わかってるよ
俊英君が我が家に加わり、まず最初にパパ達が彼に教えたことは琥珀様のことだ。
皇太子が奏家に隠遁生活してるなんて他に知られたら大ごとだ。
私は彼の正体を知らないふりしてるし、この邸でこのことを知ってるのはパパと雪影ぐらいじゃないだろうか。俊英君は口外するような子じゃないけど、真実はどこから漏れるかわからない。天生パパの元に修行に来たどこぞの貴族の若様ということで紹介された。
けど対面したときに俊英君はちょっと震えながら丁寧にお辞儀してた。琥珀様の立ち居振る舞いや身なりでどことなく察したのだろうか。おじさんが彼を賢い子だと自慢していたのは嘘じゃないらしい。
「せ、セイケのシュンエイともうします」
「私は琥珀という。そう硬くならずに、気楽に接してくれ。ここは奏家の邸だ、堅苦しい礼儀は無しにしよう」
「は、はい」
琥珀様のお部屋は午前の明るい光で満たされている。彼自身もどことなくキラキラした粒子が舞ってるように見えなくもない。
俊英君と向かい合って会話を交わす様子は、天使と大天使様が並んでるみたいで大変絵になる。誰かここに絵師呼んでー!!! 私はちょっと離れたとこで二人を見守っていた。
「これから同い年の子供がいるのは楽しくなりそうだな、春風」
「はい! パパのケイコもいっしょなのでたのしみです」
琥珀様は優しく微笑んで、いつもお茶をご一緒する卓に招いてくれた。
今日のお茶はちょっと苦めだ。飴で固めた木の実のお菓子とよく合う。
「方術の稽古は進んでいるか?」
「いま、さんのカタです」
「そうか。覚えが早いのだな」
「わたしなんかまだまだです。きっとシュンエイさまがならいはじめたら、わたしなんかあっというまにぬかされますよ」
「えっ」
私の言葉に俊英君は目を丸くした。
「ど、どうして?」
お、昨日や一昨日よりもどもらずにしゃべってる。ちょっとは緊張がとれたのかな。私はお菓子にかぶりつきながら続けた。
「だって、シュンエイさまってかしこいんでしょ? わたしはちょっとからだうごかすのがすきなだけだもん」
身体と頭の動きが一致しない人もたまにいるけど、大体にして頭のいい人は要領が良いのだ。身体が動かせるだけの私よりも何かを習得する速度はたぶん早い。
「は、はじめてみなきゃ、わからないよ」
「そうかなあ?」
小首を傾げながら見つめると、俊英君の頬がポッと赤くなった。照れくさいのかな。そっぽ向いてお茶を啜る様子は年相応だ。
「私からすれば、二人とも将来有望だ」
琥珀様がにこにこしながら私たちを眺めている。
私だけを相手してくれてた時も思ってたけど、この家に私と俊英君の子供しか話し相手がいないのにつまらなくないのだろうか。パパはお仕事で家を空けることも多いし、唯一歳の近い雪影は今はうちの使用人だから気安く話せないだろうし、私兵さん達も微妙に年上だし。
「コハクにいさま、さびしくありませんか? としのちかいはなしあいてがひつようだったら、セツエイをかしますからね!」
「雪影を?」
「はい、だってほかはみんなおじさんだもん」
茶碗に口を付けていた琥珀様がちょっとむせた。
「にいさま、だいじょうぶですか?」
気管に入ったら大変だ。いっぱいいっぱい手を伸ばして背中をさすると、クククッと笑う振動が伝わってきた。私なんかおかしなこと言ったかな?
「大丈夫だ。それじゃあ、難しい話をしたいときには雪影を貸してくれるか?」
「はい! エンリョなくいってください!」
琥珀様の綺麗な手が伸びてきて、私の頭を優しく撫でた。何気にこうされるのがちょっと嬉しい。パパの大きな手とも違う、心がほっこりするような撫で方なのだ。
「コハクにいさまってとってもやさしいかただよね」
「うん」
「おちゃをいれるのもじょうずよね。わたしサイさんにおしえてもらってるんだけど、いつもおこられるの」
「うん」
「……シュンエイさま、どうしたの?」
琥珀様のお部屋から帰る途中、せっかくだから庭をぶらぶらと歩く。
明日からはまた週五でお稽古詰めの日々だ。今日ぐらい散歩したってバチは当たらないだろう。昼食前にお茶とお菓子で膨らんだお腹を空かせるにはぴったりだ。
天気も良いし、気持ちのいい風が吹いている。さやさやと葉ずれの音に、庭の人工の川が耳に涼を添える。もうすぐ夏だ。
外の眺めにばかり気を取られていたけど、俊英君の気もそぞろな返事が段々と気になってきた。振り返って確かめると、浮かない顔をして立っている。
近寄って顔を覗き込むと、上目遣いにこっちを見上げてきた。私の方がちょっと背が高いので、向かい合うと目線がこうなるのだ。色白で小さな顔が余計に引き立つ。下手したら女の子の私より可愛いんじゃないだろうか。
「ハ、ハルカゼ」
「なあに?」
「ハルカゼは、コハクさまがすき、なの?」
「うん?」
まじまじと俊英君を見ると、不安そうな目をこっちに向けている。
「えっと、わたしにはおにいさまがいなかったから、おにいさまみたいですき」
答えると、ガーンと音が聞こえそうなほどショックを受けている。俯いて服の裾を掴みながら、ボソボソと訊ねてきた。
「じゃ、じゃあ、ぼくがもっとおおきくなったら、すきになってくれる?」
「なにいってるの」
思わずくすりと笑みが漏れた。
これは刷り込みだな。初めて会った日から俊英君にくっついていたから、彼にとってこの家で一番気安い相手になったのだろう。なんか雛鳥に懐かれた猫みたいな気分だ。
「シュンエイさまはこうやっていっしょにあそべるからすきなのに。おとなになったらできないよ」
「ほ、ほんと?」
「うん」
ぱっと顔を輝かせる。それから、ちょっと考えて首を傾げた。
「ぼく、シュンエイさまってよばれるの、いやだな」
「いや?」
「うん。もっとなかよくなりたい」
おお、素直だ。きっとお祖父さんのことがなければ、俊英君はこんなに子供らしい子だったんだろう。彼のしたことは消えないけど、私の前でくらいは忘れて年相応にいてくれたらいいな。
「じゃあ、シュンエイくん! あのき、さきについたほうがかちね! よーい、どん!」
「えっ、えっ!?」
翌日からまたお勉強の日々に戻ったわけだけど、やっぱり俊英君は賢いらしい。
ちょっと隣の部屋に覗きに行ったら、机の上には木簡をたくさん積み上げてあるわ、何かを書き付ける俊英君を覗き込む教師が「これは天才だ!」って言いたげな顔してるわ、その文字が五歳とは思えないほど流暢だわ。片や私は箏の手習いが上手くいかなくてサボりに来てるしで。
面白くない。ふんっ、泣き虫俊英君め。
「さっさとジブンのへやにもどったら?」
「なんで? さっきはハルカゼがぼくのところにきたんだから、ぼくだっていいでしょ?」
彩さんにとっつかまって部屋に連れ戻された私はぶすくれて筝と向き合っていた。
右手に付けた義爪で弦を弾くと、ビィンと絹糸が鳴らす透き通った音がする。左手で微妙に揺らしたり押さえたりする事で音程に複雑さを出すんだけど、なかなか集中力がいる。
俊英君は両手で頬杖をついて机越しにこっちを眺めている。
気が散るなあ。でもわざわざ口にするのはなんとなく癪だったので、黙って教わった曲を弾いていた。子供向けの基本みたいなもので、すごく退屈で単調な曲だ。ゆったりしてて手さばきが忙しくないのがいかにも初心者っぽい。
あたたかな春の風が吹き込む部屋の中。ふわあ、と向かいからあくびが聞こえてくる。眠いなら部屋に戻ればいいのに。下手な演奏を聴かれたくないから、八つ当たり気味にそう思った。
青俊英。何度思い出そうとしても、友人の小説で彼の名前は出てこなかったように思う。
父親の秀英おじさんは悪い貴族や官吏を押さえて何とか善政を行おうと苦心する人として描かれていたけど、優秀なはずの息子の俊英君はちらりとも出てこない。
もしかして病気とか、事故とか、……暗殺とか。小説の時間軸に合流するまでに何かがあった?
ピン、と弦の調子が乱れる。ハッとして顔を上げると、俊英君が机に腕枕してスヤスヤ眠っていた。
一度ちゃんと小説の内容を思い出す必要がある。まつ毛の影が落ちる彼の頰をぼんやり眺めながら、嫌な予感が胸に広がる。
私だけがイレギュラーじゃなかったら。
ここが小説の中の世界だって認識がある私はイレギュラー中のイレギュラーだけど、小説に登場してなかった俊英君と私、そして私の母。
天生将軍がどうして小説の中では独り身だったのに、ここでは違うのか。
もしかしたら友人の中では、作品の時間軸までに何かがあってパパが女好きになっちゃったのかもしれない。
裏設定ってやつ。私が書いてたならペラペラ喋っちゃいそうだけど、あの子は内緒にしておいてどこかで使うタイミングを図るタイプだ。そういうことやりそう。
だとしたら、奏春風は母親と一緒に流行り病で死ぬはずだったんだ。
それがどういうわけか私の意識が入り込んで、病から生きながらえてしまった。
俊英君もそうじゃないだろうか。
小説のお話が始まるまでのどこかで命を落としてしまう。物語の焦点は皇太子とヒロインだから、たいしてクローズアップされることなくスルーされた。
今は無事でも、どこかでまた私と俊英君は危ないんじゃないだろうか。
「ハルカゼ?」
舌ったらずな声に呼ばれてぎくりとした。さっきまで寝ていた俊英君が寝ぼけ眼をこっちにむけている。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「なんでもなくないかおしてるよ」
「なんでも、ない」
だって、全部推論だ。
必ず起こるわけじゃない。ただ自分で勝手に不安になってるだけ。次から次に悪い想像が頭を巡って自分で落ち着かなくさせているだけ。やめたいとおもうのに、上手く頭を切り替えられない。
そっと右手にあたたかいものが触れた。目をやると、自分と同じくらい小さな手がそっと握り込んでいる。
俊英君の手のぬくもりで、すっかり指先が冷たくなっていたことにそのとき初めて気付いた。
「つめたいよ」
「そう、だね」
「はじめてあったとき、こうやっててをつないでくれたよね」
「そうだっけ?」
首を傾げると、ムッとしてこっちを睨んでくる。
「そうだよ。ぼく、あのときハルカゼがいてよかった」
「そうなの?」
「そうだよ。ぼく、ずっとくるしかったんだ。
ははうえにもいえなくて、だれにもいえなくて……いわなきゃってわかってたけど、いおうとするとくるしくなって、なみだがとまらなくて、こわくなって……
ハルカゼが、おちゃをのませてくれたり、となりにいてくれたり、いっしょにねてくれたから、なみだがでなくなったんだ」
「そっか」
「そうだよ」
「でも、わたしじゃなくても、みんなシュンエイくんがないてたらおなじことするとおもうよ。みんなやさしいよ」
私の言葉が気に入らなかったのか、俊英君は柔らかそうな頰を更にぷうっとさせた。さっきより力を込めて手も握られる。本当のことだと思うけど。
「あのとき、ぼくからなにもきかなかったでしょ」
「うん」
包み込まれる手のおかげで指先はすっかりあたたかくなっていた。
この家に来たばかりの俊英君がどうだったか、もうちょっと思い出せない自分は薄情なのかな。泣き虫だったのだけは覚えてるし、今の落ち着いた俊英君が好ましいからというのもある。それに、事情があったとしても、子供の自分には解決できることは少ない。だから泣いてばかりいた彼を休ませることくらいしかできなかっただけだ。
「ぼくも、ハルカゼになにかあってもきかない」
「うん?」
「でも、ずっとそばにいるよ」
「ん?」
俊英君はにっこりと愛らしく微笑んだ。
目鼻立ちには将来有望な美男子の気配が漂っている。ちょっと線の細い優男な感じにはなりそうだけど、まじで天使みたいな見た目だな。
なんかそのセリフって告白みたいじゃない? この歳でそんなこと言うなんてやっぱりイケメン(予定)はやるな〜。まあこの調子で成長すればゆくゆくは押し寄せる女の子をことごとく魅了するとんでもないやつになりそう。
私は曖昧に頷いた。
「ん〜、うん、ありがとう。シュンエイくん」
「もう、わかってないでしょ」
またぷうっと頰を膨らませる。
「わかってるよ?」
「わかってないよ」
わかってるけどなあ。首を傾げると、仕方ないなあって感じに苦笑された。
「わかってるよ。ずっとそばにいてくれるんでしょ?」
「……うん」
真っ赤な顔でごにょごにょ頷く俊英君は、ちょっと嬉しそうだった。
俊英君雛鳥モード。
こどものぷんぷくりんのほっぺたって可愛いですよね。子供のときはほっぺたパンパンでつぶれまんじゅうみたいだった子が急に美形になるの、どうした!? って感じで好きです。
ある女優さんがインタビューで、子供の頃のほっぺたのふっくらを「赤ちゃんのお肉」って言ってて、「大人になってきて赤ちゃんのお肉が取れて輪郭がシャープになってきたの。嬉しいわ」みたいに答えてて、素敵な表現だなって今でも覚えてます。