普通に危ないので駆け込み乗車はおやめください
熊谷と約束し、どうにかこうにかして迎えた土曜日。
学校近くの駅前にて、俺は一人熊谷の到着を待っていた。
「ふわぁ~……さむ」
寝不足と疲れが祟ってか、無限の様に欠伸が出てくる。最近は日の出も随分と早くなったものだが、それでもまだこの時間帯は肌寒く、じっとその場に突っ立っているだけで凄まじい勢いで体が冷えていった。
眠気覚ましに近くの自販機で缶コーヒーを購入したが失敗だったのかもしれない。五月も下旬を迎えれば自販機の中からあったか~いドリンクは完全に消滅するというもので、つめた~い缶コーヒーが空きっ腹の胃袋を容赦なく冷ましていく。
おかげで眠気は多少はマシにはなったが、代わりに外側からも内側からも冷やされるという苦行を強いられることとなってしまった。
待ち合わせの時間まであと十分。
これ以上体を冷やさないようにするためにも、軽い運動をして待たせてもらうことにする。
「ふん! ふん!」
結果、早朝の駅前にて一人ふんふん言いながらスクワットをする不審者の画が完成してしまったわけだが、風邪をひかないようにするためにもこうして筋トレをして体を温めるほかないので仕方がない。
あまり長時間スクワットをし続けるとそこら辺を散歩してる老人にうっかり通報されかねないので、熊谷の早めの到着を切に願うばかりだ。
というわけで、ただいまの時刻は朝の五時半。
絶対に誰にもバレてはいけないということはもちろん当日にも適応されるわけで、人目を憚るためにも早朝のこんな時間にしたという訳である。
この数日間、本当に苦労した。
一緒に暮らしている天童や、嘘を見破る環や、ストーカースキルの高い剣崎妹にデートのことを隠すのは困難を極めた。
バレそうになった時など数えきれない程にある。その度に不審な目を向けられ非常に焦りもしたが、こうして無事に当日を迎えられたということは、なんだかんだで上手く隠し通すことができたということだろう。
良かった。本当に良かった。
今朝も早朝の玄関で電気も点けずに佇んでいる天童と遭遇した時は流石にちびりそうになるくらいビビったものだが、咄嗟に吐いた嘘が功を奏したようで、一言二言会話をしただけで、なんだかんだ普通に外に出してくれた。
結局、どうして天童が玄関にいたのかは恐ろしすぎて理由を聞けなかったが……まぁ、おそらくきっと配達員さんが新聞を持ってきてくれるのを今か今かと心待ちにしていたのだろう。
たぶんきっとほぼ間違いなく限りなく100%に近い確率でそうに違いない。
「わんわんわん!」
「は? ぐはっ!?」
なんて、そんな風に不安をかき消すよう熱心にスクワットに集中していたのがいけなかったのか、俺は背後から突然現れた犬に気づかず思いっきり突進され、転倒させられたのち、無様に晒す無防備な尻をがぶりと噛まれてしまった。
「ばうばう!」
「痛い痛い痛い!? な、なんだこいつ!? ちょ、それはまずい! やめろ!」
獰猛な犬だった。俺の尻に鋭い牙を突き立て、食いちぎらん勢いで首をブンブン振り回してくる。
そのおかげでズボンが思いっ切りズリおろされるが、俺は全力を持っておろされかけたズボンを引き戻し、ガブガブと噛みつく犬を引きはがそうと必死になって手を伸ばした。
「くそっ、全然離れねぇ!」
しかし、必死なのは犬も同様なのか、引きはがそうとしても全然離れちゃくれない。
ものすごい顎力だ。尻の筋肉を締めてなんとか捕食されないよう頑張っているが、それも時間の問題のように思える。俺の尻がそんなにご馳走に見えるのか、犬は前足も使って強い抵抗を見せた。
「こ、このクソ犬!」
あまりにも離れてくれないものだから、いっそのこと脱糞でもしてこの犬の鼻を潰してやろうかなと、そんな後先考えない恐ろしい手段が脳内に浮かんでくると、
「ごめーん上月君、待ったー?」
犬が突進してきたであろう方角から、熊谷ののんびりとした声が聞こえてきた。
釣られて顔を上げて見てみると、デート用の服装なのか、心なしかいつもよりもお洒落な恰好をした熊谷の姿が視界に収まる。
「く、熊谷!」
彼女がこちらに向かって歩いて来るのを見て、慌てて助けを求める俺。
「ふわぁ」
しかし、その足取りは悠長なもの。絶対に俺が酷い目に合っていることはわかってるはずなのに、急ぐ様子がまるでない。むしろそのまま食われてしまえという気概さえ感じた。
「た、頼む! 助けてくれっ!」
「はいはい、ちょっと待っててねー」
気持ち声を荒げてみるも効果はもちろんない。熊谷は眠そうな眼で返事をするばかりで、変わらないゆっくりとした歩きを続けていた。こ、この野郎──!
「おまたせー」
それから二十秒ほどたーっぷりと時間をかけて、ようやく熊谷が俺のもとへと辿り着く。
熊谷はゆっくりとした動きで犬の胴体を掴み、優しい口調で命令をくだした。
「はーいココア、ストップ。それ以上嚙み続けたら不審者の汚い血で口が汚れるから、そこまでね」
「わん!」
誰が不審者だ誰が!
と、文句を言いたいところだが、ぶっちゃけ俺もさっきまでは自分のことを不審者だと思っていたから、それは咄嗟に出かかった言葉をグッと飲み込んで耐えた。
俺の尻に噛みついていた犬はどうやら以前も俺に噛みついてきた犬と同じようで、しかしあの頃と比べてしっかりと調教が済んでいるのか、前と違って特に苦労することもなく、あっさりと彼女の命令一つで離れてくれた。
「…………」
解放されたのは嬉しいが、こうもあっさりと離れてくれると、必死になって抵抗していた今までの時間はいったい何だったんだと思いたくもなる。言葉による命令一つで離れてくれるのなら、もっと早くに助けられなかったのだろうか。
「ごめんね、上月君」
そんな不満な表情が表に出すぎてしまっていたのか、気づけば熊谷は俺の文句を封殺するよう言葉を並べていた。
「でもこの子、不審者を見かけたら思いっきり噛みつくよう躾けてあるから、怒らないであげてね。悪いのは勘違いされるようなことしてた上月君だから。警察に通報されないだけありがたいと思って」
「お、おう」
そう言われてしまっては文句など言えるはずがない。
どう考えても悪いのは早朝の駅前で不審者ムーブをしていた俺の方であり、思いっきり噛みついてきた犬はむしろ称賛されるべきだ。
ごめんね、デート前に変な行動してて。でもそれはそうと歩いてくる間に止められることも出来たんじゃないかな?
「あいたた……」
そう思いつつも、何も言わずにゆっくりと立ち上げる。警察に通報されないことに深く感謝しながら、俺はココアちゃんに噛まれた尻のコンディションをチェックした。
「うーわ、どうしようこれ」
とりあえず尻の筋肉を強く締めていたおかげで出血は少量で済んでいる。が、問題なのは履いているズボンの方だ。
鋭い牙に貫かれたため、所々に穴が開いている。
見えてはいけないところが、完全に露出していた。
「…………」
仮にもこれからデートだというのに、これはどうしたものだろうか。
できることなら家に帰って着替えたいところなのだが、絶対に誰にもバレてはいけないという理由からそれも出来ない。この状況で家に帰ったら天童に何を言われるか分かったもんじゃないからな。
「よーしよしよし、いい子だねぇ。…………上着を脱いでそれを腰に巻けばいいだけでしょ。早く隠してよ、露出狂なの?」
「あっ、はい、ごめんなさい」
ココアちゃんを愛でているかと思いきや、突然聞こえてきた極寒の声にゾクリと俺の背筋が震え上がる。
今まで見たこともないような冷徹な目を向けられて、俺は考えるよりも先につい反射的に謝ってしまった。どうやら熊谷さんは、俺の汚い尻を見たせいで酷くご立腹な様子。挽回不可能なほどの強い怒りを彼女から感じる。
うわぁ……そんな顔も出来たんですね、熊谷さん。もうデートとかそんな雰囲気じゃないから、帰っていいですかね?
そう思いながらも、いそいそと上着を脱いで腰に巻きつける。俺の足はすでに自宅の方へと向いていた。
「さてと」
「──!?」
ゆっくりと立ち上がっただけの熊谷に、いちいちビビる俺。この前は否定したが、思ったよりも自分がビビりであったことを今の瞬間思い知らされた。今ならビビり1グランプリで優勝できる自信がある。なんなら圧勝できるまである。
熊谷の一挙手一投足に注意を払いながら、最大限の警戒をする俺。
これからどんな罵詈雑言を浴びせられるのか身構える俺に、しかし熊谷の見せた表情は意外や意外、親しい友人に向けるかのような笑顔だった。
「それじゃあ気を取り直して──本格的にデートを始めようか、上月君?」
「は、はい?」
仕切り直すように一度柏手を打ち、まるで何事もなかったことのように話を進める熊谷。先程とは違う急激な変化に対応出来ず、俺の情緒は不安定となる。女心と秋の空は変わりやすいとよく言うが、それにしたって変わりすぎだと思う。グラ〇ドラインだってもう少し天候の変化には予兆を見せてくれるだろうに。
「おはよう上月君。遅くなってごめんね、待った?」
「…………。あ、あぁ」
しかし、俺の動揺などお構いなしに熊谷は話を続ける。先程も聞いたような文言に戸惑いを覚えながらも、とりあえずいった感じで俺も今の状況に合わせるよう返事をした。
「まぁ、だいたい三十分くらいかな。え、えーと、とりあえずこれからどうするんだ? 帰るのか?」
そんな俺の発言に、熊谷は「はい、ぶぶー」と言いながら手でバツ印を作った。早朝ということもあってか、気持ち声量は控えめだ。
「上月君減点10000点。デート失敗です」
「わん!」
「もうなんなんだよもう……」
よくわからないが、なんかものすごい勢いで減点されてしまった。笑顔を見せられてからの突然のデート失敗宣言に俺は頭を抱えざるをえない。
女心難しすぎんだろ……。つーか初手減点10000点ってどうなの? 採点基準知らないから、挽回可能なのかどうかも分かんないんだけど?
とりあえず、開口一番で大失態を犯してしまったのは間違いない。俺は頭を抱えながら、ぷんぷんと怒る熊谷のお説教を聞いた。
「もうほんと何にもわかってないなぁ上月君は。こんなの基本中の基本だよ? 女の子が遅れてやってきた時はね、男の子は『ううん、今来たところだから全然待ってないよ? 早く行こ。あっ、言うの忘れてたけど、今日の服可愛いね。ふふっ、いつも可愛いけど、今日は一段と可愛く見えるよ』って言うもんなんだよ! 爽やか風のイケボで!」
「気持ちわる……。てゆーか最後のは絶対に声優じゃなきゃ無理だろ……」
熊谷はいったい俺に何を期待していたのだろうか。
仮に今言われたことを実際に言ったとして、その結果どれだけの高得点が期待できるというのだろう?
何よりも一番分からないのが爽やか風のイケボってところだ。声優の養成所にも通ってないど素人な俺では、その声を出すためにはどんな発声をすればいいのかいまいちよく分からない。
てゆーかそもそも声質ってそんなに重要なものなの? もしかして熊谷さん、乙女ゲーのやりすぎで頭バグってんじゃないんですか?
「逆に聞くけど、お前俺にそんなこと言われて本当に嬉しいのか? 可愛いを連呼する俺なんてキモイだけだろ」
俺が本心のままそう指摘すると、熊谷は力強く「そりゃそうだよ!」と肯定してきた。なんで肯定すんだよ、否定しろよ。
「私なら普通に吐くけど、実ちゃんならそれでも発狂するくらい喜んでくれるだろうなぁって話。私なら気持ちわる過ぎて絶対に吐くけどね!」
「二回も言わなくていい」
ご丁寧に絶対と断言されてしまった。どうやら俺のイケメンムーブは剣崎妹でなければ絶対に吐いてしまう程の恐ろしい効力を持つらしい。
良かった、正解を引き当てなくて。駅前の路上が未だ清潔なままでいられたことを誇らしく思う。
「まぁそれは置いといて……その恰好は何なの、舐めてんの?」
熊谷は今の話を丸ごとなかったことにして、じろりと俺の全身を舐め回すよう視線を這わせた。どうやら減点要素は行動や発言だけでなく、服装のことも含まれていたらしい。
「これからデートに行くって言ってんじゃん。なのになんで上下ジャージ姿なのよ? 上月君の考えてるデートプランって、もしかして私と一緒にエロ本を探しに行くことなの?」
「そんなわけねぇだろ!」
上下ジャージ姿なのは流石に悪かったと思うが、だとしてもエロ本を探しに行くは勘違いが酷すぎる。どうせ勘違いされるのなら、せめてランニングするつもりなのかと言って欲しかったものだ。早朝のおかげで周りに人がいなかったことを、幸運に思う。
てゆーかあの日、熊谷ってばやっぱり俺の持ってたゴミ袋の中身しっかりと見てたんだな。あの時は『ゴミ拾いしてて偉いね』的なことを言って褒めてくれてたのに、内心では『どスケベ変態野郎だなコイツ』って思ってたのかよ……。
女の子怖い……。畜生、あの時の俺のドキドキを返せ!
「しょ、しょうがないだろ! 天童を誤魔化すためにも、この恰好しかなかったんだよ!」
エロ本を探しに行くと勘違いされたままでは心外なので、全力で言い訳をさせてもらう。
まともな恰好で外に出たらすぐにデートだということがバレるだろうがとか、この恰好のおかげで上手く天童を騙すことが出来たんだよとか、熱を込めて説明するも、
「ふーん、それにしては全然誤魔化せてないみたいだけどね」
「わんわん!」
「はぁ?」
それは、酷くつまらなさそうな顔で軽く一蹴されてしまった。
熊谷はちらと俺の背後を一瞥してから、呆れたような溜息をついて、
「まぁ、だから今日はココアを連れてきたんだけどね」
と言いながら、何を血迷ったのか突然ココアちゃんに繋がっているリードを取り外した。
「お、おい何やってんだよお前」
ドッグランでもない場所でいきなりリードを外して大丈夫なのかと思ったが、しかしココアちゃんへの躾けはきちんとなされているのか、リードを外し終えてもなおココアちゃんは尻尾をブンブン振りながらその場で待機している。
賢い犬だなぁと素直に俺が関心していると、熊谷はココアちゃんの目の前に人差し指を立てて見せ、ほんの少しの間を置いたのち、指先を先程一瞥していた曲がり角の方へ素早く向けた。
「ココア、ゴー!」
「わん!」
次の瞬間、指示を受けたココアちゃんが勢いよく走りだす。
小型ながらも獲物を追いつめる猟犬のようなスピードで指示された方角へと一直線に駆け抜け、五秒も満たぬ間に曲がり角を曲がって俺達の前から姿を消すと、
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
直後、女の子の悲鳴が聞こえてきた。
「???????」
「よし、じゃあ行こうか!」
頭の中を?マークで埋め尽くす俺の手を熊谷がガシッと掴んでくる。そしてそのまま逃げるように走り出し、俺を駅のホームへと連れて行った。
「いや、何がよしなんだよ!? なんか断末魔の叫びっぽいのが聞こえたぞ!」
駅構内を走るにつれ、だんだんと俺の思考も冷静になっていく。何が起きたのかを理解していくにつれ、俺の心配事は激増していった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁこっちこないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!! いやぁぁぁぁぁぁぁ誰か助けてぇぇぇぇぇぇ!!!」
全速力で逃げているのか悲鳴が凄まじい勢いで遠ざかっていくのが分かる。それでもまだハッキリと天童の絶叫がこの耳に届いてくるのだから、きっとその声量もとんでもないものになっているのだろう。
たぶん今の悲鳴で近隣の住民は全員飛び起きたのではなかろうか。なんなら殺人事件が起きたとでも勘違いされていてもおかしくない。
──あと、これは今考えることじゃないかもしれないけど…………これ、完全に天童にはバレちゃってますよね? どうすんのこれ? 帰ったら俺、殺されちゃったりしない?
「大丈夫! ちゃんとココアには上月君以外の人には噛みつかないよう躾けてあるから! 捕まったとしてもせいぜいぺろぺろされる程度だから! なんの問題もないよ!」
「いや、問題ないって!?」
それのどこら辺に問題がないのかじっくりと話し合いたいところだが、どうするのが正解なのか迷ってるうちにも改札を抜けてホームへと出る。
準備が良いようで、俺の分の切符は昨日のうちにあらかじめ買ってくれていたようだ。
「そんなことよりも早く乗って! 奴が戻ってくる前に逃げるの! もうこの電車に乗っちゃうから!」
「そんなことよりもって──えぇ!?」
あれよあれよという間に、俺達は慌てて停車していた始発電車へと飛び乗った。
ぷしゅーと背後でドアが閉まるのとほぼ同時に、遠くから、
「このクソ悪魔がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 絶対にゆるさなっ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
そんな、天童の怨嗟の叫び声が聞こえたような気がした。




