⑬ 魂の旅
それは人間の体のようなもの。
しおれた薔薇の花弁のような、色褪せた薄紅色の唇のようなひだ。辛うじて弾力を残して隙間から空気を押し出したり引っ込めたりできそうだ。
この体に血が通っているかは証明できない。
もし通っているとすれば血の気はほとんどこのうっすら紅く染まったひだに集められている。
血の気を証明できないのは、この体が石膏かもしれないから。
白く硬く見える肉体。そら恐ろしく滑らかで艶やかささえ覚えるのは、きっと上質な石膏だから。丹念に選ばれ精製された、この肉体になるべくしてできたものだから。
触れることができれば全てを悟るだろう。
口唇のようなひだは石膏の表面が紅に染まったものだ。剥がれかけの血の気。
紅いひだを包んでいるのは白い岩面。平地と長い裾の丘のように凹凸を持つ。本当の岩のでこぼこは自然のものだが、この石膏の白い面は不自然に整っている。あまりにも滑らかだ。誰かが頭の中の精巧な設計図を基に寸分違わず削って磨いて作ったと思ってもおかしくない。
そこを、雫が音もなく伝う。どこからともいつからともなく。雫はやがて紅く染まる口唇に到達した。
雫の跡が白い頬に残る。
滴る雫は知りようもないことだが、または知ろうとも知れないことだが、雫と涙の違いというのは案外曖昧らしい。少なくとも雫や涙が決めることではなかった。
この「石膏像」が決めるかもしれない。しかしこれを石膏像と決めるのは石膏像ではない。
彼女の目の前に横たわるのは、若干くせがあって波打つ金髪をした男だった。
とび色ではなく――いささかくすんだブロンドの髪だった。
こちらに背を向けているはずなのに、彼女にはその男が涙を流しているとなぜか手に取るように分かった。
彼の顔が見えるから。どうしてかは分からないけれど。
声も出さずに。
ただ歯を食いしばって、目を閉じて、止めようとしている顔が。
歪んでいる。歪んでいるけれども、幾重にも花びらをつけて咲き乱れた可憐な花のように美しい。歪みは、不自然なほどに恵まれた美しさに抗っているしるしなのかもしれない。それが尚更生々しく観る者の胸を打つのを本人は知らないのだろう。
彼の身体には白い布が絡みついていた。
一輪の花を包む白い布。
誰かに贈られるべくして綺麗になった、一輪の花。
その下から、羽毛のような綿毛がほろっと出てきた。
――羽?
そっと白い布をめくると――男が胸に、純白の翼を抱いていた。
――翼……。
まだ生まれたばかりで汚れを知らない色をしていて、光を当てたら眩しくて透き通るのだった。
どこで手に入れたのだろう。
これは男のものだろうか。
彼女の頭は目にする現実を何も理解できなかった。目に見えているけれど、何も思い出せない。今は過去なのか現在なのか未来なのかも、そう言えば何も分からない。
しかしよく見ると翼の一端が赤く染まっている。
男の身体に傷があって血が出ているのだろうか。
そっと腕を持ち上げたり、背中や胸、足を見ても外傷はない。――ただ痩せていた。ここで血など流したらすぐに息絶えてしまいそうな身体ではあった。
今は傷はないようだが。
ほどなくして、彼女は自分の手をふと見るのだった。
持ち上がった手から、赤い雫がぽたぽた滴っている。
――どうして?
それは自分の腕を、腰を、足の方まで伝っていた。
――あたし?
彼女は恐る恐る手を自分の胸に――肩に――背中に――当てた。
背中に手が届く。どういうわけかすんなりと。
そもそもなぜか自分は何も身に付けていない。
――背中に……?
手が真っ赤に染まった。
――いやだ。どうしよう。これは何なの。
やっとそこで頭が何か考え出した。
――あの翼の血はもしかして……。