⑰ 彼女の答え
彼の目も小さな波が立ったように揺らいだ。そして頬を撫でられる。
「……肉体に訴えたくない、アンジー」
――君の心で言って。
「いまは、むり……っ」
「今は無理でも。心を捨てるなんて言わないで。いや、たとえ捨ててしまってもおれが拾って大事にするから」
「捨てるしかありません。強硬手段を取らなければ、あたしは、……あなたと幸せに、なれないと、おもいます……っ」
――そうしたら、ほんとうに、拾うんですか。
「君がそのつもりなら、おれは本気で君を手に入れるまでだよ」
「思ったんですけど、……心を捨てたなら、たとえセフレでも、苦しまないと思うんです」
「やっぱりまだそれが最高なんだね、君の中では」
「はい……でも――」
彼にすがりついてキスをした。
虚を衝かれたように身を引きかけた彼を捕まえた。
――怖い。どうして……? これ以上離れるのが、かしら。
得体の知れぬ恐怖に包まれて彼女は自分から唇を求めるのだった。
「きもちいい……です」
譫言のようにもらしていた。
「きもちいい、のは、心とは関係ないですよね……? あたしが誰を愛していようと。いえ、誰も愛さないとしても……」
「アンジー……」
「……心を捨てたら苦しみも何もない、から……」
頬に手が添えられる。はっとして顔を離すと、眉をひそめた彼がこちらを食い入るように見つめている。
「どうして……君は、苦しんでまで人を好きになるんだろう」
この男に同情や共感などされたくなかった。そんなことをされても素直に受け取れない。けれども今は、その目を見て邪な心も弱り切った。――甘えたい。ひたむきに愛してくれるこの男に。
「あたしを……、それでも愛してくれるんですか」
「おれはね。――いつか君もおれを愛してくれると信じて」
「それは分からないんです」
「――絶対苦しませたりしない。君は……何も間違ってないんだよ。彼を好きなのも、……いつかおれを好きになるのも……嘘じゃなければ間違いなんかじゃないんだよ」
「くるしいの」
「そうだろう。苦しいね……」
「そんなこと言われたくないの――」
「君は抗ってるだけだ。――おれを好きになることに。なっちゃいけないって。君は素直じゃないから……」
彼の手は生みたての卵を包むように彼女の頬に添えられた。そして目を――波を隠すように――伏せるのだった。
「好きなだけ抗ったらいいよ。言ったじゃない。いつまでも待ってるって」
酷い男だと彼女は思った。またしても突き放す。
彼女は頭を垂れた。そう言われると、抗っている自分がバカバカしくなってきて。
目から涙が零れて太腿を濡らした。
――バカみたい。でも、抗うのをやめたらこれまで築いた絶対の愛はどうなるの。
嗚咽を何とか押し殺す彼女。震えながら顔に両手を押し当てた。
――そう思うと何もできないわ。何もできないから苦しい……。
――どうしたらいいの。
頬に添うメリルの手が、そっと彼女の顎を撫でて前を向かせた。――彼女は優しい唇に音もなく包まれた。
そのキスは少しの間だけだった。
「おれはある意味で冷酷かもしれないけどね……こうも思うんだ。苦しむのも、決して間違ってるわけじゃないって……」
――本当に酷。
しかし、彼は彼女の頭を抱き寄せて耳に囁いた。
「苦しい時には――おれはちゃんと君の傍にいる。信じて。ちゃんと待ってるから信じて」
「……」
――分からない。
彼女は彼が何をどうしたいのか読めなくて、力なく首を横に振っていた。
だけども、1つだけ分かった気がした。
――この男の言っていることは嘘じゃない。
「……わかれる」
「……」
「そうしたら、あたしも、彼も、苦しみから救われる、かしら……」
口にしたら急に腑に落ちた彼女だった。
言ってしまいましたね。
苦しむこと自体間違いじゃない、無駄じゃないというのは凄く分かるんですがね。
人というのは弱いものです。
この章は長かったですがここで終わりです。
次の章は短めの予定です。一度場所を変えてみたいと思います。
是非、このまま更新をお待ちいただけると嬉しいです。