まな板の上の魔王
「ぐっ、あぁぁぁぁ!!」
「いーひっひっひ!」
いったいどれ程の時間、俺は地面の中で引きずり回されているのだろうか。
五分? 十分? あるいはそれ以上?
右も左も、上も下も分からない。
方向感覚どころか重力がどちらを向いてるのかさえも判然としないまま、俺の体はラミアによって暗闇の中を突き進んでいく。
感じるのは地面を掘り進める掘削音と醜悪な笑い声。加えて体を打ち付ける石の固さと、泥臭い土の匂い……それくらいのものだろうか。
全身が痛い。
騒音と振動で感覚を無茶苦茶に狂わされて、ただただ苦痛の時間が無限のように続いていく。
果たして、いつになったらこの時間は終わってくれるのだろうか。
終わりの見えない無限の地獄に、絶望感が胸に宿る。
いっそのこと早く意識よ途絶えてくれと願いながら、俺は延々と続く苦痛を味わい続けた。
「──!?」
そして、その終わりが突然くる。
「ごぽぉ──!」
とはいえ、別に苦痛の時間が終わってくれたわけではない。
始まったのは水攻め。
ようやく失いそうになった意識を無理矢理呼び起こすかのように、大量の冷水が俺の全身を包み込んだ。
「がぼぼ──!」
周囲から受け取っていた感覚が一気に変わる。
冷水を浴び、飲み込み、内外ともに体が急速に冷えていく。おかげで痛みは多少マシにはなったが、代わりに酸素と体温を奪われ、また別の苦しみに襲われた。
目が開けられない、息が出来ない、何もかもが分からない。死ぬ。
呼び起こされた意識が再び強制的に遠のいていくのを感じながら、滝の中にいるような急激な水の流れに身を任せていると、
ドバァン!
と、今度は水中から飛び出し、
「いーひっひっひ」
「どわぁ──!?」
そのままの勢いで、俺は固い地面に投げ出された。
「がっ、あぁぁぁ!! ──ごほっ! げはっ! おっ、おぇぇ!!」
投げ出された拍子に背中を強く打ち、血混じりの冷水が口から溢れ出してくる。
あんなにも死んでしまいたいと思っていたはずなのに体は正直で、失った酸素を求めるよう勝手に口が大きく開き、大量の空気を吸い込んだ。
「──はぁぁぁぁぁ! げほっ、ごほっ!」
全力で呼吸をしたせいか、肺が酷く痛んで苦しい。飲み込んでしまった水が気管に入り、激しく咽る。
「げほっ、げほっ──はぁ! はぁ!」
そのおかげで遠のいていたはずの意識もまた舞い戻ってきてしまった。頑丈過ぎる体のせいか、気絶することすら出来ないのが辛いところだ。
「ひひひ」
必死に呼吸を整えている内にも、ずるずると極太の尾を引きながらラミアがこちらに近づいてくる。
ようやくのことで地上に出られ、ラミアの絡みつきから解放されたというのに……状況は何一つとして好転していない。苦しい時間は続く。
「──くっ!」
俺は懸命に歯を食い縛り、ニヤニヤと醜悪な笑みを浮かべるラミアを睨みつけた。
『絶望感に表情を歪める』
それだけは、コイツの前で絶対にしたくない。
沸々と湧き上がる感情を一切抑えることなく、怒りで痛みと絶望感を塗り潰す。それだけが、今の俺に出来る精一杯の抵抗だった。
無様に倒れ伏したまま、戦意を爆発させる。
「まな板の鯉になったのはどんな気分だい、憤怒の餓鬼ぃ?」
「うるせぇ……くせぇ息吐きながら近づいてくんじゃねぇよ、化物が──!」
直後、丸太のような蛇の尾が俺の体に振り下ろされた。
当然のように俺の言葉は最後まで続かず、強制的に打ち切られる。
「ああああああああ!」
「いひひひ、いい声で鳴くじゃあないかぁ、憤怒の餓鬼ぃ。減らず口を叩くよりも、そっちの方がよっぽど身の丈にあってるんじゃあないかぁい? んんー?」
「ぐっ──! ふぅ、ふぅ……!」
クッソ、マジで痛みで気がどうにかなっちまいそうだ。
全身の骨が粉々に砕けたかのよう激痛に、頭の中が怒りで支配される。
「てめぇ……絶対にぶっ殺してやる……!」
だからこそ、そう叫ばずにはいられない。
戦力差は圧倒的だというのに、やはりラミアに対する殺意で胸の内はいっぱいだった。
殺す殺す殺す。絶対にぶっ殺してやる──!
そんな変わらない俺に対して、やはりラミアも余裕の笑みを崩す様子はない。
「ひひひ、どうやら本当に自分の置かれてる立場が理解出来てないようだねぇ……。でもまぁ、活きの良い肉は嫌いじゃないよぉ……。そろそろ、解体を始めることにしようかねぇ?」
そう言って、振り上げられるラミアの右腕。
その腕の先端にある爪は、まるで刃のように鋭く光っていて、
「──っ!」
俺は跳ねるように飛び起き、唯一自由な足を使って転がるようにしてそれを回避した。
ザシュッ!!
直後、俺の寝ていた場所に三本の爪痕が刻まれる。
回避できたのはまさに奇跡以外の何ものでもなく、一瞬でも行動が遅れていれば俺の体は間違いなく三等分に解体されていたことだろう。
ギリギリだった。
生にしがみつく本能が生み出した、奇跡の瞬間だった。
「おいおい」
だけど、そんな奇跡を起こしてもホッしている余裕は少しもない。息つく暇もなく、次なる鋭爪が振り下ろされる。
「避けるんじゃあないよぉ、アタイの爪が傷んじまうだろーがよぉ!」
「ぐっ!」
幸いにも単調な動きしか出来ないのか、体勢さえ整えれば回避するのも難しくはない攻撃だった。
環の剣術に慣れている俺からすれば、真っすぐに振り下ろすしか能のない鋭爪を見切るのは簡単だ。
冷静な頭で相手の動きを把握し、足のステップだけで次々に振り下ろされる爪を回避していく。
わざわざ奇跡を起こす必要はない。ただひたすら、同じことを繰り返す。少しでも奴の思い通りにいかないことが出来たのなら上々だ。
「はぁ、はぁ……」
「ちっ」
このまま回避を続けてラミアの爪を無効化してやろうとも考えたが、流石にかすりもしなければ奴も業を煮やすのか、苛立たし気に舌打ちし、鋭爪による攻撃の手を止めた。
俺も相手の様子を窺いながら動きを止め、乱れ始めた呼吸を整える。
回避し続けられているとはいえ、これがいつまでも続けられる訳じゃない。血の糸による拘束のせいで両腕は不自由なままだし、何よりもここに来るまでに許容できない程のダメージを受けてきた。
大したことのない動きでも、体力の限界は早くに来る。
悠長にしていられる余裕は少しもない。
「はぁ、はぁ」
敵を視る。奴の行動パターンを脳内に描き出す。
考える、考える。
疲れ切った脳を酷使して、思考を回す。
どうやったら奴に一矢報いることが出来るのか、どうやったら奴の喉笛を噛みちぎることが出来るのか。
考える、考える。
全神経を目に集中させて、どんな攻撃を仕掛けてきても即座に対応出来るように、
考える、考える。
鋭爪による斬撃を避けるため、毒液による攻撃を避けるため、しっかりと相手を視て、すぐに動けるよう強張りそうになる体から少しでも力を抜いて、
「もう少し痛めつけておくか」
考える、かんがえ──
ぼこっ。
──てる途中で、下から妙な音が聞こえてきた。
相手の動きに警戒しつつも、下に目を向ける。
奴に動きはない。油断せず、最大限の警戒をしていた。
そのつもりだった。
「──あっ」
きっと敗因があるとすれば、俺の間抜けすぎる『油断』が原因だろう。
俺は全神経を集中させて、半人半蛇の人間部分にだけ注目していた。
微かに聞こえる音を無視して、蛇の尾の先がどこに消えたのかにも気づかずに。
──やばっ。
「にぃぃぃ」と、ラミアが醜悪な笑みを浮かべたのが分かった。
舗装された地面から、小さな突起物が出ている。
タケノコのように出ているそれは、間違いなく奴の尾の先端部分で。
──次の瞬間、
ドゴォォォォォォォォォン!!!!
という凄まじい轟音を上げて、蛇の尾の先端が俺の腹部に突き刺さった。
「が──あぁっ!!??」
超高速で伸びてきたラミアの尾。極太の尾が高速で伸びてくれば人間の体など容易くぶっ飛ばせるというもので、俺の体は軽々と地面から離れ、そのまま弾丸のような速度で後ろへと吹っ飛んでいった。
「あっ、あぁぁ!!」
後ろへ、後ろへ、飛んでいく。
背後の木々をなぎ倒し、一度地面にバウンドしてもなお止まることなく、後ろへ後ろへと飛んでいく。
熊谷の魔力が練り込まれた糸のおかげで胴体への貫通は免れたものの、内臓へのダメージは凄まじい。肺に溜まった空気と一緒に大量の血を噴き出しながら、俺の体はぐんぐん後ろへ飛んでいった。
「うぁ──」
ようやく勢いが収まったのは、数えて五本の樹木をなぎ倒し、六本目の木にぶち当たったところ。
沢山の植物が生い茂り、森のようになっていたはずの緑は見るも無残な姿となり、俺の体が通った部分だけ、トンネルが開通したかのようにぽっかり穴を開けている。
おかげで視界は良好だ。
勝ち誇ったラミアの表情が腹立たしいほどによく見える。
「ひひひ」
「う……うぅ……」
全身の骨が粉々に砕けたかのような凄まじい激痛。辛うじて生きているのが不思議なくらいに体は内外共にボロボロで、ダラダラと口から零れ落ちる血は止まることを知らない。
立ち上がることは不可能。指をピクリと動かすことすら難しく、今は掠れた呼吸をするので精一杯だった。
「こひゅー、こひゅー………」
まもなく、俺は死ぬ。
間違いなく死ぬ。
だんだんと意識が遠のき、体が熱を失っていくのを感じる。似たような感覚は過去に何度も経験してきた。
だからこそ分かる。
ゆっくりと死に近づいていく、冷たい感覚を。
慣れることのない、嫌な感覚を。
「……く……そ」
でも、何故かいつもと違って、恐怖心だけが全く湧いてこなかった。
代わりに湧いてきたのは、煮えたぎるほどの怒りの感情。
俺をこんな目に合わせたラミアをぶっ殺してやりたいという、憤怒の激情だ。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す──!!!
殺意が脳を支配する。
指一本動かせないはずなのに、呼吸をするのだけで精一杯なはずのに、肉体の損傷を無視して、脳が奴を殺せと命令してくる。
「ふぅ……! ふぅ……!」
もちろん立ち上がる力は残っちゃいない。戦うなんてもってのほかで、俺の命が尽きることも絶対に変わらない。
「それじゃあ、改めて解体するとしようかねぇ」
ゆっくりと近づいてきたラミアが、高々と鋭い爪を掲げる。
万に一つも勝ちの見込めない、絶体絶命な状況。
「────」
こ ろ し て や る
「──ひっ」
それでも、俺は恐怖に汚染されることなくただ純粋な怒りだけの力で眼球を動かし、ラミアを睨み上げた。
一瞬だけ、ラミアの表情が恐怖に歪む。
硬直する半人半蛇の怪物。
ざまぁみろ。
別に期待していた訳でも狙っていた訳でもなかったが……結果として──それが奴の致命的な隙となった。
「──ッ!!」
「──ぐっ、ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
音もなく現れた悪魔の手によって、掲げていたラミアの右腕が紅刃によって斬り飛ばされる。
突如発生した強烈な痛みに、これでもかと叫び声を上げるラミア。
そして……動けない俺を護るように、悪魔が翼を広げ舞い降りた。
「上月君、生きてる!?」
「…………」
その素晴らしい光景を最後に、俺の意識は完全に闇へと落ちた。




