上月優の静かで平穏な生活
春はあけぼの。
千年前に清少納言が残した言葉をぼんやりと思い返しながら、俺は重い足取りでダラダラと学校へ向かっていた。
眠い。とにかく眠い。春のぽかぽかで優しい朝日が、強烈な睡魔を呼び寄せる。
春は明け方が一番美しい光景を拝めるという話らしいが、それを見られる日は一生来ないんだろうなと本能で理解して、俺は大きな欠伸を吐き出した。
名残惜しくも春休みは終わりを告げ、始業式。俺は高校二年生へと進級を遂げていた。
とはいえ、特別何かが変わるというわけでもない。
唯一変化があるとすればクラス替えくらいのものだが、仲の良い友達のいない俺からすれば、そんなものは微々たる変化に過ぎない。
例えクラスメイトが誰であろうとも、一人寂しく送る灰色の青春は、何一つとして変わらないのだ。
だからこそ、学校へと向かう俺の足取りが弾むことは、絶対にありえない。
ガララと引き戸を開け教室に入ると、すでにほとんどのクラスメイト達が登校していた。
クラス替え、春休み明けということもあってか、普段よりも少々賑やかしい。誰々と同じクラスになれたとか、春休み中は何してただとか、そんな話題で持ちきりだ。
どうでもいい。
特に興味はないので、誰と言葉を交わすこともなく、静かに教室内を突っ切っていく。
目標は黒板に張り出されている座席表ただ一つ。それ以外のものには目もくれない。
途中で何人かの生徒がチラと俺の方に視線を向けてきたが、気にする必要もない。
視線を向けた奴も、相手が俺だったことを認識するなりすぐに正面の友達へと向き直り、会話を再開させている。
このように、彼らにとって俺の存在はそこら辺にいる虫ケラに等しい。
いてもいなくてもどっちでもいいんだけど、できれば駆除しておきたいなーと思うよな、そんな存在。
挨拶されることなんてまずないし、それどころか人として認識されているかどうかも怪しいレベル。
見ようによってはこれをイジメだと感じてしまう人も多いかもしれないが、しかしぼっち歴の長い俺からすれば、これはむしろありがたい対応であった。
誰かと会話をしなければいけないという環境は、俺にとって苦痛以外の何ものでもない。話しかけられたところで大抵の場合は怒られてしまうか、気持ち悪がられてしまうかのどちらかで終わるからだ。
絶望的に、コミュニケーション能力がないのである。
それを知っているクラスメイト達だからこそ、黒板に貼りだされた座席表を確認しにいく俺の足取りはスムーズだった。
障害物がないのだから、確認する作業は一瞬で終わる。それから机のフックに学生鞄を掛けて、着席する。
教卓から四つ、廊下から二つ離れたところにあるのが俺の席だ。
できることなら窓際の一番後ろの席が理想ではあるが、教卓の真ん前に比べれば全然いい方だと思うので、まぁ悪くはないだろう。
「…………」
さて、これからどうしたものか。朝のHRまでは、まだ少しばかりの時間がある。
こういう時ボッチは辛い。目立ちたくはないというのに、何もしていなければしていないで、クラスで浮いてしまうからだ。
基本的にはあまり周囲の視線は気にしないようしている俺だが、クラスメイト達からの奇異な視線はなかなか慣れるようなものではない。特に俺の方を見ながらひそひそ話をしている奴らなんかは、いっそのことぶん殴ってしまいたくなるほどのウザさがある。
「……はぁ」
今年のクラスは、少しだけ面倒臭さそうだなーと感じた。
昨年まではクラスの代弁者かのようにやたらとガミガミ突っかかってくる女がいたが、どうやらそいつも今年は別のクラスにあてがわれてしまったようで、今はいない。
「まさか、あんな奴の存在をありがたく思う日が来るなんてな……」
そんなこと、夢にも思わなかった。
静かなのは良いことだと思わなくもないが、ただその一方で、少しだけ物足りなさを感じてしまっている自分に気づいて、自然と自嘲めいた笑みを浮かべてしまう。
どうやらアイツの存在は、いつの間にか自分が想像していた以上に大きなものとなっていたらしい。
本当に人生とやらは、何が起こるかわからないものである。
「あっ、もう来てたんだ。おはよう、上月君」
なんて、そんなことを考えながらボケーッと無駄に呆けていると、突然後ろからそんな声が聞こえてきた。
「…………」
「おーい、なんで無視するのー? 上月くーん」
「……えっ、俺?」
今、誰か俺の名前を呼んだ?
「そうだよ当たり前でしょ? この教室に上月って苗字の人は、君以外にいないと思うんだけど」
で、ですよね!
驚いた。俺に声をかける奴がいるなんて思ってもみなかったから、本当に驚いた。
教室内で挨拶をされるのなんて、果たして何年ぶりぐらいになるだろうか? 小学生の頃から孤立気味だったから、実に十年ぶりぐらいになるのかもしれない。
クラスメイト達から挨拶をされないことが当たり前だったので、つい反応が遅れてしまった。
「いやー悪い……ちょっとぼーっとしてたか……ら」
声のした方へ振り返ると、俺はさらに驚いた。
目の前に、めちゃくちゃ可愛い女の子がいたからだ。
「ん、どうかした?」
「い、いや……別に……」
セミロングの黒髪ストレート。ギャルとまではいかないまでも、制服は軽く着崩されており、薄めの化粧が施されている。
胸元ではハートのチャームがキラリと光り、しっかりと手入れされているのか、爪先までもが不思議と宝石のように輝いて見えた。
いわゆる、お洒落に余念のない今時の女子高生といった感じなのだろう。
俺みたいな奴に対しても気さくな笑みを向けてくれることに、懐の広さを感じる。
優しくて、それでいて見る者全てを魅了するかのような笑顔は、コミュ障である俺に対しても親しみやすさを感じさせるには十分であった。
なんでこんな可愛い子が、俺みたいな冴えない奴に話しかけてきてんだ?
そう疑問に思ったが、答えはすぐに分かることとなる。
「ふーん、まぁいいや。よいしょっと」
俺に声をかけてきた美少女が、隣の席に腰を下ろしたからだ。
なんてことはない。たまたま隣の席になったから挨拶をした。それだけの話だった。
何も俺が特別だったからという訳ではない。
その証拠に、彼女が通ってきたであろう方角にいる生徒達は皆、幸せそうにぽわぽわとした表情を浮かべていた。
おそらく俺よりも先に彼女から挨拶を受け、そして俺と同じように魅了されてしまったのだろう。
周りの様子をさらに窺ってみると、彼女に羨望の眼差しを向ける者は数多くいた。
人気があるのか男女問わずとてもおモテになるようで、俺みたいな奴に向けられているような視線とはそもそもの質が違っている。
きっと友達も多いに違いない。いわゆる、リア充という奴なのだろう。
……なんだ、じゃあ俺の敵じゃねぇか。
こういう人間とは根本的に住む世界が違う。基本的に会話なんてかみ合うはずがないし、無理にお互い合わせようとしても変な軋轢が生まれるだけだ。ハッキリ言って、声をかけられるだけでいい迷惑。
正直話すだけ時間の無駄なのだが、かといって一度挨拶されてしまった以上、そっけなくし過ぎるのも何かと感じが悪い。
下手に拒絶して彼女を悲しませてしまえば、彼女の友達からはもちろんのこと、友達のそのまた友達からイジメの標的にされるなんてことも容易に起こりうるからだ。
そして仲良くしたらしたらで、後で嫉妬した男子達から校舎裏に呼び出されてしまうこともあるからもう本当に面倒臭い。喧嘩を売られて返り討ちにしてやったら根も葉もない噂を流されたりもするし……いやマジでどうしろってんだよ?
やはり、リア充は俺の敵である。
しかしこのまま黙っていても仕方がないのは確かなこと。リア充相手に上手く会話ができる自信は全くないが、それでもどうにかして相手を努めなければ、待っているのは陰湿なイジメだけだ。
俺は覚悟を決めて、口を開くことにした。
「お、おはよう……えっと……」
しまった! 隣の席の奴なんて誰でもいいと思ってたから、この子の名前まで確認してないぞ!
誰だコイツ!!
「えーっと、どちら様?」
とりあえず向こうは俺の名前を知っているようだし、名前の確認はしておいた方が良いよなーと思い、訊ねてみることに。
「えっ? あ、あはははー」
すると美少女は、なぜか困ったような表情となって曖昧な笑みを浮かべた。
おかしな反応だ。なぜ名前を聞いただけで、そんな困り顔が出てくるのだろうか? 意味が分からない。
「あー、分からないかぁ……。一応、去年も同じクラスだったんだけどねー」
「え?」
おい嘘だろマジかよ!
早くも窮地に陥り、額からダラダラと滝のような汗が流れ落ちる。
全く記憶にないのだが、どうやら俺とこの子は去年も同じクラスに在籍していたらしい。
やっちまった。完全なる失態だ。
俺は慌てて頭を下げた。
「す、すまん!」
リア充のことは大嫌いだが、だからと言って何もしていない彼女を傷つけることは俺の本意ではない。
「俺、人の顔とか覚えるの苦手だからさ、その……別に悪気があったという訳では」
とりあえず謝罪はするが、自分でも下手な言い訳をしているなーという自覚はある。
もちろんこんなことで許してもらえるなんて、俺は露ほども思っちゃいない。
そもそもの話、どれだけ頭を下げて謝ったところで、スクールカースト最底辺である俺を許してくれるリア充なんてどこにもいないのだ。
この世界は、どうしようもなく俺に優しくないのである。小学生の頃からずっとそうだったから、きっと間違いない。
悲しいね。本当に悲しい。悲しいけど、これが人間社会ってやつなのよね。
だから俺は罵倒を浴びせられる覚悟を決めて、顔を上げた。
「ううん、大丈夫! 全然気にしてないから! いやー、こっちこそごめんね」
しかし意外や意外、飛んでくると思っていた罵詈雑言はなく、代わりに美少女は首をぶんぶん振って、申し訳なさそうな表情で謝ってくる。
「いや、なんでお前が謝るんだよ」
どう考えても悪いのは名前を一切憶えていない俺の方だろうに、彼女が謝る理由が思いつかない。
「え? あー、いやー、だって」
自分でもおかしな行動をとっていることに気づいたのか、彼女は誤魔化すように言葉を探して、おろおろと目線を宙に泳がせた。
今だけは、強烈に発せられていたリア充オーラが、少しだけ薄まっているように見える。
「私も春休み前に比べて大分変っちゃったからさー、よくよく考えてみれば、上月君が気づかなくても無理ないと思うんだ。だから、ごめんねー、みたいな? あはははー」
「…………?」
よくわからないが、要するに春休みデビューをしたということなのだろうか?
てっきり彼女は生まれつきのリア充かと思っていたのだが、意外にもこのような見た目になったのは、ごく最近の出来事らしい。
……まぁだからと言って、それで気安く接せられるようになったかと言えば、全然そんなことはない訳だけど。
自分を変えたいという努力が出来る時点で、この子が俺なんかよりも凄い奴であることは間違いない。
気安く接せられるどころか、俺と彼女は住む世界が違うんだなぁと、改めてそう実感させられた。
距離が縮まるどころか、大きく差をつけられてしまったような、そんな気さえする。
「えーと、それじゃあ改めて自己紹介」
俺が密かにそんなことを思っていることなんて露知らず、美少女はそう言って、スッと手を差し伸べてきた。
察するに、どうやら俺と握手をしたいらしい。
「私の名前は熊谷深月。去年も同じクラスだったのに、こうして改めて自己紹介するっていうのもなんか変な感じだけど、今年も同じクラスになれたということで、今度は君とも仲良くしたいからさ、その……また一年間よろしくね、上月君!」
「…………」
「……えーと、上月君?」
恥ずかし気に差し出された手を、しかし俺は素直に握り返すことが出来なかった。
彼女と仲良くするつもりがないから、ではない。
彼女の名前を聞いても、全くと言って良いほどピンと来なかったからである。
「……えーと、どちら様?」
「なんでさっきと同じ反応なの!?」
流石にこれには意表を突かれたのか、熊谷と名乗った美少女は驚き目を見開いていた。
それから戸惑いの色を浮かべながら、問い詰めるようにして勢いよくまくし立てる。
「えっ、嘘!? 一年間同じクラスにいたのに、私名前すら憶えられてなかったの!? 地味にショックなんだけど!」
怒らせた、とまではいかないまでも、それなりに傷つけてしまったことは間違いなさそうなので、俺は再び頭を下げることにした。
「すまん。俺、顔だけじゃなくて人の名前を覚えるのも苦手なんだ。だからお前の名前を聞いても全くと言って良いほどピンと来なかった。きっと純粋に、お前という存在に興味がなかったんだと思う」
「そこまでハッキリ言う必要なくない!?」
俺が素直にそう言い返すと、熊谷の絶叫が教室に響き渡った。
誠心誠意謝罪をしたつもりが逆効果だったようで、熊谷は更にショックを受けた様子だ。
「もう、酷いよ上月君。いくら私でも、興味がないって言われたら傷つくんだよ?」
顔を上げて見ると、熊谷の目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。どうやら今の発言が原因で、彼女を泣かせてしまったらしい。
おっと、これはマズいですね。改めて周囲を確認してみると、奇異な視線がいつの間にか睨みつけるような鋭いものへと変わっている。
今にも机や椅子が飛んできそうな雰囲気で、殺意が俺に向けて集中していた。
流石にヤバそうな空気になってきたので、俺は慌てて彼女に一切の非がないことを説明する。
「だ、大丈夫だ! 安心してほしい! お前だけ特別に興味がなかったんじゃない! 俺に興味がなかったのはクラスメイト全員だ! ホントだぞ? 自慢じゃないが、前のクラスの連中なんて俺は誰一人として覚えちゃいないんだからな!」
「もっと酷いよ! てゆーか本当になんの自慢にもなってないし! なんでそんなこと自信満々に胸を張って語れるの!? 全然誇らしげに語れるような内容じゃないからね、それ!」
しかし、上手くいかない。クラスメイト達の殺意は増すばかりである。
やはり俺にはリア充の相手は難しかったようだ。
「ね、ねぇ上月君、少しだけでもいいからさ、他人にも興味もとうよ。ほら、上月君って結構勉強の成績良かった方じゃない? だったらさ、クラスメイトの名前くらい覚えるの簡単でしょ?」
それでも熊谷はこんな俺を見捨てるつもりはないのか、優し気な表情を浮かながらそんな提案をだしてきた。
凄いなこの子。大抵の人は俺と会話するとすぐに嫌気がさして見切りをつけてしまうのだが、なかなかに諦めの悪い性格をしているようだ。
しかしなぁ……こうして懸命に友達になろうとしてくれることは素直に嬉しいと感じるのだが、それと同時に、そんなこと言われてもなぁと思ってしまっている自分もいる。
俺はやはり、できるだけ一人でいる方が性に合っているのだ。
「いや、クラスメイトの名前なんか覚えるより、英単語の一つでも覚えていた方が絶対に良いだろ」
「良くないよ! いや確かに勉強は大事だと思うけど、それよりも大事なことってあるじゃん!」
それはまぁ、確かにあるんだろうなとは思うけど、
「少なくとも、クラスメイトの名前を覚えることは大事でもなんでもないだろ。だって卒業したら新しい環境に放り込まれて、結局は誰とも関わらなくなるんだぜ? それなのに名前を覚えることが大事って、意味わかんなくね? 絶対に英単語を覚えることの方が大事だろ」
「そ、そんなことないよ!」
熊谷としても少なからずそう思うところがあったのか、意外にも怯んだ様子を見せた。
あれ、これもうひと押しすればいけるんじゃね? とすら思えてくる。
とはいえ、そこは流石のリア充の女の子。頭を抱えながらも、俺を必死に説得しようとする気概は変わらないらしい。
「ね、ねぇ上月君、なんでそんな排他的な思考をしてるの? せめてクラスメイトの名前くらいはちゃんと覚えておこうよ。そんなんじゃ将来、いつか絶対に苦労することになると思うよ? だってほら考えてもみてよ。人ってさ、一人じゃ生きていけないもんじゃない? 上月君も今言った通り、卒業したら新しい環境に放り込まれることは間違いないんだからさ、今のうちに他者との交流を深めていく練習もしておいた方が、将来どんな仕事に就くとしても、絶対に役に立つことになると思うんだよね!」
そう言う熊本に、俺はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「ふふふ、なるほどな。それなら何の問題もない」
「は?」
何の問題もないという俺の発言に、熊本はポカンと口を開けた。
浮かび上がった疑問を解消してやろうと、俺も口を開く。
「なにせ俺は将来、どこにも就職するつもりなんてないからな。一生誰とも仲良くするつもりもないし、誰とも関わるつもりもない。恋愛事にも一切興味はないし、なんなら友達すらいらないまである。要するに、他者との交流を必要としていないんだよ、俺は」
「──は? いや、意味が分からないんだけど」
これだけ説明してもなお分からないと言う熊本に、俺はやれやれと言って肩を竦めた。
「なら話は以上だな。意味が分からないのなら仕方がない。熊本、お前は知らないかもしれないが、この世にはどうしようもなく分かり合えない奴だっているんだよ。自分がコミュ力の高い人間だからって、誰とでも仲良くなれるだなんて思わない方が良いぞ」
「はぁ……。いや、そもそも私、熊本じゃなくて熊谷なんだけど」
言うべきことをちゃんと伝えられたので、俺は机に突っ伏すことに。
「という訳で、俺から言うことはもう何も残っちゃいない。会話はこれにて終了だ熊本。俺はHRが始まるまで寝てるから、それまでは絶対に起こさないでくれよな、熊本。それじゃあな、グッナイ!」
「いやだから私の名前は熊本じゃなくて熊谷だって言ってんじゃん! 『グッナイ!』じゃないよ! 今は朝だし、あと何勝手に人の名前間違えたまま寝ようとしてるの!」
「…………」
「え、嘘でしょ? ちょっと待ってよ上月君! 狸寝入りしてるだけなんでしょ? そうなんでしょ?」
「…………」
「ねぇ待って! まだ寝ないで、お願い待って! 無視しないで起きてよ! 私の話はまだ終わってないんですけど! 私の名前は熊谷なんですけど! ねぇせめて私の名前だけでも覚えてから寝てよ! お願いだから! 一生のお願いだから! 上月くーん!!」
「…………」
こうして今日もまた、俺の静かで平穏な生活は続くのだった。