③ 落ち着かない時は
「ロン、お昼だから飯行かないか」
翌日、コミュニティースペースから研究個室に行こうとしたところを1つ上の先輩に呼び止められた。
彼のことをよく見てくれている先輩だった。
やはり彼のことをいささか気がかりそうに見ている。
「少し休みもらったから、顔色回復するかと思ったけれど全然だな……、ほら、だから一緒に飯食いに行こうや。がっつり行きたいだろ」
「……行きません」
「お、っ、おい、何で? また食欲ないってか」
「ないです」
「あっさりとまあ……。でも倒れちまうぞマジで。どした、報告書、行き詰まってるとか……じゃあねえよな」
彼がボストンの一流大学を出た物理博士であるのを当然見込んで採用されたのを職場の人間は知っている。彼に信頼が置かれているのは事実だった。
報告書なんてあったっけと思いつつ、首を振り続けた。
「行きません」
「えーと、でも食いもん、何かあるか?」
「ないですけど、何か」
「そりゃマジでよくない。お願いだよロン、みんな心配して――、まあ、面食いでお前に言い寄って来る事務の女の子たちも一応――心配するだろうよ、そんな青ざめてたら」
「……」
彼は息を大きく吐いた。
何だか胸が苦しくなってきたのだった。
深呼吸を繰り返す彼を見て、先輩は眉をひそめた。
「やっぱ体調悪そうだな? 分かった、お前んとこに何か買ってってやるから――戻って休んでろよ」
「そうします」
彼はそそくさとその場を後にして、はあはあ言いながら研究個室に戻った。
どうしたらいいのだろう。
また息が苦しくなってきた。
くたっと椅子に身を投げるようにして座り、居ても立ってもいられなくて携帯を手に取った。
「もしもし? ロン……元気?」
「アンジー――っ……」
上手く言葉が出て来ない。
「ロン……どしたの、苦しそう……」
「ああ……」
「今何してるの? お昼休みなんだろうけどね?」
「お昼休み……」
「そう。ご飯は? 何食べたの?」
「なにも。……苦しくて」
それは嘘だった。苦しいのは今だけで、食べたくないのは元からだ。
それに彼女の声を聞いていたらだんだん治まってきた。
「……、は……っ、アンジー……どこいる?」
「どこ? 相変わらずボストンだけど? もちろん家にいるわ。電話待ってたの……」
「電話待ってた? ん……」
――なに、してる?
聞くと、ご飯食べてた、と返ってきた。
「ご飯か。そっか」
「そうよ。……きのう具合悪くしたばっかりだから食欲ないかもしれないけど、ほら、食べ物買っておうちに置いといたでしょ? 夜はちゃんと食べてね?」
「……」
返事をする気にはならなかった。
ただ、彼女の声を聞くことができて嬉しくて微笑んでいた。目を細めて。
大好きな果物を目の前にした時と同じように。
大好きな彼女の声を耳にして。
この声が聞こえるなら何もいらない。
彼の中は既に彼女でいっぱいだった。彼女でいっぱいになることしかなかった。
だから、彼女で満たされなければ怖かった。
理由もきっかけも分からない。彼の中で彼女が全てだった。いつしか。
彼女を喪失することが怖かった。