⑧ 香しい口づけ
「安心して。おれお酒には強いから。よく家で飲むんだ」
メリルに連れて来られたのは彼のアパートの部屋だった。
広くはない。ワンルームのリビングとキッチン、バスルームという簡潔な部屋だ。ものは整頓され、綺麗に掃除もされていた。
「これ食べて」
テーブルの前に座る彼女の前にナッツの入った小皿が差し出される。
「栄養もあるしお腹にもたまるからね。――何か飲みたいならいる?」
白ワインの入ったワイングラスを勧められたが首を横に振る。
「ワインはちょっと」
「苦手? そうか。じゃあ無理強いはしない。まずはちゃんと食べて」
ワイングラスは彼が自分で飲み始めた。
彼女は目を逸らした。ワインなど、それが入った瓶など、見たくない。
どうしようもなくてナッツを口に詰め込んだ。
また涙が出てきた。
「……そんなに美味しかった? 無添加のローストナッツなんだ。まだあるからさ。お水とかいる?」
「お水……」
「オッケー。ちょっと待っててね」
その間にも彼女は夢中でナッツを口に含んだ。そうでもしないと、泣き叫んでしまいそうだったから。
「……っと、冬眠前のリスみたいだ」
彼はそれを見て微笑み、彼女を抱擁した。
「可愛いね」
それから額にキスをされた。
「病んだ女を可愛いと言うなんて最低……っ」
「大丈夫。おれが元気にしてもっと可愛くしてあげる」
「うう……」
「もう泣かないでくれる。ティッシュはおれの必需品なんだ。これじゃストックがあっという間になくなっちゃうから」
彼は相変わらずアレルギー体質だった。ことあるごとにティッシュで鼻をかんでいた。
「着替えがないから帰る……」
「着替え? んー、そうだよね。今日だけ我慢してくれる? 明日買いに行こうか」
「……明日……?」
「君来週までニューヨークにいるんだろ? 来週までは何とか、快適に過ごせるようにさ。ご飯は心配いらないよ。おれが用意するから」
「あたしここにいるなんて……」
「いいんだよ。それで。君を元気にしてボストンに送ってやらなきゃだから」
「……」
口に物がなくなったので水を流し込む。
つやつやに濡れた唇を――そっと彼の唇が包んだ。
彼と初めてキスをした。
芳醇な唇だった。彼女を酔わせてもおかしくない。事実、「拒む」という選択肢を彼女から奪ってしまっていた。