⑥ 美しいものを喪う時 2
彼女はコップを手に取ると、なみなみとペットボトルの水を汲んだ。
それから彼のところに持って行った。――口に、こっそりと医療用の睡眠導入剤を含んで。彼が使っていたと思われるものが、キッチンの棚に佇んでいたのだ。
――お薬のありかも知っている。本当に……きっとあたしだけだわ……。
「ロン……ありがとう……だいすき……っ」
彼女は彼に口づけをした。舌で口を開けさせる。彼の舌が絡んでくれようとした時に――錠剤を口移しで押し込んで、即座にコップを彼の口に押し当てた。彼の喉が咄嗟に入って来た水を飲んでごくっと大きく動いた。
びくっとする彼の顎を押さえて口を支える彼女。刹那、彼が呻いてコップを撥ね退けた。
「っ――!」
零れる水。彼の口からつうっと伝う。幸いコップはステンレス製だったので割れずに転がっていった。
既にその時には彼の喉が反射でちゃんと水を受け付けていた。
「おまえなにのませた――!」
彼が喚き出すので彼女はコップのことなど気にしていられなくなった。恐怖のせいかがくがく震える彼女の白い手。
「おくすり飲んでるんでしょう……っ」
震える声で彼をたしなめる。
「吐く! そんなことして――!」
「ちがうの、ロン、あたしとセックスして眠れなかったじゃない。おねがい、……吐くなんてしないで――」
彼は既に水で飲み下してしまっただろう薬を吐きたいがためか、大声で喚いた。ごほごほ咳き込む。
彼女は必死で押さえ込んで、彼をベッドの上に倒した。
必死で、彼を仰向けに寝かせて息をさせる。仰向けになれば喉が開く。彼の頭をがっと両手で押さえつけた。
「卑怯な真似しやがって!」
「許して――っ、ロン、あなたのこと、愛してるから……っ」
暴れる彼を死に物狂いで押さえ込む彼女。今にひっくり返されるか突き飛ばされるかしてしまいそうで、彼女はがくがく震えながら彼にしがみついた。
それでも、火事場の馬鹿力というやつだろう。暴れる同年代の男に食らいつける彼女だった。彼の方も混乱して取り乱しているだけなので上手く力が入らないらしく、彼女を撥ね退けるまではできないようだった。
体が強く擦れ合って、服越しに彼を感じる。
――この男の体を忘れられない。最後の最後に……。
彼女の体に強く打ち当たって、刻み付けられる肉体。きっとこの先誰の体も愛すことがないとすれば、彼女に一生刻まれるのはこの肉体だろう。
彼女の吐息までもが震えてきた。
――どうやっても最後に残るのは彼じゃない。
歯の根が合わなくて震撼する。震撼するほどの掌中の珠だったらしい。
どのくらいそのまま「抱き合う」ように争っていただろう。
彼は、いつまでも周波数を合わせられないラジオのようにわあわあ喚いている。言葉にはなっていない。あと少しでちゃんと聞こえるだろうに、それができないのだ。
彼女の腕も限界になってきたその時――弾みで局部が彼女の身体に当たった気がした。
「あ――う……っ!」
彼が突如痛がって呻いて、ぐったりしていく。
「ロン……!」
彼女は悶える彼の頭を撫でた。
自滅だろう。しかし今ばかりは笑うことはおろか、安心ももうできなくなった彼女だった。
痛がっているうちに、彼の声は弱くなってきた。
大人しくなったところにちょうどよく睡眠薬が効いてきたらしい。ずっと起きて彼女を抱いていた彼の肉体も限界だろう。
「ロン……聞こえてるかな……おねがい、最後に答えてくれる……? あたしのこと愛してくれてるの……?」
「……ぅ……ん……」
それはごく小さな、肯定の答えだった。
「ああ……っ、そうなのね……あなたは……」
彼女は彼を見送るように頭を、頬を撫でていた。