表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/9

ずっと こうしていられたら いいのにな(俊英視点)

 僕はいつも追いつけない。春風はいつもどこかへ突っ込んでいく。


 昨日だっていきなり木に登り始めた。八歳になって庭の木を制覇するのに目覚めたらしい。

 女の子ってもっとおとなしくてお人形さん遊びが好きとかじゃないの? ちょっとよくわからない。


「俊英君、どうしたの?」

「……なんでもない。どさくさにまぎれて僕のおかず盗ろうとしないでくれる?」

「ちっ、バレたか」


 春風は僕の皿に伸ばした箸を引っ込めながら舌打ちした。舌打ちって。お嬢様がするものじゃない。

 呆れて溜め息をついた。だけど口を尖らせて悔しそうにする顔が可愛いと思ってしまう僕も僕だ。


 朝は春風と一緒に食事することがすっかり習慣になってしまった。おかずを盗られないように目を配ることもしっかり板についた。


 ちらりと目線を向けると、春風はほっぺたをいっぱいにしてご飯を頬張っていた。柔らかそうな肌きめの頰はパンパンに膨らんで、小さな口がむぐむぐと動いている。次に口に入れるものを探して大きな黒い目はキョロキョロと動いていた。

 天生将軍譲りのちょっと太い眉が春風は気に入らないらしいけど、活発って褒め言葉が泣いて逃げ出すほどお転婆な彼女にはよく似合ってるし、僕にとっては好ましい野暮ったさだ。

 黒々として豊かな髪は、木登りに熱中するようになってからは枝に引っかけないように編み込んで頭に巻き付けられている。これも剛毛だ何だと不平を言うけど、下ろしたところなんかふわっと広がるさまが愛らしいと思う。女の子が人前で下ろし髪にすることがはしたないことはわかってるし、一緒に寝ようと僕の寝台に滑り込んでくる春風の下ろし髪が好きだなんて言ったらもう二度と来てくれないかもしれないから、言わない。


 三年。僕はこの奏家で暮らしている。

 青家の跡取りとして官吏になる勉強と、心身を鍛えるための体術の稽古。


 本来なら奏家のみが教えられるはずの八つの型をひとつずつ教わって、今は最後の型だ。

 ちなみに春風は二ヶ月前に全ての型を修めた。


 初めて会ったばかりの頃、僕のほうが覚えが早いだろうと彼女は言ったけど、あいにく僕は生まれついての文官向きで、体術には向かないのだ。

 言い訳させてもらうが、青家の男はみんなそうだ。父上も、お祖父様も、話でしか聞いたことはないが曾お祖父様も、頭の回転は素早いのに身体は思うように動かない質の人たちだ。

 それでも、春風に格好悪いところは見せられなくて五年はかかると言われた八の型に三年でたどり着いた。意地で追いついたわけだけど。


「あれ? あの人は?」

「あの人?」

「えーと、新しく雇った、(エイ)さん? だっけ?」


 僕はちらりと侍女の一人に目をやった。

 彩さんはこの邸の女主人がわりになり、今は忙しく立ち働いている。僕や春風の世話は三人の侍女がしていて、他に幾人かの使用人が雇われていた。


「お嬢様、瑛は家の事情で辞めてしまったんです」


 落ち着き払った声が告げる。侍女の一人、藍玉(ランギョク)だ。彼女は表向きは侍女だが違う。

 そして、瑛がここにいない理由が家の事情なんかじゃないことも、知らないのは春風ばかり。

 元々瑛が雇われる経緯からして不自然だった。前任の使用人は突然宿下りを申し出てきた。それから姿を消し、人探しなど簡単にできるはずの奏家が追えなくなった。空いた使用人の口にありつきたい人間は山ほどいる。条件の良い人間も悪い人間も大勢いたが、その中でも程よい能力と事情を装い、瑛は上手いこと空いた使用人の職におさまった。彼女を雇った天生将軍も見抜いていたのだろう。


 彼女が愚かだったのは、たった一ヶ月で馬脚を現したことだ。大胆にも仲間を手引きし、忍び込もうとした。

 もちろん、計画性のほとんどない侵入者達は邸の中心部に入り込むことさえもできず返り討ちになった。

 これも知らぬは春風ばかりだ。天生様は子供の僕たちを怖がらせまいと何も教えてくれないが、翌日の彩さんや藍玉、私兵達の様子からなんとなくわかってしまう。そして、藍玉が敵の撃退に直接関わっている人員だろうということも。


「そうなの? でも昨日は何も言ってなかったのに……」

「お嬢様にお別れを告げるのが辛くて、ご挨拶できなかったことを寂しがられてました」

「残念だね」


 僕は適当に、寂しそうなふりを繕って相槌を打った。藍玉は春風には気遣わしげな視線を向けながら、僕には鋭い目線を送る。自分の嘘がバレることを彼女は恐れている。僕がまずい返事をすると大事なお嬢様に気付かれてしまうかもしれないと苛立っているのだ。


「俊英君、今日は歴史の先生でしょ?」

「うん。春風は?」

「私は音楽。筝だけでいいと思ってたのに、次々やらされるんだ。今日からまた新しい楽器」

「君は飽き性だからね」


 頰を膨らませる春風を眺めながら、僕はごちそうさまと箸を置いた。

 三人の侍女の一人、翠玉(スイギョク)が食後のお茶を入れてくれる。


「でもひと通り弾けるんだからすごいでしょ?」

「すごいよ。そのまま極めればもっとすごいのに、飽きちゃうのがもったいないって言いたいだけ」

「素直に褒めてくれればいいのに」

「褒めてるよ」


 春風は書画、刺繍や詩作など令嬢の手習い事はてんでダメだったけど、たったひとつだけ、楽器を奏でる才能に恵まれていた。

 ひとつ習えばあっという間に覚えてしまう。身体を使うこと以外にやる気を出さない春風だが、楽器は指先の使い方や拍子の刻み方が体術に似ているらしい、弾きこなすまでは真面目に取り組む。かといって体術ほど好きではないようで、ひと通り弾けるようになると飽きてしまう。

 教師も彼女の性格がわかってきたのか、最近は名人にするより多才にしようと様々な楽器を教えるようになった。


「俊英君は琥珀様と一緒に教わってるんでしょ? すごいよね」

「琥珀様は僕に合わせてくれているだけだよ」

「だとしても、私たちまだ八歳だよ? 大人に混じれるってそれだけでワクワクしない?」

「……まあね」


 彼女の尊い長所は、こうやって時々僕の屈託を吹き飛ばしてくれるところだ。

 僕が琥珀様と共に学ぶようになったのは春風が八の型を学び終えた頃と同じくらい。

 僕はまだ幼いし未熟なことを自覚している。琥珀様や彼を取り巻く人々に迷惑をかけることにならないか、彼らの期待を裏切る結果にならないか、不安だった。


 春風がこうやって物事のいい面を口にしてくれるだけで、ハッと気付かされる。

 何を遠慮することがあるんだろう。僕はまだ子供で、だからこそ僕を育てようと天生様も琥珀様も、父上も目に掛けてくださっているんだ。失敗しても、教え導いてくれるつもりでいる。不安に目を覆われて、考えが及んでいなかった。春風のひと言で僕はずいぶん救われている。気付いていないのは本人ばかりだけど。


 けれど最近は少しの悔しさもある。僕ばかりが春風に助けられて、僕はもう春風なしではいられないのに、春風は何とも思っていない。

 いくら学問が出来ても、僕と同じように春風に頼りに思ってもらえなければ何の役にも立たない。少し熱いお茶を啜って、不満と一緒にのみ込んだ。


 最後の型を学び終えたら、僕は青家に帰ることになる。




 食事を終えて衣服を整え直すと、琥珀様の部屋へ向かう。


 あの方の身分を考えれば僕らの寝起きする場所に近い方がいいのではないかと思ったけれど、私兵の常駐する棟に近いあの部屋は何か起きたときに駆けつけやすい。


 初めて会ったときには驚いたものだ。琥珀様の立ち居振る舞いや身なりもそうだが、父上や天生様、雪影様の態度、何より彼の持つ空気からして只者ではないと明らかだった。

 おそらく、……はっきりと天生様に確かめたわけではないけれど、今彼の姿が宮廷にはないことは知っている。こんなところに隠遁していたとは。

 奏家は彼を筆頭に様々なものを懐に入れてしまっている。それが天生将軍、いや奏家の人たちそのものを表しているようだ。


「失礼します」


 礼をとって部屋の中に入ると、もうすでに卓に書物を積んで地図を広げる教師がいた。

 白い髭をたっぷりと蓄えた老人が僕を認めて目を細める。僕と琥珀様に歴史を教えている、(コウ)先生だ。


「おはよう、俊英」


 孝先生の横で琥珀様が手招きをする。

 三年前から見目の整った方だと思っていたが、すっかり身体つきも男らしくなられて、男子の僕から見ても美形だ。 春風は時々おとぎ話に出てくる公子(おうじさま)を彼に喩えることがある。なんとなく面白くないのだけど、否定できないくらい、凛とした佇まいやおっとりとした微笑みを浮かべる頬や口元、高貴さを感じる深みのある声や話し方、どれをとっても皇太子にふさわしい威厳があった。


「おはようございます、琥珀様」


 僕はちょっと重い書物を抱え直しながら彼らの近くに寄った。卓に広げられたものを覗き込むと、僕らのいる国から西方の地図が描かれている。


「今日は西方の歴史ですか?」

「うむ、もちろんそれもだが、あちらと我々の国がどのように境界を保ってきたかの歴史でもある」


 孝先生はふかふかした髭を撫でながら頷いた。


「境界?」

「国を栄えさせるには、国土を富ませなければならない。それは農業や工業などの産業の発展もそうだが、国土を広げることも発展のひとつ。持っていなければ持っている国を手中におさめてしまえばいいのだからな」

「実際、北方は版図を広げようと南下を試みた」


 簡単に言ってのけた本人が皇太子だと、背筋をスーッと冷たいものが滑り降りる。琥珀様にその気はなくとも、彼の中にも奪う発想がありはするのだ。


「けれど、国土を広げるということは侵略するということ。手にした土地に住んでいた国民、王族、神官──宗教をどう扱うか。どの国も苦労してきた問題だ」

「どうやっても上策とは言えぬが、未だに怨嗟を抱える国もある」


 普通は八歳が議論に混じる議題ではなかった。

 孝先生の授業はただ書物を紐解くだけではない。書物を踏まえることは当たり前。仕入れた知識をもとに、沢山の仮説や議論を重ねる。どうすればよかったのか、どうしてそうできなかったのか、理想と現実を何度も検討する。そして三人で一つの結論を出す。机上の空論ではあるが、過去の失敗から学ぶことは多い。



 午前は境界の歴史を振り返ることで終わった。

 これから三、四日のうちはこのことについての議論になるだろう。今日の内容を頭の中でぐるぐるさせながら、僕はほうとひとつ息を吐いた。


「少し熱が入りすぎてしまったかのう。しかし俊英はよくついてきておる」

「いえ、そんな……。お話についていくだけで精一杯ですよ」

「嘘はよくないぞ、俊英」


 琥珀様はからかうように笑った。品行方正そうなお方だけど、時折こうして少年らしい悪戯っぽいところを見せる。僕は眉を下げて言葉を返した。


「嘘ではありませんよ。寝る前になってお二人の議論していた意味がわかることもあるんですから」

「寝る前にわかるのなら上等じゃ。三年経ってもこの内容の重要さがわからぬ阿呆もおる」

「私はおぬしより以前から孝師に師事している。数年かけてここまで鍛えられたが、おぬしのように呑み込みは早くはなかったぞ」


 孝先生は地図を巻き取り、琥珀様はからりと笑いながら部屋の窓を開けた。勉学に注がれていた熱が吹き込む風に洗われるようだ。

 本棚に書物をしまいながらもう一度息を吐いていると、爽やかな風に混じって美しい音色が滑り込んでくる。


「ほう、なかなかじゃ」

「これは二胡の音だな」

「……」


 僕は驚きに押し黙った。

 これが教師の奏でるものなら不思議はないが、たぶん春風だ。今日から新しい楽器を習い始めると言ってなかっただろうか? 午前のあれだけの時間でここまで上達したのか?


「上手いものだ」

「あのお転婆にしては柔らかい音を出すの」


 何も知らない二人は感心したように聴き入っている。

 おそらく春風に対する教師の方針は正解だったのだ。彼女は楽器をひとつ弾きこなすごとに何かコツのようなものを掴む。そして次の楽器に得たコツを適用してしまう。言い方は悪いけど、化け物だ。僕の学才なんか比べ物にならない。彼女はその要領で体術もあっという間に習得した。


「少し冷やかしてやろうか。なあ、俊英?」

「え、あ、はい」

「どうした?」

「なんでも、ありません。ちょっと驚いただけです。あんまり上手いものだから……」


 言葉を濁らせると、琥珀様は不思議そうに頷いた。

 そのまま彼と二人で庭に降り、音のする方向へ足を進める。


 春風は庭の中ほどにある四阿で二胡を弾いていた。やはり、教師は手を止めて指導している。

 琥珀様は僕の方を向いて人差し指を唇の前に立てた。忍び寄って驚かせるつもりだ。悪戯っぽい顔でにこりと笑い、ゆっくりと背後から近付く。


 気付かれないまま春風の後ろに立った琥珀様は、手を伸ばして彼女の目を塞いだ。


「わっ」


 くくっと堪えきれなかったしてやったりが整った唇から漏れる。子供っぽいことをしているはずなのに、この方がやると高貴さが損なわれないのだから不思議だ。


「だれ? 爸爸(パパ)?」


 琥珀様が愉快そうに僕へ目線を向ける。

 教師は苦笑して僕たちを見守った。そろそろ切り上げるつもりだったのだろう。春風にしては辛抱強く授業を受けた方だ。


「雪影……はしないか。俊英君? もう、いじわるしないでよ」


 ふっくらした唇が僕の名を紡いだので、一瞬どきりとした。


「すまぬ。あんまり熱心にやっていたからな」

「琥珀兄様!」


 琥珀様が手を外して春風を覗き込むと、彼女の丸くて白い頰がポッと赤く染まった。


「私の名前が出なかったな。残念だ」

「だって、兄様がこういうことをするとは思わなかったから」

「こういうこととは?」


 ニヤッと猫のように笑う琥珀様は年相応の少年だった。もう十八。宮廷にいれば縁談も持ち上がる年頃だ。そして青年へと駆け上がる間の男らしい色気も見え隠れする。


「琥珀兄様っていじわるだったんですね」

「知らなかったのか」

「もう!」

「むくれるな。すまなかった。春風が二胡に夢中で気を引きたくなったのだ」


 まだ背丈の小さい春風に合わせて屈み、膨らんだ頰を両手で包み込む。熟れた桃みたいに春風はますます赤くなった。


「……ゆるしちゃいます」


 僕はポカンとした。そんな返事する子だったっけ、春風?

 いつも珍獣みたいに髪振り乱して飛んだり跳ねたりする僕の幼馴染はどこに行ったの? 天生様につれなくして僕や雪影をからかってばかりの春風はどこ?


 春風の返事に琥珀様はくすりと微笑んだ。その気持ちは僕にもわかる。ふにゃっと眉を下げて上目遣いに小首を傾げた春風は小動物のような黒目がちな目も相まって愛らしい。


 少し面白くないのは、僕にはそういう顔を一度もしてくれたことがないことだ。




 わかってる。春風が琥珀様に向けているのは敬愛で、兄と妹、もしくは叔父と姪くらいには歳の離れた相手に思慕なんか抱いてはいない。


 でも、僕に向かってちょっとは赤くなったりうっとりしてくれたりしてもいいんじゃないかと思ってしまうのは、やっぱり欲張りなんだろうか。

 僕、青家の血を引いてるし父上の子だからじゅうぶん美形に育つと思うんだけどなあ。琥珀様みたいに背が伸びるにはあと五年はかかるだろうってところがもどかしい。


 溜め息はとどまることを知らない。

 はあ、と肩を下げると隣で拳法着に身を包んだ春風がこちらを見上げる。


「強すぎるよね。私たち十年かかってもあそこまでできると思えない」

「そうだね……」


 僕たちの目の前では玄家の嫡男、雪影様が琥珀様と共に二十人を相手に組手をしている。


 確かに、僕じゃ十年かかっても一人二人の相手で精一杯だろう。

 春風は……出来ると言うとちょっと怒りそうな気がする。本人はあくまで身体を動かすのが好きなだけのか弱いご令嬢のつもりだ。


 自分たち以外の闘いぶりを見て学ぶことも体術の稽古のうちだ。天生様はむしろ見ることこそが自分を守り勝つ術でもあると教える。観察して、相手の動きを見極めれば自分がどうかわし反撃すればいいのかわかってくるのだ。


 基本でやっとの僕にはよくわからないが、天生様や雪影様、琥珀様の闘いぶりは眺めていて胸のすくようなものがある。突きひとつ、蹴りひとつとっても舞いのように素早く優雅だ。


 今も雪影様と琥珀様の戦いに見入った観戦の私兵たちが力強い一撃にはおおっと息を呑んだり、危ない場面では拳を握りしめて自分のことのようにのめり込んでいる。

 雪影様の身のこなしは年々磨きがかかるどころか、鬼気迫るものがある。体格は元より、力、素早さ、判断力、どれを取っても頭ひとつふたつ抜けていた。

 琥珀様は身体的に彼ほど恵まれているわけではないが、鋭く確実な攻撃で相手を素早く沈める。最小限で倒すやり方だ。


 見る間に十二人を倒し、二人は背中合わせに構えた。

 残りの八人と間合いを置きながら油断なく睨む。

 囲みを狭めるように、八人がそれぞれ攻撃を仕掛けた。左右に上体をを振って突きをかわし、頭を下げて蹴りをかわす。背面は互いの背中で塞いでいるから鉄壁というわけだ。

 激しい攻撃の嵐も次々とかわす。いったいどういう風に見えているんだろう。僕なら数発かわすのがやっとだろう。


 攻撃に集中しすぎたのか、囲みの一人が輪を崩す。

 そこから琥珀様が急所を突いた前蹴りで吹き飛ばす。相手は後ろ方に吹っ飛んだ。


 そこからは早かった。崩れた陣形を広げるように一人、二人、当て身を食らわせ、突きで沈め、手刀でなぎ倒し、足掛けで体勢を崩し、とうとう床の上に立っている敵がいなくなった。


「勝負あり!」


 天生様の判定にわあっと観戦していた者たちから歓声が上がる。

 二人で二十人と戦って勝ったのだ。しかも精鋭揃いの奏家の私兵を相手に。

 勝った本人も興奮してもいいものだが、琥珀様は柔和な表情でうっすらとかいた汗を拭い、雪影様は涼しい顔で倒した相手をひとりひとり声を掛けている。


「すまんな。最後の方は私も手加減する余裕がなかった」


 謝りながら手を差し伸べた。彼らは雪影様の部下でもある。


「マジで痛いっすよ、隊長」

「肋折れたかも」

「最後の蹴りは効きました」

「お前たちがそれだけ力を付けているということだ。誇っていい」


 淡々と告げられた言葉には嘘は無い。部下たちもそれをよく理解しているので、真っ直ぐに褒め言葉と受け取った。


「隊長! オレ一生隊長に着いていきます!」

「おれも!」

「俺も」


 試合で勝ちにこだわらないことが雪影様の美点だろう。

 認められて、的確に褒められて部下たちは彼を尊敬する。


「よし、ちびどもはこっちだ」


 天生様に手招きされ、僕たちはそっちへ近寄った。

 雪影様と天生様、琥珀様が並び、僕と春風がそこに向かい合った。


「多人数を相手にする時に気をつけることは何かわかるか?」

「えーと、コーゲキをいっぺんにうけないこと?」

「逃げ道を確保する」

「えっ、俊英君は戦う前から逃げることを考えちゃうの?」

「だって僕は雪影様じゃないから、どう考えても勝てないよ」

「弱気だなあ〜」


 僕たちのやりとりを三人は微笑ましそうに眺めている。


「正解だ、俊英」

「へっ!?」

「!」


 天生様は僕の頭をくしゃりと撫でた。


「今回はただの試合だが、実戦では逃げるに越したことはない」

「相手が素手で来るとは限らないからな」

「地形も問題だ。地の利があれば少しはましだが、見知らぬ地ならばさっさとその場を離れるべきだ」


 雪影様、天生様、琥珀様がそれぞれの意見を実感をこめて頷きながら教えてくれる。

 ということは、三人とも実戦での経験があって、素手じゃない相手と、地の利のない状況で戦ったことがあるってことだろうか。やっぱり並の人間じゃない。


「え〜?」


 春風は不満そうだ。天生様の血を受け継いだせいか、彼女もかなり好戦的だ。隙あらば喧嘩でもなんでも突っ込んでいきそうでハラハラする。


「お前は一番肝に命じておけ」


 天生様は春風の丸いおでこをピンと指で弾く。あいたっと顔をしかめる娘を見下ろし、次に僕に目をやった。


「型をおさめるお前たちに一番大事なことだ。まず自分の生きる道を最優先にしろ。戦うのは武人に任せておけ」

「わたしは武人にはなれないの?」

「春風。何度も言うようだが、お前に危ないことはさせられない」


 どうも春風は武人になりたいらしい。度々こうやって訊ねては天生様が反対する。

 女の武人がいないわけではないけど、普通いい家柄の令嬢はそういう職業にはつかないものだ。

 なったとしても宮廷女官や妃付きの侍女くらいで、それも結婚までの繋ぎに経歴に箔をつけるものとして就く。

 武門の令嬢にはたまにあることだけど、それも家長の父親の許しがあってのものだ。なので、天生様が認めない限りは春風が武人になれることはない。どんなに可愛い顔でお願いしても、将軍はこれだけは首を縦に振らないだろう。


 それからひと通り型の稽古に入った。

 春風は後半の型を、僕は最後の型を天生様に教わる。

 覚えが遅いのはいつものことだけど、いつも以上に思うように身体が動かなかった。


「上の空だな」

「そ、そんなことは」


 とっさに否定したけど、白々しいのは明らかだ。僕は口を噤む。

 天生様は構えを解いてこちらに歩み寄った。


「気掛かりがあるときはそうなるもんだ。だが、いつまでもそうしてるわけにはいかんぞ? 早く型を習得して家に帰らねば、秀英も待っている」

「はい……」


 わかっている。けれどそうすれば、春風と離れてしまう。それはすごく寂しいことだった。




 長い一日が終わり、湯浴みを終えて寝台に潜り込んだ。


 灯りの消えた部屋ではどうしても考えてしまう。

 日に日に感じずにはいられない。この邸を出て行くこと。


 この家の人たちの温かさに包まれて過ごした日々、すぐに泣いてしまいそうになる僕の隣に、いつも気が付けば春風がいてくれた。

 あの子に格好悪いところは見せられなくて、慣れない運動で身体が痛くなっても、諦めずに練習した。


 雪影様はそんな僕をよく頑張っていると褒めてくれる。兄のような存在だ。

 琥珀様は優しくて、尊敬しているけど、負けたくない。背丈だけでもいつか追いつこうと好き嫌いを我慢してご飯も食べている。

 彩殿は細やかに気遣ってくれて、そんな様子を見ると僕は母上に会いたくなってくる。ひとりひとりが僕の家族のように近しく感じる人たちだ。


 離れがたい思いを胸に溢れさせていると、ふと人の気配を感じた。扉の横に目をやる。黒い縦長の人影が立っていた。


「……雪影様」

「よく気付いたな」

「鍛えられましたから……」


 この家は夜こそが私兵の働きどころだ。中々寝付けない体質の僕は半年経つ頃には気付いた。

 足音や、鋼を打ち合う音、蠢く気配。彼らのお陰で平和で穏やかな奏家は刺客から守られている。


「そうだな。お前は聡かったな」


 雪影様はひとつ頷きながら、寝台のそばで膝をついた。僕に目線を合わせながら、低く落ち着いた声で問う。


「離れがたいか?」

「……はい」

「俊英。何も今生の別れじゃない。青家の邸からいつでも会いに来ていいんだ」

「本当ですか?」

「お前が訪ねてくるのを厭う天生様か?」

「いいえ!」


 勢いよく首を振る。暗がりでも雪影様がくすりと笑うのがわかった。大きな手が伸びてきて、僕の頭を撫でる。


「だろう? ならば寂しがらずとも、いつでも春風様と会える」

「いつでも?」

「ああ。俺が請け合う」


 普段は堅苦しいほど生真面目な人が、僕に兄のように接してくれることが嬉しかった。


「それと」

「?」

「春風様の気を引きたいなら、なおさら八の型までおさめねばならんぞ。あのお嬢様は強い男が好みのようだからな」

「えっ、そうなんですか?!」

「俺もはっきりと確かめた訳ではないが、稽古で勝ち抜きする常連には少し目つきが違うな。こう……うっとりしてるというか」

「うっとり……!?」


 春風は基本誰にでも好意的だが、うっとりなんてしている相手は琥珀様以外は記憶にない。父親の天生様にさえあっさりしている。


「まあ、好きというよりは、憧れというのに近いのだろうが……」

「そんな……僕、勝ち抜き常連なんて……一体何年かかるか……」


 途方に暮れてしまう。春風の前では泣かないように気を張ってるけど涙目の心境だ。

 雪影様は何か心配そうに眉を下げた後、ゴホンとひとつ咳払いして僕の肩を叩いた。


「……お前は、己の力量をはかり間違えているな。だが、まあ、その調子で謙虚に頑張れ」



 雪影様が出て行った後、もう一度上掛けをかぶり直してうとうとしていた。


 温まってきた寝台に、ひやりとした空気が滑り込んで少し意識が戻る。

 目だけを動かすと、上掛けの隙間からふわふわした長い髪がはみ出していた。


「……はるかぜ?」


 上掛けをめくると、春風が僕の隣に潜り込んでいた。

 ほの灯りの中で白い肌が柔らかい輪郭を描いている。大きな目の白い部分が青白く光っていた。寝台に寝転がって、覗き込む僕を見上げている。


「きちゃった」


 悪戯っぽく舌を出す顔が可愛い。いや、そうじゃなくて。


「一人で寝なよ」

「だめ?」

「また彩殿に怒られるよ」

「う〜っ、まあいいじゃん。こういうことできるのって子どもの間だけでしょ?」

「またそう次から次へと言い訳して……」


 言いかけてやめた。僕だって咎めているのは口先だけで、本当は春風と一緒にいたい。

 ため息をついて、僕のすぐ横を叩いた。


「そこだとすき間ができるから、こっちきて」

「うん! へへっ」


 するっと春風は僕のそばへ寄ってきた。吐息が聞こえるほど近くで、どきりと心臓が跳ねる。

 すぐ近くで広がる髪から甘い匂いがする気がして、かあっと頰が熱くなった。

 僕の動揺なんて露知らず、彼女はにこにこしている。


「あったかいね〜」

「さっきまで寝てたんだからそっちの布団もあったまってたはずでしょ?」

「でもこっちのほうがあったかいんですう」


 僕は湯たんぽがわりかよ。確かに、まだ肌寒い頃だ。昼間は日差しで温むけれど、朝夜は冷え込む。

 僕はふと春風の手を握ってみた。


「そうだね、あったかいね」


 いつか、強張った顔をしていた時のことを思い出す。

 僕の心の中は今でも泣き虫で、自分自身の非力さや未熟をよくわかっている。

 春風を守ったり助けたりしたくても、今の僕じゃそれは無理だ。僕を頼ってとか力になるって言ったとしても、それはただの自己満足になってしまう。


 一抹の悔しさを噛み締めながら春風に目を戻すと、陸に上がった魚のように口をパクパクさせている。


「春風?」

「む」

「む?」

「むじかく!」

「むじ……?」

「な、なんでもない!」


 どもりながら言い募る春風は、暗がりではっきりとはわからないが、もしかして赤面してる? 初めて見る反応に、胸がきゅうっと疼いた。

 春風の動揺が伝染して、僕まで落ち着かなくなる。握った手も少ししっとりしたように感じながら、何も言えずにただそわそわした。

 こういうときに切り出す言葉がないのが悔しかった。普段あれだけ勉強していても、春風の前ではなんの役にも立たない。

 でも、強く心に思っていることがあると気付く。


「ずっと、こうしていられたら、いいのにな……」


 春風や、天生様、琥珀様、雪影様、彩殿や、侍女たち、親しく接してくれる使用人たちに、兄貴分として見守ってくれる私兵たち。

 この家は優しい人たちで作り上げられている。

 両親が恋しくないといえば嘘になるけど、青家の邸しか知らなかった僕を鍛え育ててくれた。

 ここは僕にとってもうひとつの家だ。

 僕は青家の長子だからここにずっといるわけにはいかない。だから、今の言葉が本当になることはないとわかっている。


 繋いだ手を引き寄せて、胸の上に手を抱き込む。二人分の温もり。春風は黙ってこちらを見つめている。


「ねえ、春風」

「なあに?」

「もし僕が青家に戻っても、たまにこっちに遊びに来てもいい?」

「そんなの、たまにじゃなくても、いつでも来たらいいよ。じゃないと私もさみしいよ。だってこの家から出られないんだもん」


 春風は唇を尖らせた。彼女が木登りに夢中なのは、自分の置かれた立場を幼いながらに理解したせいでもある。

 貴族の女子は基本、成人するまでは家から出られない。

 成人しても行儀見習いとして宮廷に出るが、それも短期間で結婚相手を見つけるためのものだ。

 結婚すればまた夫の邸で閉じこもって暮らす。多少の外出は許されるようになるが、それでも貴族の男子ほどの自由はない。

 父親である天生様は型破りな方だし、彼の許しがあれば少しは外の世界へ出ることもできるだろうが、窮屈なことには変わりない。


「じゃあ僕と一緒に外に行ってみようよ」


「一緒に?」


 黒目がちな目がくるりと僕を見つめる。拗ねたり怒ったり、笑ったり、コロコロと忙しく表情が変わる瞳を覗き込むのが好きだ。


「僕がこの庭の木を全部登れるようになったら、邸の塀も越えられるようになると思うんだ」

「俊英君、木登り苦手でしょ?」

「だからだよ。明日から練習するんだ。ちょっと時間がかかるかもしれないけど……やっぱり、そんなに待てない?」

「ううん!」


 春風はブンブンと首を振った。パサパサと髪が布団にぶつかる音が聞こえてくる。


「ううん、待てるよ、待つ! 俊英君が木に登れるようになるの、待ってる!」


 よかった。つい口走ってしまったことだけど、目の前で春風が喜んでくれたらそれでいい。

 きっと抜け出した後は天生様たちにこっぴどく叱られるだろうけど、それさえも彼女と一緒なら、僕は頑張れるだろう。


「外に出たら、市場を見に行こうよ」

「市場?」

「うん、色んな店があるんだ。綺麗な服や髪飾りもあるし、小物だって……珍しい動物とかもいるよ」

「へええ!」


 暗がりでよくわからないけど息遣いや身動ぎで彼女が目を輝かせているのがわかる。それが愛しくて微笑んだ。


「お饅頭も食べたいなあ」

「いいね、食べよう。南側は異国風のものが多いんだ。料理も少し変わったものがあるんだよ」

「楽しみ! ぜったいぜったい、木登りできるようになってね、俊英君!」


 月明かりだけが頼りの部屋で声を弾ませて笑いかけてくる春風に、僕はドキドキと胸が高鳴るのを感じながら頷いた。

お久しぶりです。ストックを作って書いていないので毎度ヒイヒイ言ってます。今回は三年後の上に俊英君視点だったので、うむうむヒイヒイ言ってました。そして俊英君視点って入れるの忘れてました、すみません。

守ってやるとか頼れよとか言える男の子もカッコいいですが、自分が非力なことを理解してて頑張る子って健気な感じします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ