とある悪魔の事情
『憤怒の魔王が死んだ』
そんな情報が私のもとに舞い込んできたのは、人間界での生活を始めてちょうど一年が過ぎようとしていた、ある春の日のことだった。
「──は?」
意味がわからなかった。最初は冗談かと思った。
憤怒の魔王といえば、魔界の頂点に君臨する最強の悪魔のことだ。
彼の持つ力は絶大で、一度咆哮を上げれば万の軍勢が恐れ慄き、一度黒炎を吐けば国そのものが焦土と化す。千の槍が降ろうとも軽々と弾き返す黒鱗を身に纏い、千里の道も彼の翼の前では意味を成さない。
敵となることはそれすなわち死を臨むこと。歯向かうものに慈悲はなく、彼の逆鱗に触れた者に決して明日は訪れない。
そんな魔王が──死んだ!?
ありえない…………ありえないありえないありえない!!
震える体に、握っていた手紙がくしゃりと皺を作る。焦燥感が汗となって体内から溢れ出し、自然と呼吸が乱れていくのが気持ち悪いくらいにハッキリと分かった。
頭の中が真っ白になる。喉が酷く乾く。
次の文章を読み進めていくたびに、その症状は悪化していった。
『魔王軍壊滅』『幹部多数死亡』『秩序崩壊』『騒乱激化』『危険』『戻ってこないで』
「戻ってこないでって……なによ」
涙で視界が滲む。沸々と怒りが湧き上がる。
それはふざけたことを言う主に対してか、それともそんな言葉を吐き出させた自身の無力さに対してか──きっと両方だ。
自分が今一番辛いくせに……。
『私は大丈夫』『だから元気で』『優君の助けになってあげて』なんて、私に向けられた手紙はどこまでも優しく、愛に溢れていた。
「──っ!」
だけどそんな言葉の羅列が、今だけは無性に腹が立つ。
「普通はこういう時って、『助けて』って言うんじゃないの──!?」
『帰ってきてくれ』と言って欲しかった。『助けてくれ』と頼って欲しかった。
だというのに、『私は大丈夫』ってなんだ? 『だから元気で』ってなんだ!?
ふざけるなっ! そんな今生の別れみたいな言葉、はいそうですかって素直に受け止められる訳がないでしょ!
「ごめんなさい、アマネ様」
だからこそ、決意する。
あの人の眷属になって初めて、私は彼女の命に背く。
「必ず、あなたを助けに地獄へ戻ります」
思い出すのは初めて出会ったあの日のこと。
地獄の荒野で這いつくばり、孤独なまま死を迎えようとしていた私に差し出してくれた暖かい手。
思い出すのは眷属となって過ごした彼女との日々。
あの人の優しい笑顔。他愛のない会話。たくさんの失敗。たまにする大喧嘩。仲直りしたあとのおいしいご飯。それから……それからそれから──
これからも作っていくはずの、大切な思い出たち。
その全てを、絶対に失わさせたりなんかしない!
「…………上月優」
スマホの画面を開き、静かに呟く。
胸に宿るのは確かな忠誠心。だけど頭の中に思い浮かべるのは、あの人に対する酷い裏切りだ。
私は弱い。
どれだけ覚悟を決めて戻ったとしても、待っているのはきっと、あっさりと殺されてしまうだけの未来だろう。
だからこそ、使えるものは何が何だろうと全て利用しなくてはならない。
例えそれが……私なんかとは違う、彼女と血を分けた本当の子供だったとしても──。




