1. 執事とバラ
「お妃さま、お目覚めください。お妃さま!」
「もう日の昇る前から目覚めていてよ、ユウン。」
「ならば、なぜ。本日はイル王子の即位式ですのに。」
「分かっているわ。大丈夫よ。分かっているから。」
大きな大きな扉の前で、その小さな弱々しい居住者を、数日前まではウレスのバラとまで謳われた美しいわが主人の宝石を、まるでもう価値を失った瓦礫のごとくその最期の命綱から引き離すことは、私にとって苦痛以外の何事でもなかった。だが、時の流れは止まらぬ。私の役目はこの国を支えていくこと。一時の情に、流されてはならない。
今扉を開けては、取り返しのつかないことになることはわかっていた。かすかにも押さえきれぬ涙をすする音が、扉の向こう側から響いてくる。ここを開ければ、彼女の私への信頼は、また私の最も愛した主人の信頼までもが、失われることはわかっていた。でも、それでも、この国は新たな王を選んだ。私はこの国の僕として、心を入れ替えなければならない。
扉の取っ手に手をかける。毎日のように手にかけたこの扉は、いつも輝きを放っていた。内側から溢れ出す愛をそこにおさめるでもなくただ立ちずさみ、ほのかに幸せの香りを漂わせた。思えば、先王陛下がこの部屋にお妃さまを迎えてから、まだ一年も経っていないのかもしれない。幸せとは、本当に儚いものである。
もう一度深く息をする。この扉も、私と同じだ。新しい風をこの中に入れたくない。前の季節があまりにも心地よかったから。
「お妃さま」
私は扉を開けた。王の部屋にしては、そこまで大きいわけではない。それもそのはず。豪華なものがお嫌いなお妃さまのために、先王陛下が直々につくられたものなのだから。中心には質素な造りではありながらも立派なベッドが置かれ、それを取り囲むこれまた質素な家具には、お妃さまが直々に縫われたクッションだの、敷物などが愛らしく置かれていた。幼い頃に両親を亡くし、若くして王となった先王陛下には、このような小さな愛の塊でさえも新鮮で愛おしかったのだろう。それはもう見てるこちらが恥ずかしくなるほどのご寵愛ぶりであった。
しかし、そんな時の止まった部屋の中で、先王陛下ご存命のときとは、すっかりかけ離れた姿の方もいらっしゃる。お妃さまの愛された中庭に向かってつくられた大きな出窓。そこにすっぽりはまったように座って動かないお妃さま。今はただ何を思ってか、私がこの部屋に入っても、静かに窓の外を見ておられた。
「お妃さま」
そう呼んでやっと振り向かれたお顔は、またひどい有様だった。
先王陛下がお亡くなりになってから、数日間、お妃さまは食にも手をつけず、ずっとこの部屋にこもっておられた。その間、ずっと泣かれていたのだろう。美しかった瞳はその影も残さず曇り、その周りは真っ赤に腫れている。あの旦那さまのためにと毎日手入れを欠かさなかった肌にも、あろうことかうっすらとにきびができていた。もとから細い腕は今ではその骨を浮かび上がらせ、きらめく金糸の髪は、錆びかかったように艶を失っていた。
「なあに、ユウン。」
宮中を魅了したあの鳥のさえずりのような声まで、枯れてしまっていた。私は呆然として、言葉も出なかった。いや、私だけではないだろう。私の後ろについてきた女官たちも同様、手も足も出なかった。
「王妃さま、何ですか、その有様は!」
それでも彼女がこの国に降り立ってからずっと、誰よりもそばについていた女官長だけはすぐに声をあげ、お妃さまによっていった。
「何でもないわよ、ミルダ。」
「もういい加減になさってください、王妃さま。ウレスのバラともあろう方が。」
すかさず女官長が櫛を取り出し、とかし始めた。でも、そんなものでどうにかなるような髪の有様ではない。
「でも私は、もう美しくなる理由も、必要もないわ。ねぇ、ユウン。」
そう言って窓台からすっと立ち上がったお妃さまは、今まで見えなかったその左の手に、恐ろしいものを握られていた。
真紅のバラが刻まれた柄。それはお妃さまが祖国から、嫁入り道具としてお持ちになったもの。その柄に合わせた美しい覆いは取り除かれ、輝くほど鋭い切っ先が丸見えになっている。
「は!」
女官たちの息をのむ音が聞こえる。私が動こうとするのをさっと手で制したお妃さまは、みなの思惑に反して、その剣を床に叩き落とした。
「ああ!」
お妃さまはそう叫んで床にしゃがみこみ、短刀の刃を美しいその人差し指でなぞった。
「ああ。」
ため息を吐き出しながら刃をゆっくりとなぞるお妃さまの横顔は、美しかった。この世のものでないように、そっと笑っていた。まるで、どこぞの女神さまのように。
誰も止められなかった。
どくどくと赤い血がお妃さまの指先から溢れては、じわりとじゅうたんを濡らしていく。クリーム色の柔らかなじゅうたんに、真紅の模様が描かれた。じわり、じわりと。だんだんとその色味を増していく。じわり、じわり……
「お妃さま!」
耐えられなくなって私は声を荒げた。私の左足は短刀を部屋の隅まで蹴り飛ばし、右手は胸ポケットのハンカチを探り当てた。すぐさまお妃さまの人差し指に巻きつけ、止血を試みる。生温かい血が、私の冷え切った手を温めた。
「早く!」
すかさず女官長が声をかけ、止まっていた時間を動かした。それからは、てんやわんやの騒ぎだった。その騒動の中、私はずっとお妃さまの傍で、そのすすり泣きを聞いていた。死にたい、死にたいと必死に私に訴える彼女の声を、胸にとどめながら。
あれは、ちょうど一年ほど前のこと。
気まぐれの性壁が多少あった先王陛下はその日、隣国の夜会から帰ってくるなり、「僕のお嫁さんを見つけた」と嬉しそうに笑った。今まで女などに目をくれもしなかった陛下のことだから、使用人一同びっくりしたものだが、案の定、本気だったらしい。それからというものは、公務も早々に切り上げ、城内の夜会はそっちのけで、毎日口説きに出かけていったようだった。周囲の理解があったから良いものの、これは大問題であると何度彼に伝えたことだろうか。あいにく、先王陛下の父君もそのようにして母君を嫁にお迎えなさったから、周囲はもうあたりまえのように思っていたのかもしれない。
それから3ヶ月後、久しぶりに城内の夜会に顔を出したと思ったら、陛下は美しい女の方を連れていた。その方は異国の姫であったため、我が国では誰もその姿を見たことはなかったが、その美しさゆえ、ウレス大陸全体では、ウレスのバラと謳われ、有名であったらしい。それがお妃さまなのだが、お妃さまは夜会が大のお嫌いだそうで、滅多に夜会に姿を現さず、幻とまで呼ばれたそうだ。ただ、いたずら好きなのは先王陛下と変わらず、母国エスリア王国のハロウィンパーティの際、メイドに扮して紛れ込んでいたところを陛下に見初められたらしい。陛下がどうしたかはわからないが、難攻不落と謳われた彼女はわずか16という若さで、あっけなくこの国に嫁がれてきた。それから半年ほどたって、この有様である。
お妃さまの美しい寝顔を拝見しながら、ふとそんな回想にふけった。あのあと、怪我の手当てだけではなく、入浴、エステなどさまざまな処置がなされ、お妃さまは原型を取り戻しつつあった。ただ見るものの世界を一転させるような笑顔だけは、まだ見出せない。
「お妃さま、お目覚めですか。」
ゆっくりと目を開けられたお妃さまにそう声をかける。はい、とほころぶように笑った顔はもうそこにはない。先王陛下とともに、天へ上ってしまわれたのか。
「ええ。」
そうとだけ言って、お妃さまはベッドの左に控える私から顔を背けた。
沈黙が流れる。
「ユウン、」ふとお妃さまが呟いた。
「はい。」
「分かってはいるのだけどね、聞いていいかしら。」2人だけの部屋に、お妃さまの声が妙に響いた。
「はい。」
お妃さまが寝返りを打たれ、こちらを向かれた。美しい青の瞳に、悲しい色を浮かべながら、なんとか微笑んでいた。
「旦那さまが亡くなってからまだ数日しか経っていないのに、もう今夜はパーティかしら?」
「はい」苦しかった。お妃さまと目を合わせると、お前までそうなのかとでも非難されているようで。ただ、これだけはそらせない。
「そう。」お妃さまは今度は天井を向かれた。
そこには広大な天幕がある。お妃さまが嫁入り前に刺繍をほどこされたものだ。記念にと言って、結婚式の前日に取り替えられた先王陛下の横顔に、あのときどれほど安心したか。やっと陛下にも、そう思った束の間。どれほど無念だったろう。
「それであなたは、」お妃さまがこちらを向かれる。お妃さまは出会ってこのかた、私たち使用人にも、あなたを使う、「この私にまで、喪服を脱げというの?」
もう何も答えられない。
「私だけはもう少し、旦那さまの死をいたわってはいけないの?」
いいですとそう答えたかった。できるものなら。私だってこの服は嫌だ。
私の苦しみを見て、哀れんだのか、お妃さまはまた天幕へ目線を移した。そして、
「ごめんなさいね。」とだけ言って、また目を閉じられた。
私は何もしなかった。できなかった。
「死には、しないわよ。」
突然、お妃さまが呟いた。はっと目を見開いて彼女に向き直る。さっきまで短刀を握っていた人の発言とは到底思えなかったが。
「旦那さまに言われたから。」
天幕を見上げていたお妃さまが、そっと目をつむって言葉を噛みしめる。次に目があったとき、私はその目になにか決意のようなものが見えた気がした。嫌な予感がする。
「私、この城を出るわね。」
そういって少し頬をゆるませるお妃さまに頭痛がした。ただ、少しでも茶目っ気を取り戻されたお妃さまに安堵してしまったのは致し方ない。
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