④ 本当の呪文
「アンジー」
彼の静かな、霧がかかった朝のように湿った声が耳元で聞こえた。
少しは動けるようになったのだろう。
すぐに体を抱きしめられる。
しかし、直後――着ていたブラウスに手を掛けられて彼女はぎょっとした。
――えっ?
「ロン――……っ」
呼び止める声も虚しく、今更身ぐるみ剥がされようとしていた。
「な――何でっ……、いや――ぁっ」
「おれの……おまえは……ずっと、おれの……」
独占欲に溺れて狂った、麗しい男だった。
――すき……おまえがすき。
本当の呪文はこっちだったような気がした。
気づいたらまだ彼の腕の中にいた。
身体を繋げた激しい行為は1度だけだったものの、身ぐるみ脱がされてからもお互いに肌を重ね、ベッドの上で抱き合っていた。否、彼が彼女を離そうとしなかった。
日がすっかり暮れた。夜が待っている。暗い部屋のベッドの上で、彼とふたりきりだった。
身を寄せ合って過ごした微睡みの余韻は暗闇と共に彼らふたりを気だるく包む。
「……ロン……ご飯食べなきゃ……お腹空いた」
「いらない」
「まさか」
「いらない――もう……はなれたくない」
彼女を食べ尽くして満腹の気分とでも言うのだろうか。
それでも彼女は何とか起きて服を着た。本当にいらないのだろうか。学生の時より痩せていると思った。もしかしてご飯を食べないせいか。
服を着る間も彼が愛おしそうに自分のことを見つめている。何もなかった目にはいつの間にか甘そうな愛情が戻って来ていた。目を潤すのは蜜のような愛だった。
「……やだ、そんなに見ないで……」
相手はまだ毛布の下は全裸なのだ。少し間違えれば変態だ。
――ちょっと間違えれば犯罪って、自分で言ってたくせに。
「ご飯用意するね」
「まだ」
「まだじゃないのよ」
「なんで、どこ行く」
布団の下から腕が伸びてきた。
「キッチンよ、すぐそこ」
「嫌だ」
「なっ、どうして……っ」
執拗に腕を離そうとしないので面食らってしまった。彼女がここから出て行くのが嫌だと言う。
――どうしちゃったのかしら。本当に……。
きっと再会したばかりだから彼も嬉しかったのだ。悦びが性行為に直結したのだと何とか思い直した。
その夜も当たり前のように彼と抱き合って寝た。