承
さて、龍神様の元に輿入れなされた涼姫様でございますが、それからしばらくしてこんな事を言い出しました。
「川魚は飽きました。私は米が食べたい」
何ともいえない沈黙が龍神様の寝ぐらに漂います。
涼姫様は普段は気立てのよいお姫様然としたお嬢さんなのですが、このように言い出すと岩でもてこでも調子を曲げない、むしろ平手で殴って押し通る、そんなお方なのでした。
「田を耕せというのか」
「はい」
「わし神様なんだが」
「だから?」
「魚だの、木の実だの、腹一杯食わせてやっているだろう」
「米がありません」
「腹は膨らむだろう」
「米がないんですよ」
やなこった、そんな風に吐き捨てて、龍神様は寝どこにごろ寝を決め込みました。
寝食をともにするならば、自然と打ち解け仲は深まるものでございます。お二人の間では神様ごっこのぎょうぎょうしさは、この頃にはもうすっかりとどこかに失せてしまっていたのでした。
「大体にしてだ。私は米の作り方など知りやせん、なんせ生まれてこの方神様しかやってねえ。米なんぞ供えさせて頂く物でしかないわけだ。どうしても、欲しいというのならふもとの村に脅しをかけて、貢げというしかないわけよ。それではお前、親元はたいへん困るだろうよ」
「作り方を学べばいいではないですか」
「それは人間なんぞに頭を下げろという事だろう。できるもんかよ、馬鹿らしい」
水妖たちのざわめきがひそやかに寝どこにこだまします。
この頃には、水妖たちの中にも、涼姫様の沸点を何となく把握できる者がいくらかはおりました。そんな者たちが龍神様に危険信号を送っているのです。これもひとえに、ここに至るまでに数多の平手打ちを龍神様がお受けになった賜物であったのでございます。
「私は人間でございますよ」
涼姫様のポツリとおっしゃったお言葉に、さすがにこれはまずいと理解したのか龍神様は慌てて言葉をつなぎます。
「だいたいにして、たね苗もない、道具もない、これでは働きようもない。どれ、寝ぐらにばかりいて気がめいったのだろう、今日は空の散歩と行こうではないか。私の背中で負ぶってやろう、嫌な事なぞ忘れるぞ」
「道具がないなら作ればよいのです。その立派なお体は飾りですか、そんなものがあるならば道具の方こそお飾りぐらいでありましょう。だいたい私は地べたで生きてる人間です、お空の散歩なんて過ぎた幸せが欲しいわけではございません」
「うん、変化だからこれはお飾りじゃな。もっとも私にかかれば百人力なんぞ容易いもんじゃがなあ」
そう言って、じまん気に笑って流そうとした龍神様でありますが、水妖たちの間からあっとひそかな声があがります。
「先ほども申し上げましたが、私は人間なんです。しかも、百姓の娘です」
涼姫様はニッコリと微笑まれます。
「たね苗は実家からこっそり拝借してきてもらうとして、あとは人手の問題だったのですが百人力なら心強いです。さすが龍神様ですね」
「わし神様なんだが」
「だから?」
働きたくないと口走りかけた瞬間に、腰の回転運動を一分の無駄もなく完璧に指先にまで伝えた平手打ちが龍神様の頬を打ち抜いていました。
「そんな!」
平手が一つ。
「気位など!」
平手が二つ。
「捨てなさい!」
平手が三つ。
こうして涼姫様の田作りに駆り出された龍神様や水妖たちは、来る日も来る日も日がな一日労働にあけくれて、ふもとの村々に悪さをする時間もすっかりと取り上げられてしまいました。
初めはふてくされていた龍神様でしたが、涼姫様と手を取り合ってすきやくわを振るう内に、心のささくれもいつの間にかどこかに消えてしまいました。あえて書くことではございませんが、この時代はノーブラが基本です。
そして、しばらくすると龍ヶ淵の周辺には立派な棚田が出来上がったのでございます。
「これだけあれば十分じゃな」
慣れない労働に駆り出されてそれなりにくたくたになっていた龍神様でしたが、こうして形になった物を目にすると、不思議な感慨が胸に湧いてくるものなのでした。
「何をおっしゃいます、これっぽっちではありませんか」
「これっぽっちじゃと、これだけあれば米五石は採れると聞くぞ」
米一石といいますと、だいたい人一人が一年分消費する量をまかなえるといわれていますから、五石もあれば涼姫様がお腹一杯食べたところで十分な量といえます。
「だめです」
「もっと食うというのか」
肥えるぞとぼそりと呟いた龍神様に、涼姫様の切れ味鋭い視線が飛びます。
「私だけの分ではございません。この田のために働いた者は誰がいます?」
「お前と私だ」
「それと水妖たちです」
困った事に、龍神様は腕っ節が強いのをいい事に、水妖たちを今までずっとただでこき使っていたのでした。
「わし神様なんだが」
「だから?」
偉いんだからいいんだと口走りかけた龍神様の頬を、かかとの回転軸がしっかりと地に固定されながらもかすかな砂煙が舞い上がるほどに深く強く踏み込まれた平手打ちが打ち抜きました。
「神の!」
平手が一つ。
「くせして!」
平手が二つ。
「みみっちい!」
平手が三つ。
「五千石作りましょう、そうしましょう、そうしましょう」
頬を真っ赤にした龍神様に、涼姫様はそうおっしゃられました。
「冗談じゃろ、まさか、なあ」
涼姫様はなんにも言わずに龍神様にニッコリと微笑みかけるだけでした。
こうして、龍ヶ淵周辺には見渡す限りに広がる大棚田が出来上がりました。そして、涼姫様はそこで出来たお米のいくらかをお給金として水妖たちに配ったのでした。
これに喜んだのは水妖たちです。出会った頃は、鋭い爪や牙を涼姫様に見せびらかして怖がらせて喜ぶような者もおりましたが、今ではそんな者は一人もおりません。
水妖たちは、涼姫様の事を、女房様、女房様と呼んでみんなして懐いてしまったのでした。その様子を見てしまっては、龍神様とて軽々しく文句も言えません。
そして、涼姫様は残りのお米で少しずつ小作人を雇い入れ、龍神様の神威に守られながら開墾した土地の切り盛りを始めたのでした。
とはいえ、問題がないわけではございません。
稲作というものはとかく水を使うものでございます。土地に水を引いて人工の湿地を作り、稲が育てば水を抜く。水の抜ける水はけの良い土地を、人工的に湿地同然にしてしまうのですから、消費される水の量はたいそうなものになることは想像にかたくありません。
龍ヶ淵の上流に大棚田なんて出来たらなら、その流れを水源にしていた下流の村はどうなるでしょうか。
そんなわけで、下流の村々は腹に含むものがありながらも、龍神様が怖くって文句の一つも言えない状態に置かれていたわけでございます。その中には、太郎兵衛様の村も含まれております。
そんなことなど素知らぬように、涼姫様は満足げに龍ヶ淵の風景を眺めておられるのでした。