話をするかのように自分の死を語った、『ランに死ぬまで仕えてほしい』と。
私たち一族は主人がいないことには生きていかれない。話せば長いが、とりあえずそういうことになってる。もともとはウレス大陸を南北に横切るように存在する谷間に里を構えていたが、長くに渡る戦争に巻き込まれて、今はウレス大陸全土に一族が散らばっているといった状態だ。それでも未だ結束は強く、一年に一度は皆が里に集まる日がある。もちろん密かに、ではあるが。リアムさまには訳あって、リアムさまの大叔父さまの時代から一族皆で仕えている。こちらも、王族でも限られた人しか知らない秘密事項だ。
ちょうどリアムさまの弟に仕える気は無かったから(あいつは何をどう間違えたのか、どうしようもないバカだった)、リアムさまが亡くなればまたもう一度主人を探すのが面倒だと思っていたところだった。だから彼の申し出は断る気はなかったし、むしろありがたいくらいだった。
『でも、ランは難しいからなぁ。そう簡単にはレンたちの主人にならないと思う。』そう苦笑するリアムさまの発言の意味はまだあまりわかっていない。彼が姫と私たち(だけでなくとりあえず彼以外の人間はすべて対象だった)が不用意に関わることを避けるものだから、姫とは面識さえなかったのだ。でもリアムさまの話を聞く限り、聡明な方なんだと予測がついた。それに、結婚前に彼に言付かって行った姫の身辺調査の際に、姫自身にもお抱えの隠密が少なくとも1人はいることが確認できている。だから、もう私たちのような隠密は必要としてくださらないかもしれない。向こうもこちらに探りは入れているだろうから、私たちの存在がばれていててもおかしくはない。
『ごめんね、でも君たちぐらいにしか頼めないんだ。異国の姫って肩書きだとあまりにも遺せるものが限られるからね。』リアムさまに謝られたのは、28年仕えてきた中で、あのときだけだったと思う。その外交の腕からウレスでは最高の王などと呼ばれる彼にも、死だけはどうにもならないんだと痛感した一瞬だった。思えば、あのとき私はもう彼の死を受け入れてたんだと思う。だから、もう。姫のように取り乱すこともなく、ただリアムさまの最後の任務を遂行していられる。
遺せるもの。リアムさまがいなくなった後、姫の立場はどうしたって弱まる。もともとは敵国の姫を彼の気まぐれで周囲の反対を押し切って連れてきたのだ。当時よりは反対勢力も弱まったものの(私とリアムさまの働きかけの成果だ)、それもいつまで続くものか。もし姫がリアムさまの弟に嫁いで、王妃であり続けるのならば別だが。
『こんなことはランに限ってありえないと思うけど。』そう言いながら陛下は姫が次期王である彼の弟に嫁ぐ可能性を語った。私が姫であったら、迷わずその道を選んだだろう。どれだけの愚弟であっても。だってそれが姫に残された1番確実な生存の道だから。それでもリアムさまはありえないと言った。でもその瞳が不安げに光ったのを私は忘れられない。
『もしも、そんなことがあったとしたら、そのときはレンは里に戻って、また新しい主人を探してくれ。』
リアムさまは姫にも独自に隠密がいることを知っている。あのエスリアの姫だ、調べればもっと色々な付き人がいるんだろう。ただリアムさまはそれを知りながらも、姫に対して何も追求することはなかった。『時が経てば。』そう彼は笑った。思えば、リアムさまも色々なことを姫から隠しているのだから、それを姫に晒す時に聞き出そうということなんだろう。結局知らずじまいではあったが。
『ランなら大丈夫だと思うよ。』
ただの姫じゃないことは一目見たときからわかっていた。美しいだけではない。その人を射抜くような、何も逃さないような目が、何度私の姿をとらえたことか。彼女の行動を木陰から伺っているときなんかは、目が合ったことさえある。私でも里では一、二を競う隠密であるのに。リアムさまの命で姫を追跡した際も、『旦那さまの付き人だから見逃しているだけよ。』そんな含みのある目で見つめられたことがあった。あれだけの姫なら、城にいる限りはどんな愚王の妻であっても強かに生き抜いていくだろう。この国の未来を思えば、そちらの方が心強いぐらいだ。
『ただ城から出る、ってランなら言うと思うんだ。もしそうなったら。』
お任せください、と膝を折って礼を取る。城から出る、なんてあんな聡明な姫が言うとは思えなかったが、それでもリアムさまの思いのままに礼を取った。もう余命も少ない彼に、こんな寂しい現実を突きつける必要はない。
そう思っていたのに。今、部屋のベッドに横たわる姫は、リアムさまが予想していた通りのことを口にしていた。
「私、この城を出るわ。」
驚きのあまり、落ちるかと思った。この姫はわかっているのか。城を出れば、敵の量は数えきれない。火の海に飛び込んでいくようなものだ。特にその髪と瞳の色じゃ、エスリアのものであることが一目でわかるから。
姫は輝く金糸の髪と深い青色の瞳をしていた。この国ではあまりにも珍しい。多民族国家のヒタルイでは人種差別といったようなものはほとんどないに等しいが、姫は敵国の女とすぐわかるだけに、ただじゃおかないだろう。
『ランにはたまにほんとうに驚かされるよ。』そう口癖のようにつぶやいていたリアムさまの幸せそうな横顔がぱっと浮かんで、思わず口元を緩める。ダークブラウンの髪に翠の目をした彼があんな風に微笑むと、最高の王という冷徹な異名が嘘のようになる。
『でもだからこそ楽しいんだ。』楽しい、か。どういうことを指す言葉だったかも、もう忘れてしまった。私の人生に楽しいはあったのか。リアムさまのお父上が亡くなってから、その遺言の通りただただウレスから戦争をなくそうと奮闘した10年間だった。それ以前の記憶は、もはや頭から消え去っている。
でも、敬愛していたリアムさまだけでもそれを味わえたなら良かったと思う。そういえば、リアムさまの一方的な溺愛だと思っていたのだが……
ここ数日の姫の様子を見ているとそうでもなかったのかもしれない。姫は明らかに悲しみにくれている。冷静に考えれば、あの姫が無理やり嫁がされるなんてことあるのだろうか。いや。あの姫に限ってそんなへまはしないだろう。いくらリアムさまのお力があっても、姫の逃げようという意志さえあれば逃げおおせた気がする。
ああ、そういうことか。だからあんなにもありえないとリアムさまは言い続けたのだ。だって、姫も彼を愛していたのを、リアムさまは知っていたから。あんなにも姫の今後を思案していたのは、簡単に心を入れ替えてほかの男に嫁ぐほど、姫が薄情でないとわかっていたからかもしれない。
ああ、そういうことか。やっと点と点が繋がった。こうなればもう、迷うことはない。彼と決めた作戦を、ただただ実行に移すのみだ。この数日悩んでいたことが嘘みたいに、心が晴れ渡った。
ちょうど扉が閉まる音がする。1週間ほどこの部屋にはだれも寄り付かなかったというのに、今日はやたらと忙しい。リアムさまの弟の即位式だからか。そろそろ姫に私たちの存在を認めてもらえないと計画が狂ってしまう。作戦決行の日にちは刻々と迫っている。だから、今日こそは、と決心して朝からずっと部屋の様子を伺っているのだが(一応私たちの存在は秘密であるため、姫とは一対一で話したかった)、即位式のための準備が終わったあとも、医務官が来て姫と話していた。医務官の話にも多少興味はあったが、そのことはもうリアムさまから事前に聞いていたから(双子だったことには驚きを通り越して呆れたが)、さほど思うところもなかった。医務官がいなくなった今も、執事が部屋で姫と話していたから、まだ姫とは一言も言葉を交わしていない。
「では、お妃さま、お召替えの服を女官が持ってくるまでお休みください。」
やっと執事が話を終えて部屋を去った。執事が完全に去ったのを確認してから、いざ部屋に飛び降りようとしたとき。
「出てきていいわよ、もう私ひとりだから。」
そう声がかかった。やはり。この姫はずっと、私の存在に気づいていたのだろう。そんな気がしていた。
「はい。」音を立てずすっと、姫の腰掛けるベッドの左側の床に着地した。
「はじめまして、ってことにしとく?」ゆっくりとこちらを向いた姫が嫌な笑顔を見せながら挨拶をする。やはり気づいていたんだろう。目があったと思ったのは気のせいではなかった。
「そうですね、一応その方がありがたいです。お初にお目にかかります、リアムさまにお仕えしていました、レンです。」そう言って、一応膝を床について礼の形をとる。
「お願いだから堅苦しいのはやめて。性に合ってないのよ、まあ私のことは調べてると思うし、知ってるでしょうけど?」
やはりすべて筒抜けか。姫の腕がいいのか、その付き人か。そう探りたくなる気持ちをぐっと抑える。今はなんとしてもこの人の信頼を勝ち取るのが先だ。
「お怒りですか?」膝はついたまま、目をあげてそう問う。密かに結婚相手に身辺調査をされるのは、普通の人間なら嫌だろう。
「なんでよ、私も旦那さまのことを捜査するように言ったからお互い様でしょう?」
そう言って笑う姫はなんとなくリアムさまを思い出させた。二人で同時にお互いの身辺捜査を行うとは、似た者同士もいいとこだ。
「あの、レンって呼んでもいいかしら?」目を合わせながら聞いてくる姫に驚きが隠せない。もっと無口で冷静な人だと勝手に思い込んでいたから。
「はい。」そう答えると、姫は満足そうに目を細めた。
「じゃあレン、思い違いだったらごめんなさい。でも私、あなたたちの主人にはなれないの。」
覚悟はしていたのだが。一筋縄ではいかないことを思わす姫の言葉に先が思いやられた。
途中で終わってしまいました。次回に続きます。明日も0時ごろに投稿したいと思います。