天童美花の弱点
「はぁ、はぁ……クソっ! どこ行ったんだアイツら!」
天童とシロを探し始めてから一時間弱。夕日が沈み、だんだんと町が薄闇に覆われていく中、俺の体力は限界を迎えようとしていた。
「はぁ、はぁ……」
乱れた息遣いだけが耳に届き、ポタポタと流れ落ちる汗がアスファルトを濡らしていく。
怒りに任せて追いかけてみたのはいいものの、捜索は難航を極めた。探せども探せども一向に見つからない。奴らがいったい何の目的で飛び出して行ったのか、どこへ向かって行ったのか、未だその手がかりすらつかめていない状態だ。
「はぁ、はぁ」
これは、流石に無策が過ぎたかもしれない。
聞き込みをしようにも普通の人間では天使化している奴らの姿が見えないからダメ。スマホを持っている天童に連絡をとろうにもそもそも奴の電話番号を知らないからこれもダメ。
天童の名を大声で叫んでも反応はなく、代わりに不審者を見るような目を町の住人達から向けられて終わった。
完全に手詰まり。手詰まり過ぎて、ちょっと心が折れた。
「……もう、帰ろうかな?」
自然と足が自宅の方へと向いていく。
あんなにも湧き上がっていたはずの怒りはすでに無い。それどころか夕暮れ時の町を全力で走り回り、汗をいっぱいに掻いたことによって何だか気分はスッキリしていた。
非常に癪なことに「もう別にいっかなー」と思ってしまっている自分がいる。帰ったらガラス戸のことなんて忘れて、普通にベッドにダイブしてそのまま爆睡してしまいそうだ。
「……ふぅ、気持ちいい」
走るのをやめてゆっくり歩き出すと、ほんのり冷たい風が火照った体を優しく冷やす。最近の日中は汗ばむ陽気が続いているが、この時間帯の気温は涼しく過ごしやすい。サウナに行った時の外気浴のように、心地良い空気がストレスの溜まった心身をゆるゆるにほぐしてくれた。
「よし、帰ろ」
しっかりとリラックスしてから、帰宅を決意する。
結局あの遠吠えが何だったのかは分からずじまいだが、見たところ町の様子は何も変わらない。シロも天童も見つかる気配すらないし、これ以上の捜索を続けても意味はないだろう。
良い感じに腹も空いてきたことだし、早く帰って飯食って休もーっと吞気に考えていると、
「あっ、やべ。流石に環を一人にしとくのはマズかったか」
アホ女を一人、家に残していることを思い出した。
家を飛び出した時は天童達に対する怒りで頭がいっぱいだったが、冷静になって考えてみるとなかなかに危険なことをしてしまっていることに気づく。
砕けたガラス戸をそのままにしていることもそうだが、それ以上にあの殺人鬼の前に食材を放置してきてしまったことの方が問題だ。
もしかしたら今頃は、環の手によってカレーという名の何かおぞましいものが完成している頃かもしれない。
ペコペコになった胃袋に毒物を放り込む。考えただけで怖気が走った。
「勝手に家のキッチン使ってなきゃいいけど……」
せめて少しでも無事な食材が残っていることを願って、俺が歩く速度を速めると、
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「──!?」
突然、耳をつんざくような少女の悲鳴が河川敷の方から響いてきた。
──まさかっ!?
心臓がドクンと跳ね、一瞬で喉が干上がる。脳裏に描かれるのは一匹の猫による惨劇で、俺は感じていた疲労感も忘れて全力で土手を駆け上がっていた。
やばいやばいやばい!
俺や天童がシロに襲われるのは別に構わない。体が頑丈に作られているし、そもそもこういうことには慣れている。
だけど、一般人はダメだ。特別な教育を受けていない普通の人間では、シロの攻撃に耐えることなんて出来るはずがない。
間に合ってくれ!!
焦燥感が全身を支配する。嫌な想像が頭に浮かんで止まらない。急いでいるのに足は重く、たったの数メートルさえうざったらしい程に長く感じた。
「──!?」
やがて、土手の上に辿り着く。
眼下に広がるのは、俺の想像もしていないような光景だった。
「……何やってんだ、アイツ?」
結論から言うと、襲われている人間はいなかった。いるのは一匹の犬と、一人の天使。それだけだ。
がるると威嚇する野犬の前で、俺ん家のガラス戸を破壊した天童がぺたりと座り込んでいる。
「……はぁ」
その光景を見て、俺はどっと肩から力が抜け落ちた。
見た感じ少女が襲われていることに違いはないが、あそこにいるのはバケモノ並みの怪力を誇る天童だ。野犬に襲われていようが何だろうが、その程度の逆境ならば簡単に跳ねのけてみせるだろう。
必死に土手を駆け上がって損した。
そう思おうとして、
「あれ、じゃあさっきの悲鳴はどこから?」
気づいた。
悲鳴を上げた少女が、どこにもいないということに。
「来ないでぇ!!」
「はぁ!?」
いや、正確にはそれも違う。悲鳴を上げた少女は、初めから俺の目の前にいたのだ。
「うそ、だろ?」
勝手に頭の中からその可能性を除外していた。ありえるはずがないと、考えるまでもなく決めつけていた。
だけど、違った。目の前の光景が、何よりも正しくその事実を教えてくれる。信じられないことに、
天童美花が、泣いていた。
「お、おいおい何やってんだよ天童……お前ならそんな犬っころなんて瞬殺だろ?」
繰り返し言うが、天童は俺よりも遙かに強い力を持つ天使だ。人間では絶対に得られるはずのない怪力を有し、骨だろうが家だろうが簡単に破壊してしまえる、バケモノのような存在だ。
そんな奴が、野犬を前にして泣いている。その光景を目にしても、未だ信じられない思いの方が勝っていた。
「いやぁ、やめて……食べないでぇ……」
血走った目で涎を垂らしながら一歩、また一歩と近づいてくる野犬。天童は震えたまま縮こまり、地面の土や草を投げつけ、せめてもの抵抗をみせた。
しかし、まったく効いていない。
腹を空かせた野犬は投げつけられる砂利など意にも返さず、ただただ逃げることすらできない獲物に向かってゆっくりと歩いていく。
「──あ」
そして、体勢を低くした。
あとは膝を伸ばし、ほんの少し前に飛ぶだけで、次の瞬間には野犬は確実に天童の喉元に喰らいついていることだろう。
それを理解していた時にはもう、俺は地面を蹴っていた。
「────ッ!」
走る、走る。
天童と野犬に向かって、この上ない程の全力疾走で土手を駆け下りる。
さっきまであんなにも憤っていたはずなのに、あんな奴なんてどうなったっていいと思っていたはずなのに、何故だか天童の小さく震える姿を見て、気づけば体が勝手に動いていた。
らしくないことをしているのは分かっている。矛盾する行動だなんて百も承知だ。
だけど、それでも──。
動かないことだけは、どうしても無理だった。
「──クソっ!」
が、遠い。
天童と野犬のいる場所までは、未だ30メートル以上もの距離がある。
どれだけ俺が懸命に走ろうとも、この距離を一瞬で埋めるのは不可能だ。
このままだと絶対に間に合わない。
そう頭で理解したからこそ、俺は走るスピードそのままに、投擲体勢へと移った。
「ガァッ!」
「きゃあ!?」
案の定、野犬が天童に向かって飛び掛かっている。
俺はそれを見ながら乱暴な手つきでポケットからスマホを取り出し、渾身の力を込めて投げつけた。
「──このっ!!」
俺の投げたスマホは綺麗な縦回転を見せながら、吸い込まれるように野犬へと飛んでいく。
そして──
「ぎゃん!?」
命中。
野犬は宙で悲鳴を上げながら態勢を崩し、吹き飛ばされるような形で河川敷の硬い石の上へと転がった。
「……え?」
天童は一瞬何が起きたのか分からなかったのか、ポカンとした表情で固まっている。それから俺の方へと顔を向けて、心底安心したような笑顔を見せた。
「ゆ、優さん!」
「バカ野郎!」
そんな間抜け面に、俺は堪らず怒鳴り声を上げる。
「ボケッとすんな! もう一回来んぞ!!」
「──!?」
倒れこそしているものの、野犬の目は未だ天童を狙っていた。ギラギラと輝く鋭い歯を見せながら、今にも噛みつかん勢いで懸命に立とうとしている。
凄まじい執念だ。
決して少なくないダメージを腹部に受けているはずなのに、何がそんなに奴を突き動かしているのか、天童を襲おうとする意志は全く折れちゃいない。
「あ、あぁ!?」
自分の窮地が終わってないことを知り、恐れ慄く天童。
野犬は震える足で立ち上がり、再び獲物に向かって飛び掛かった。
「がぁ!?」
──が、失敗に終わる。
大きく開かれた野犬の口に腕を無理矢理に突っ込み、俺が失敗に終わらせた。
「ふぅ、惜しかったなぁアホ犬。悪いけど、このまま大人しくしてくれ」
「優さん!?」
30メートルの距離なんて、4秒もあれば余裕で詰められる。
起きるはずだった惨劇を前に、今度の今度こそ、俺が間に合った。




