妹分(琥珀視点)
奏春風は私にとって、妹のような存在だ。
生まれたばかりの彼女をこの目にしたとき、他人の子供だというのに胸に熱いものがこみあげた。
天生が私を息子のように時に厳しく、時に励まして面倒を見てくれたのもあるのだろうか。本当の母である貴妃や、父である皇帝よりもよっぽど身近な情を抱いていた。
天生が彼女を守るなら私も大事にしたい。勝手ながらそう思っている。
私は宮中では皇帝のただ一人の息子、将来父の跡を継ぐ太子として周囲に傅かれながら生きてきた。
侍従や侍女は私とはどこか一線を引きながら接してくる。物心つくまではそれでも良かった。段々と気付き始めた五つの頃、言葉にできない寂しさが私を襲った。
そんな頃に剣の師匠となったのが天生だった。
彼は言葉遣いや礼節を取り払って私に接してくれた。あっという間に剣術にのめりこんだ。
天生は父か兄のように私に接し、真剣に剣術を教えてくれたので、強く打たれてあざになったり投げ飛ばされて身体を痛めるくらいなんでもなかった。
同じように勉学にも、私の人生の師と仰ぐ人が現れた。当時中書令だった玄冬という男だ。
彼と天生は幼馴染みで、共に幼い頃から切磋琢磨してきた仲だという。冬も天生と同じく、私を皇太子としてではなく一人の子供として接してくれた。
二人に教え導かれていなければ、今頃私はとんでもなく傲慢か、とんでもなく臆病な愚か者になっていただろう。
文武の道は私に背骨のような自信を与えてくれた。線引きして私を見る官達にも臆することがなくなった。
しかし、私に文の道を示してくれた冬は私が十を過ぎた頃に突然の死に見舞われた。
宮廷に出仕した帰りのことだったという。犯人は都を騒がせていた盗賊。
しかし、あまりにも不自然だった。仮にも国の中枢を担う中書令の冬が連れていたのは精鋭の私兵で、盗賊ごときに殺されるほど弱くはない。そして帰り道というのも、なぜ金目のものを狙う賊がより大きな収穫がある邸ではなく帰宅の途を選んだのか。納得できないことが多すぎた。
疑惑の悲劇の中で、見えてきたのは裏で手を引いていたものの絵図だ。
玄冬の死を境に、内政に暗雲が漂い始めた。父の敷いてきた善政を妨げるように、様々な省が次第に機能しなくなったのだ。
停滞する宮廷で賄賂で私欲を満たす官僚という澱が溜まり、民の間に反感の声がそこはかと聞こえるようになった。
幾人かの中心人物の目処はあるが、誰がその人物か判然としない。不愉快で不気味な現状だ。
それから、私は命を狙われるようになった。
食事や衣服に忍ばされる毒、寝所に忍び込む刺客は毎日のように、宮廷でも少しの言動を論って後継に足る資質を問われる。
眠る時さえも一瞬の油断もならない日々だった。
天生は生まれたばかりの子を置いて泊まり込みで護衛をしてくれた。赤子だった春風には申し訳ないことをした。あの子にはこれから少しずつでも恩返しをしたい。
天生のお陰でどうにか齢十五を迎えたが、今度は彼の最愛の妻と娘が流行り病に見舞われてしまった。
どうして不幸というのは良き人を好むのだろう。運命に憎しみを抱く思いだった。
私の命を狙う連中の姿がわからない以上、奏大将軍の護衛は外せない。天生は断腸の思いだっただろう。
愛する妻と子を見舞うことさえできない日々の中、とうとう彼の最愛の女性が儚くなった。
「殿下には悪いが、俺はこの肩書を返上してでも家に帰らせてもらう」
止めることはできなかった。
けれど、宮廷の現状に父皇帝も憂えていた。天生の申し出を取り下げ、代わりの策をくだされた。
けして上策ではないし、苦肉の策だ。父上は何か事が起きた時にと考えていたという。
表向きは息子を遊学という形で異国へ送ったことにし、天生の元で客人として隠遁する。──皮肉なことに、宮廷を去ることになってはじめて私は父からの情に気付いたのだった。
そうして、今に至ると言う訳だ。
魑魅魍魎棲まう宮廷が嘘だったように、奏家の邸で過ごす日々は平穏だ。
妻の死に目に会わせてやれなかった天生は変わらず私を息子か弟のように叱咤激励してくれたし、春風はとても懐いてくれた。
春風は以前から愛らしい子供だったが、病を克服してから少し変わった。
たどたどしい話し方はそのままだが、幼いながらにこちらの話にじっと耳を傾ける。私が五つの頃にはまだ集中力が保てず、他人の話など最後まできちんと聞けた試しがない。
元からそうだったのか、病で神がかったのか。それはわからないが、兄分の欲目でなければ春風は愛くるしいうえに賢い、将来が楽しみな娘だ。
「にいさまは、いつもちちうえとテアワセしているのですか?」
「いいや、天生もあれで忙しい男だからな。週に二回、時間を作って相手してもらっている」
まだ五歳にもならない幼い春風はきょろりと大きな黒い瞳でこちらを見上げた。
その小さくて柔らかな手を引きながら、練武場への道を行く。
奏家は元より武門であるが、一代で武功を挙げて出世しただけあってまだ邸が新しい。大将軍にふさわしい広さと、精鋭の私兵を揃えている。
「それ以外の時はここの私兵に混じって訓練をしている。それから、方術の訓練もな」
「ホージュツ?」
「人にはそれぞれ持って生まれた力がある」
「?」
子犬のように首を傾げる春風に、私は屈んで人差し指を差し出した。
意識を集中させて、ごくごく小さな火を指先に灯す。
少女は大きな目をぎょっと見開いた。
「術を見るのは初めてか?」
こくこく頷く彼女の視線は私の指先に注がれ、驚きだけでない好奇心にキラキラと輝いている。素直な反応は子供らしい。人知れず微笑んでしまう。
「我々の中には、まれにこういう力を持つ者が生まれる。火、水、土、風のどれかを操る力を方術と言い、人を加護する力、呪う力を道術と言う」
「コハクにいさまは、ひのチカラ?」
「私の家系は代々変わっていてな、四行を全て操れる」
「ぜんぶ!?」
「そうだ」
春風は興奮したように早口で何か呟いた。ちぃととは何だろう?
まだ滑舌がいいわけではないし、間違って言葉を覚えているのかもしれない。
「これは誰しもが必ず使えるようになると言うわけでもないし、諸刃の剣だ。特に私のような珍しい力を持つ人間は、周囲に知られぬように隠し持っている。奏家はあいにく何の力を有しているか知らぬが、もしかしたら春風も使えるようになるかもしれぬな」
幼い妹分は両手で頰を包み、小さな頭を嬉しげに揺らす。まだまだ可能性がたくさんある年頃だ。
しばらく年相応に振舞っていたかと思ったら、急にハッとしてこちらに顔を上げた。
「わたしにおしえてよかったんですか?」
やはり聡い子供だ。そしてこの幼さで思いやりが備わっている。
まだ短い居候だというのにちゃんと兄と慕ってくれているのが嬉しく、つい彼女を前にすると笑みがこぼれてしまう。
「秘密にしてくれるか?」
さっきまで火を灯していた人差し指を今度は唇の前に立てる。
「ぜ、ゼッタイまもります……!」
深刻そうに頷くものだから、つい吹き出してしまった。
「ああ。そなたと私だけの秘密だ」
「ひみつ……」
噛みしめるように呟く春風を促して、練武場へ向かった。
邸の西側、私兵の住居の近くにある青い屋根の平たい建物が練武場だ。家の主人のために贅の凝らされたものとは違う簡素な設えで、春風には新鮮だったのか、歩きながらキョロキョロと物珍しそうに辺りを見回していた。
「春風! お前も来たのか!」
訓練着に身を包んだ天生は練武場にやってきた私達に目を丸くした。
「どうした? 爸爸のかっこいいところ見にきたのか?」
娘を前にすると天生は顔つきが変わる。硬い岩から削り出したような顔が笑み崩れるのだからその変わりように驚きだ。
それだけ大事に思っているのだろう。小さな娘を抱き上げると、本当に愛おしそうにその顔を覗き込む。
「パパ、あのね」
小さな手のひらを巌のような見た目の天生の耳に添え、こしょこしょと何か耳打ちする姿は可愛らしい。
これが対比というものか。詩の教師が教えることを今理解した。
「お前も訓練したいだと?」
天生は困惑した。豪放磊落という言葉が普段から服を着て歩いているような男にとっては珍しい。今日は珍しいものばかりが見れる日だ。
「うん。ビョーキになっておもったの。カラダをうごかしたほうが、パパみたいにつよくなれるでしょ?」
「ま、まあ、そうだな……」
春風はこの幼さにして相手を説得する術を得ているらしい。
爸爸みたいになりたい、と言われて満更でもない、どころか心底嬉しそうだ。これは陥落は目前だな。
渋い態度は最初ばかりで、すぐに天生は春風に鍛錬に加わることを許した。
普通の貴族の娘ならば鍛錬などしない。体術など身につけても嫁入りに悪い印象を与えてしまいかねないからだ。
娘のためを思うなら、天生は彼女の願いを聞き入れるべきではなかった。けれど、死の淵をさまよいかけた愛娘の思うままにしてやりたい親心もよくわかる。
まあ、奏家は武門で、当主の大将軍位も一代きりなので、そこまで令嬢らしく育てることにこだわる必要はないかもしれない。
そう軽く考えた自分が驚かされることになるとは、このとき思いもしていなかった。
方術と道術については全然違うし、中華ファンタジーものなら四行じゃなくて五行じゃないのかって話なんですけど、術はこのお話の中ではわかりやすさを優先してこんな感じにしました。なので完全に創作になると思います。四行にしたのは、好きなアニメの影響です。『アバター 伝説の少年アン』ネトフリで観れるのでよければオススメです。中国武術の動きに合わせて火とか水とか土とか風とかがブワッと飛び出すのが爽快です。