世界一いらないおすそわけ
ゴーン、ゴーンと、店内に設置された古時計が厳かな音を響かせる。
音の鳴った方に目をやると、古時計の針はちょうど五時を指しているところだった。
「……もうこんな時間か」
マスターの作った料理を食べたのが、確か二時頃だったはず。読書に夢中で全然気づかなかったが、いつの間にか三時間もの時を、俺はこの店で過ごしていたらしい。
窓の外はすっかり茜色に染まっていた。買い物バックを携えた主婦が急ぎ足で帰路についている。
店内を見渡してみても、マスターが暇そうに新聞を読んでいるばかりで俺以外の客の姿は見当たらない。ついで言うと、バイト中であるはずの環の姿までもが見当たらなかった。
代わりに、厨房から何かを揚げているような音が聞こえてくる。もしかしたら今日の夕飯は環が担当しているのかもしれない。
「……俺も早く帰ろ」
環の料理する音を聞いて、俺はすぐに帰ることに決めた。
開けたページに栞を挟み、文庫本を鞄の中に放り込む。それから伝票を持って立ち上がる。
金もない癖にいつまでも居座り続けるのは迷惑な客以外の何ものでもないだろう。
きっとマスターや環も俺に早く帰ってほしいと思っているに違いない。
そう信じて、俺はいそいそとした足取りでレジへと向かった。
「おや、もう帰るのかい? まだ閉店まで時間があるんだから、もう少しだけでもゆっくりしていけばいいに」
しかし、呼び止められる。
新聞からひょっこり顔を覗かせるマスターが少しだけ残念そうにしているように見えるのは、果たして俺の気のせいだろうか。
「いえ、流石にそういう訳には。晩御飯の支度とかもありますし」
ゆっくりしていけというマスターの言葉は、とても優しくて温かいものだと思う。が、そんなことでいちいち流されていては、いつまで経っても帰ることは出来ない。
こういうことはきっぱりと断ってしまった方が良いのだ。ズルズル引っ張るだけ、時間の無駄である。
「うちで食べていけばいいじゃないか」
ほら見たことか、もたもたしているうちに手首をギュッと掴まれてしまった。
「あんな大きな家で一人暮らしをしているんだ。食事をとるのも何かと寂しいだろう」
「ははは、そうかもしれないですね」
確かにマスターの言う通り、あの無駄に広い家で一人食事をとるのはかなり寂しい。
二人でも十分に持て余すというのに、一年前に母さんが俺を置いて天界へ帰ってしまってからは更に持て余すようになった。
詳しくは知らないが、俺の母さんは天使の中でも結構なお偉いさんとのこと。
だからこそ金があり、あんな大きな家を買えた訳なのだが、完全に失敗だったのは間違いないように思う。
なにせ掃除をするだけで一日が終わるからな。二人暮らしに向いていなかったことだけは明らかだろう。一人暮らしなんてもっての外だ。
そんな事情を知っているからこそ、マスターも俺と一緒に食事をとろうと提案してきたのと思う。
いらぬ心配だ。俺はマスターに余計な気遣いをさせまいと、努めて明るく微笑み返した。
「大丈夫ですよマスター。俺、一人大好きですから」
俺の明るい声を聞いて何を思ったのか、マスターは神妙な面持ちで首を横に振る。
「優君、そんな無理に嘘を吐かなくて良いんだよ。ちゃんと僕は分かってるからね」
「いや、何一つとして嘘は吐いてなんですが」
俺と同じように、マスターも優しく微笑み返してきた。
「寂しいときは、寂しいと言えば良いんだよ」
「寂しくなんかないんで大丈夫です」
「今日は環もいることだし、久しぶりに三人で食卓を囲もうじゃないか」
「いや、俺はもうホント一人でも大丈夫なんで、帰ります」
「まぁまぁそう言わずに、ほんの一口だけでもいいからさ」
「…………」
どうしよう、全然話を聞いてくれないゾ☆
このままだといつまで経っても帰れそうになかったので、なかなか折れてくれないマスターに、俺は心を鬼にして、ハッキリと言ってやることに決めた。
「てゆーか、どうせ環の作った料理を俺の皿に移して回避するのが目的なんでしょ? 嫌ですよ俺、また泡吹いて倒れるの」
「…………」
「──いたっ!」
図星だったためか、俺の手首を掴む手にグッと力が込められる。
絶対に逃がさないという、強い意志を感じた。
「それなら心配しなくても大丈夫だよ優君。そういう時にはまた、ちゃーんと救急車を呼んであげるから」
「いや救急車呼んじゃってる時点で大丈夫じゃないでしょ」
やはりマスターは環の料理を俺に食べさせることが目的だったようだ。それを理解して、額から冷や汗がたらりと落ちる。
一刻も早くお家に帰らなければ!
「あの、本当に結構なんで……放してください、お願いします。その、一生のお願いですから」
「いーやダメだね。君の一生のお願いは、もう5回は叶えたあげた」
「5回も叶えてくれたのなら、もう100回も200回も変わらないじゃないですか」
「それは流石に暴論が過ぎるだろう。君は一体これから何回僕に一生のお願いを使うつもりだい?」
「目標はでっかく、3000回くらいですかね」
「その目標は絶対に達成できないから今すぐに捨てなさい、一生のお願いだから」
「あ、上月。良かったー、まだいた」
そんな感じでどうにか帰ろうとしている内にも、残念ながらタイムリミットを迎えてしまう。
厨房からエプロンをどろっどろに汚した環が、大きな紙袋を携えて俺達の前に姿を現した。
同時に、俺の手首を掴む手がパッと放される。
マスターは再び新聞に目を落として、何事もなかったかのようにそれを読みだした。どうやらマスターの目的はこれにて無事に達成されたらしい。
環は俺を見つけるなりすぐに近づき「はいこれ、食べて」と言いながら、手に持つ紙袋を差し出してきた。
「えーと、何コレ?」
訊ねると、環は自信満々に胸を張り、得意げに笑う。
「私の作ったこのお店で出そうと思ってる試作品第32号よ。今度は結構上手く出来たと思うから、帰ったら食べて感想ちょうだい」
想像していた通り、やはりこの紙袋の中身は環の手料理だったらしい。
「そうか……ありがとうな、環」
だから俺は礼を言って受け取り、
「すげーマズかったよ。ごちそうさん」
すぐに突き返してやった。
「まだ一口も食べてないでしょうが!」
環から怒鳴り声を受けるが、気にせず突き返してやる。
「いや……だって食べなくてもマズいってことは分かるし」
「そんなの食べてもないうちに決めないでよ! 頑張って作ったんだから、ちゃんと受け取って食べなさい! ボッコボコにするわよ!!」
「えぇ……」
環の料理を食べるのは死ぬほど嫌だが、殴られるのはもっと嫌なので、俺は紙袋を渋々受け取ることに。
嫌だなぁ……あぁ、嫌だなぁ……。
その感情が露骨に表れていたせいか、環は頬をプクーッと膨らませて、ぷんすかぷんぷん文句を言ってきた。
「そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃない! しょうがないでしょ、アンタが来た時でしか私厨房を使わせてもらえないんだから!」
そりゃあまぁ、そうだろうなとは思う。
環の料理下手は、決してドジっ子で片付けていいレベルではない。
具体的に言うと、めちゃくちゃ美味しいからってだけの理由でベニテングダケを使用してくるような、頭おかレベルで危険なのだ。
うっかりで殺人事件に発展しちゃうような危険人物。禁止されて当然である。
ホント未来永劫、料理とかしないでほしい……。
「いつも私に迷惑かけてるんだから、こういう時くらいは役に立ちなさいよ、バカ」
「俺としてはお前の方が俺に迷惑かけてるような気がするんだけどなぁ……というかマスター、俺が来た時だけって、どういうことですか?」
俺が顔を向けると、マスターは申し訳なさそうに俯き、バツが悪そうに目を逸らしてきた。
「ごめんね優君。僕もこの歳になるとだんだんと体の不調も増えてきてね……お酒や煙草は大丈夫なんだけど、環の料理だけは食べちゃダメって医者に止められてるんだ」
「それはまた随分とピンポイントなドクターストップですね」
そんな都合の良い話がある訳ないと、俺がマスターにジト目を送っていると、隣に立つ環はやれやれといった感じで残念そうに肩を竦めていた。
「まぁ私の作る料理はどちらかと言うと若者向けだからね、仕方ないわ」
「なんでお前はそれで納得してんだよ」
今の絶対に環の料理を食べないための方便だろ。
そうでなくても、コイツは自分の作った料理が医者に酒や煙草以上の危険物と扱いとして認定されていることに気づいていないのだろうか? 今の怒るところだったと思うよ、絶対。
あとお前の作る料理は若者向けとかじゃなくて全年齢対象でダメだからな。二度と誰かに向けて料理なんかしないでほしい。
「とにかくそういう訳だから、ちゃんと最後まで残さず食べてよね!」
「…………」
結局無理矢理押し付けられて、俺は環の作った料理を食べるハメになってしまった。
ずっしりと重い紙袋を手に取って、気分は最底辺まで落ち込む。
更にはとぼとぼとした足取りで帰ろうとするとこと、ダメ押しで最後にこんな理不尽なことまで言い渡されてしまった。
「分かってると思うけど、捨てたりなんかしたら出禁だから!」
いや、ペナルティおっもぉ…………。