3. 医務官とバラ
「お妃さま、医務官のトムでございます。」つい最近まで幾度となく足を運んだ扉の前で、声をかける。陛下、と呼びかけられないことに寂しさを感じる。
「どうぞ。」答えたお妃さまの声に従い、扉を開ける。
「失礼いたします。」
「いいえ、わざわざ来てくれてありがとう。」
「体調が優れないとお聞きしましたが。」
「まあね、あとそれとちょっと相談があって。」
「ご相談、と言いますと?」
「それが……」
言い淀むお妃さまは嬉しいのか、悲しいのかわからないような、何か困惑した顔をしていた。私はお妃さまが何を聞きたいのか、手に取るようにわかる。そしてその答えも知っている。でも。
『何があっても自分からは言わないでくれ』そう、陛下からは言い聞かせられていた。『こんなことは考えたくもないし、ないと信じたいけど、それでも彼女の意志は尊重したいから。』
だから、お妃さま、あなたがおっしゃってくれなくては、私は返事をすることもできないのです。
願うように、お妃さまを見つめる。陛下が、いや私も望むひと言を発してくださるように。
「旦那さまから聞いたというか、ほのめかされたのだけれど、私の体には、彼との子がいるのかしら?」
どっと疲れを感じた。ああ、やっと、やっと聞いてくださった。陛下が亡くなってから約一週間。いつになったら聞いてくださるのか、はたまた気づいていらっしゃるのか。気づいていらっしゃらなかったら、私はどうしたらいいのか。陛下の最後の頼みが果たされたのだと思って、ほっと息をしてから、答える。
「はい、おっしゃる通りです。」
私がそう言った瞬間、明らかに顔を綻ばせたお妃さまを見て、陛下の心配が杞憂だったことを知った。
ひと月ほど前。ちょうど陛下の体調が悪化しはじめた頃だった。私の医務室まで人目を忍んで検診に来た陛下に、頼みごとがあると言われた。気を引き締めた私に、陛下は素っ頓狂なことを言いはじめた。お妃さまの体調がどうも気になるから検診してほしいとのことだったのだが、
「朝の3時ごろ、ですか?」
「うん、ランが寝ている間にやってもらいたいんだ」
「はあ。」
ランとは、お妃さまの愛称である。エグランティーヌという長い名前のお妃さまを呼びやすくと彼女の母国で家族がそう呼んでいたらしい。この国の古い言葉で、ランは愛という意味を持っていたから、ぴったりだと言って陛下は愛用していた。そんなお二人の仲睦まじいお姿は、たとえ敵国の姫といえど、どこまでもほほえましかった。
「それはまた、どうして?」
幼い頃から城の医務官として育てられた私は、この方をよく知っている。というか、陛下の気まぐれには生まれてからずっと振り回されている。今度は何を思いつかれたのか、と気が気でない。
「ランの体に子どもがいるんじゃないかなと思うんだけど。」
「!」一瞬、心臓が止まるかと思うほどびっくりした。もう?というのが率直な感想だ。
「それはめでたい限りではないですか!早く、皆に……」
「いや、待て。」興奮する私を、陛下は硬い声で制した。
「どういう……」戸惑って私は問い返す。
「これはまだはっきりしたことではないし、それに、子どもがいたとしても、ランには黙っていてほしい。もちろん、周りにも。」諭すような深い目で視線を合わせてくる陛下の意図がわからなかった。
「どうして……」
「できるか?」揺るがない、声。物腰柔らかく、部下の意見もよく聞いてくれるため、誰もが敬意を持って従う陛下。でも、この顔は、絶対に自分の意志を通そうとするときにしか見せないもの。私も、今までで1度しか聞いたことがない。それも、お妃さまを正妻にすると陛下が城全体に報告したときのみだ。
「はい、」なぜか気になりながらも、「陛下の思いのままに。」そう言って目を伏せ、頭を下げる。
「ありがとう。」そう言って陛下が立ち上がる気配がして、頭をあげる。目があった時、陛下が寂しそうに笑って言った。「僕ももうそう長くないと思うから。」
「そんなことは……」
「トムの腕があっても寿命はどうにもならないだろう?大丈夫、生まれたときからわかってたことだから。」
ヒタルイの王族は遺伝的に寿命が短い。陛下のお父上も早くお亡くなりになったのはそのせいとも言える。ただ……
お妃さまを迎えてからまだ半年ほど。それなのに彼女を置いてかなければならない陛下が気の毒だった。でももっと気の毒なのは、異国から嫁いできたばかりのお妃さまだろう。勝手も分からぬ異国で夫を亡くすなど。気の毒でしかない。
「神妙な顔するなよ。ランは大丈夫だから。」
そう言われてはっとする。エスリア国には個人的に恨みもあり、お妃さまのことも嫌いであったはずなのに……
「私は陛下を心配していたのですが?」
「嘘つくなよ。ランが気の毒だって顔にかいてある。」
他人からも分かるほどだったとは。あんなに反対していた分、少し恥じる気持ちもある。が、もうそろそろ認める必要があるんだろう。苦笑しながらも陛下を見ると、満足そうに笑っていた。
「敵国の姫、なんだけどな。みんなに好かれてしまうランが大好きだよ。」そう言い残して陛下は出て行った。
ならばなおさらお子さまのことは隠さぬ方が……そう言いそうになるのをぐっとこらえてもう一度頭を下げた。
陛下から頼まれたお妃さまの検診は、それから2日後だった。もちろん、お忍びでだ。本人にまでも知らせないとは、人が悪いにもほどがある。
喜ぶと思うんだけどな。
お互い両思いなお二人のことだ。子どもができたなんて知ったら、お妃さまだって心の底から喜ぶに違いない。考えたくはないが、陛下が亡くなるなんてことがもし陛下自身の念頭にあるのだとしたら、それこそお子さまがいた方が、王太子母もしくは王太子妃母として、その後のお妃さまの立場も揺るぎないものとなる。なのに……
考えてる間に陛下とお妃さまの部屋の前に着く。幾重にもなる警備の扉をかいくぐった最後にあるこの部屋の前には、衛兵がひとりもいなかった。いや、実際はいるのだろうが、隠れているのか、ひとりも見えなかった。いきなり夫婦の部屋に押しいるのもなと思い立ち往生していると、扉が開いた。そしてその隙間から陛下が現れる。
「待たせた、ごめんな。」
「いえ、今着いたところです。」そう言って陛下のあとに続いて部屋に入る。
特注で作ったと聞いていたからもっと広い部屋を想像していたが……部屋自体はベッドとその他の家具がちょうどおさまるほど。左奥に扉があるから続き部屋はあるのだろうが、王族というよりも、平凡な貴族の部屋と言われた方がしっくりくる。これが現王とその妃の住まいというのだから驚きだ。
私が思わずあたりを見渡していると、それを見た陛下が楽しそうにしていた。ランが好きなんだ、そう小声で呟いては幸せそうに笑った。
こっち、そう陛下が手招く方には天蓋付きのベッドがある。私から見て手前側、ちょうどベッドの左側に、音も立てず眠るお妃さまがいた。
「ほんとは寝顔なんて誰にも見せたくないんだけどね。」
でもランのためだから仕方ないよね、そう言いながら陛下は、お妃さまが顔の半分くらいまでかぶっている布団をはいだ。美しい顔はさっきまで隣にいただろう陛下を見るように右を向いて、安心して眠っていた。お妃さまが寝間着を召しているのを見て、思わずほっとしてしまう。
「トムに見てもらうのに裸なわけないだろ?」そう言ってニヤニヤしながら陛下は私を見ている。よほどお妃さまの寝顔を見せたくなかったのか。今日の陛下はたちが悪い。
「では、はじめますよ。」
「ああ、頼む。」
私は少し呪いを唱えてから、右手を、お妃さまの子宮あたりにかざす。ぽわっと光が灯るのが見える。見える、といっても、私たち民族、それも限られたものだけにしか見えないのだが。
「どう?」右手を引っ込めてから、不安げに問いかける陛下の方に向き直る。
「陛下の、おっしゃる通りです。」
瞬間、陛下がぱっと顔を輝かせた。そう言って、ランと囁きながら愛しいお妃さまの頬を撫でた。思わず、こちらまでも笑顔になる。
「私はこれで。」陛下がお妃さまとふたりきりの世界に浸りはじめたのを見て、私は背を向けた。
「トム。」呼びとめられて、振り返ると、真剣な瞳で見つめる陛下の目があった。
「はい。」
「このこと、絶対に黙っといてくれよ。」
「わかっております。」そう言いながらも、戸惑いは隠せない。どうして……
「ランは、」愛おしげにお妃さまを見つめながら陛下は言う、「トムが思うほど弱くない。」
「はあ。」急に何を言い出したか分からず、言葉を濁す。
「これも全部、ランのためだから。」そう言ってこちらを見返す陛下の目に、狼が獲物を見るような、鋭い光が宿っていた。緩んだ口元がその美貌と相まって、悪魔のように見える。これは絶対悪巧みをしているときの顔だ。
「ランは絶対に幸せにするから。」
言い含めようとは思ったが、陛下にもう声は届かないだろうと思った。お妃さまを今にも襲いそうな勢いで見つめながら、私の存在などとっくのとうに忘れている。惚れるにもほどがある。
もう一度頭を下げてから、部屋を出る。もうひとつだけ伝えたいことがあったのだが、今言うのは不粋だろう。もう陛下の時間も限られているのだから。
長い廊下を渡りながら、今度の陛下の企みはなんなのか、思いを馳せた。
そして、今。顔いっぱいに幸せを噛みしめるお妃さまを前に、自分の予感があたっていたのかどうか、試したくなった。
「お妃さま、少しよろしいでしょうか?」
「ええ。」
お妃さまに近づいて、失礼いたします、と声をかける。戸惑う彼女の前で、その子宮のあたりに手をかざす。ぽわっと緑の光が宿る。そして、
「やっぱり。」
「どう、いうこと?」
「双子、ですよ、お妃さま。」
「えっ。」
ひと月前はかすかに割れ目が入っていたように見えたひとつの緑の光が、くっきりとふたつに分かれていた。あの日、陛下に声をかけようともかけられず、結局言わずじまいとなってしまった。陛下が知ったらどんなに悔しがるか。
「双子、なんて……」
驚きを隠せないと言ったように困った顔をするお妃さまに、言うまいとは思っていたのに、ひと月前の夜中の検診のことを話してしまった。陛下がどれほど嬉しそうだったか、お妃さまは知るべきだと思ったから。
「そう。よかった、やっぱり嬉しかったんだ。」お妃さまが呟く。さっきから慈しむように、ずっと自身のお腹をさすっていらっしゃる。
「はい。」なにか心あたりでもあったのか。話を聞きながら、あの日ねなんて思い出を噛みしめていた。伝えられてよかった。これで私も役目を果たせたということだ。ただ、しかし。これからお妃さまはどうするのか。それがあの日から気になって仕方ない。でも。
これは私の関わっていい話ではない。
なんとかそう思い切りをつけて、重い腰を上げた。お妃さまに一礼し、扉の方へ向かう。
「待って。」後ろから、お妃さまに声をかけられて振り返る。私を引き止めるようにベッドから立ち上がったお妃さまは真剣な瞳でこちらを見た。いつかの陛下のように。
「この子たちの存在は、誰にも言わないでほしいの。」お腹に手を添えながらお妃さまが発した言葉に、驚きを隠せなかった。
なぜあなたはその子たちを利用しないのか。確実に生きていくためには、それが1番の手だろうに。なぜ。そう思うのと同時に、なんとなくだが、なぜ陛下が口止めしていたか、わかった気がした。それが紛れもなく、お妃さまの願いだったからだろう。
そっとほほえみを浮かべながら、言った。「ご安心ください、陛下からもそう言付かっています。」と。伝えた瞬間に嬉しそうにするお妃さまは、陛下がご存命のときと同じほど輝いていて、横に立っている陛下が見えたような気がした。
扉を閉めて、廊下を渡る。こんなにゆったりとした気分でこの廊下を歩けることが奇跡のように思えた。陛下が寝込んでからの2週間ほどは、ずっと走り回っていたから。
ふーと大きなため息をつく。一仕事終わったのはいいものの、なにか腑に落ちない。お妃さまはなにをするつもりなのか。どこで生きていくおつもりか。子どものことを公表しないというのだからもしかして……
城を出る気なのか?あたりまえにたどり着けたはずの結論にはっとする。今まで思い当たらなかったのは、単なる現実逃避だったのかもしれない。いや、考えれば考えるほど、それがお妃さまにとって1番なような気がしてくる。夫がいない中、後見人もなしに敵国の城に居座るのはあまりに危険すぎる。次期王に嫁げばまた別だが……
この国の風習として、夫を亡くした王妃は、お子さまがいない限り、そのまま次期王の妻となることが多い。王族の寿命が短いからこそ、これは稀なことではないのだ。ただ、陛下に限って。あの愚弟に愛するお妃さまを嫁がせるなど、どんな手を駆使しても阻止するだろう。
はぁ。もう一度大きなため息をつく。あれだけ陛下が前もって準備していたのだ。お妃さまはこれからも幸せに暮らせるだろう。でもこの国は。
せっかく迎えた平和も、もう長くはないのかもしれない。あの愚弟が王座に座れば。また、戦場に戻るのか。
陛下、お妃さまが大切なのは十分わかりますが、この国のためを思うなら、やはりあなたのお子さまを王に迎えたかったですよ。
そう文句を言いたいのは山々だったが、言ったところで、ご存命であっても無理な相談だったろうと、もう目にすることはないのに、陛下の溺愛ぶりにまた呆れかえるのだった。
ありがとうございました。明日も0時に投稿します。