おいしいカレーが食べたいです
「はぁ……なんで俺がこんな目に」
「しょうがないでしょ、急に美花が来れなくなっちゃったんだから」
俺と環は今晩の食材の買い出しのため、近所のスーパーに来ていた。
本来ならここには俺ではなく天童が来るはずだったのだが、今は割れた頭の治療をするため、家で大人しく休んでいる。
割れた頭なんて天使の力でさくっと治るもんだと思っていたが、なんでも天童いわく、天使の力を使おうにもお腹が空いて力が出せないらしい。なんだよその理由。お前は顔の濡れたア〇パンマンなの?
という訳で、朝の内に家の中にある食材を全て使い切ってしまったアホな天童の代わりに、環の付き添いとして俺が来るはめに。
環との買い物なんて面倒なことこの上ないのだが、血に染まる包帯を巻いた天童を外に出すわけにも、料理下手な環を一人食材の買い出しに行かせるわけにもいかないので仕方ない。
これも全て、俺を守るために必要なことなのである。
「これとこれと、あとこれも必要ね」
天童に渡されたメモを片手に、次々と環が食材を買い物カゴへと放り込んでいく。
その量は凄まじく、あっという間に俺の持つ買い物カゴはずっしりと重くなった。
「力士部屋かよ……」と、思わずツッコミを入れてしまうような量だが、これでも天童に渡されたメモ通りなのだから恐ろしいところだ。
何が恐ろしいって……割り勘なんだよね、これ。
一応上月家の食費は大食いである天童がほとんど負担してくれることにはなっている。なってはいるが、今日は環も一緒に食卓を囲むということで、三人で平等に割り勘にしようという話になったのだ。
無論俺は抗議の声を上げた。横暴だ。払えるはずがない、と。しかし、何度言っても環はそれを突っぱねた。先程シロに襲われている天童をあっさりと見捨てたことなんかを理由に挙げて、従わなきゃ殺すぞとまで言ってきたのだ。横暴すぎて、俺は泣いた。
母さんの仕送りだけで生きている俺にとっては、これは手痛すぎる出費である。
ただでさえこれから熊谷の制服も弁償しなきゃいけないというのに、これでどうやって今月を乗り越えろというのだろうか。手元に残るのは僅かな金銭のみで、今後のことを考えると頭が痛くなってくる。
とりあえず、しばらくの間は雑草と水道水だけが俺のお昼ご飯となることが決定してしまった。天童からの施しは、あまり期待しない方がいいだろう。
「あとこれも追加っと」
「おい」
そして、いつの間にか買い物カゴに放り込まれていたものを見て、俺の頭痛は更に増した。
俺が少し頭を悩ませていた隙に、どうやらアホな環が天童に渡されたメモを完全に無視して、勝手に余計なものまで買い物カゴに入れていたらしい。
「今日の晩御飯はカレーにするって言ってたよな。なんでこんなに蜂蜜とチョコが必要なんだよ?」
俺が指摘すると、環は小馬鹿にするように「ぷぷっ」と吹き出した。
果てしなくウザい笑顔に全力で殴りたくなってくる。両手が塞がってなけりゃ絶対に手を出してた。
「何よ上月知らないの? カレーに蜂蜜やチョコを入れるとね、まろやかさとコクが出てとっても美味しくなるのよ」
得意げに言ってくるが、その程度のことなら俺だってもちろん知っている。俺が指摘しているのはその量についてだ。
「だからってこの量はねぇだろ。蜂蜜は二キロあるし、チョコに至っては三キロもあるじゃねぇか」
蜂蜜やチョコとは本来隠し味として使うものだ。これだけの量を使用しては、主役であるはずのカレーが隠れてしまう。これではどちらが隠し味なのかわからない。
とはいえ、流石に環もそのことについては同意なのか、
「そうね、確かにこれはちょっと少なすぎたかも……。待ってて上月、すぐに追加で持ってくるから」
そう言って、お菓子コーナーへと向かって駆けて行った。
……は? お菓子コーナー?
堪らず叫ぶ。
「おいちょっと待てやコラ! どこ行く気だお前! ルーだぞ! カレールーを持ってくるんだぞ!」
しかし、俺の声がまったく聞こえないのか、環は凄まじいスピードで俺の視界から姿を消してしまった。
「……マジでふざけんなよアイツ」
自然と、怨嗟の感情が込み上げてくる。
これだから環との買い物は嫌なんだ。料理スキルがない以前に、思考が壊滅的に崩壊している。どうしてこれだけの量の蜂蜜とチョコを入れておきながらまだ足りないとほざくことが出来るのか、一ミリも理解することが出来ない。
しかし、理解できないからこそ、俺は環に付いてきたのだ。
アイツが食材の買い出しで暴走するなんてことは、初めから分かり切っていたことである。誰かがストッパーとして働かなくては、今夜の晩御飯が悲惨なものになってしまうことは間違いない。
それだけはダメだ。それだけは何としてでも避けなくてはいけない。俺の少ない金が生ゴミに変わることだけは、絶対に許さない。
だから俺は『待っていて』という言葉を無視して、重い買い物カゴを抱えながら環を追いかけた。
心の中は邪知暴虐の王を打ち倒さんとするメロスにも負けちゃいない。必ず美味しいカレーを食べるという決意を心に宿して、アホな環の蛮行を止めようと足を進めていると、
「あれ、上月先輩……?」
不意に、後ろから誰かに声を掛けられた。
「あ?」
この緊急事態に誰だよと思い振り返ってみると、そこには諸星高校の制服を着た女の子が立っていた。
ウェーブヘアの、背の高い女の子。
初対面であるような、そうでないような……どこか見覚えのある雰囲気に、環を追いかけようとしていた足が自然と止まる。
「やっぱり上月先輩だ! お久しぶりです! 一年ぶりですね!」
女の子は俺の顔を見るなりすぐ、弾んだ声でそう言ってきた。
「えーと、もしかしてお前……」
俺を先輩と呼び、尻尾を振って喜ぶ犬のような反応を見せてくる人間なんて、この世にたった一人しかいない。
「剣崎先輩の妹さん?」
「はい、そうです! 中学の時に生徒会でお世話になった、あなただけの剣崎実です!」
「…………」
剣崎実。一つ上の剣崎誠という先輩の妹さんで、俺と環が中学で生徒会に所属していた頃、同じく生徒会メンバーとして活動していた後輩ちゃんの一人である。
他の後輩たちが俺を嫌って避ける中、なぜかこの剣崎妹だけがしつこいまでに俺に懐いてきていたのをよく覚えている。
どれだけ邪険に扱おうとも構わずにグイグイと来るものだから、途中からはもう面倒臭いを通り越して、ただならぬ恐怖を何度も感じていたものだ。付き合ってるわけでもないのに『あなただけの』とか言っちゃうところなんかは、一年経った今でもマジで頭のヤバい奴なんだなと思っている。
それだけの強い印象が残っているのにも関わらずパッと名前が浮かび上がってこなかったのは、一年前に比べて容姿と体型が大きく変化していたからだ。
「しかしまぁ……また少し見ない間に随分と大きくなったもんだな」
最後に見た時は確か環よりも頭一つ分くらい低い身長だったはずだが、それが今では俺をも追い越さんとしている。
凄まじい成長速度である。剣崎先輩も長身だったし、もしかしたら数か月後にはすでに俺も追い越されてしまっているかもしれない。
「あっ、はい。正直もうこれ以上の成長はいらないんですけどね……」
剣崎妹はもじもじと手を胸元にやりながら、恥ずかしそうにこくりと頷いた。
そして、告げられる。
「お恥ずかしながら、BからEになりました」
「……そ、そうですか」
まさかの一言に、思わず敬語になってしまった。
俺としては別に胸のことに対して言ったわけではなかったのだが、顔をリンゴのように真っ赤に染めながら言われた衝撃の事実に、堪らず面食らってしまう。
おいおいマジかよすげぇなオイ! たった一年でBからEになっちゃったのかよ! CとDの期間どこ行っちゃったの? ワープ進化してんじゃねぇか!
しかし、貴重な情報を得られた代償として、いつの間にか周囲からは変態を見るような目を向けられるようになっていた。
「まぁ、やらしい……。あの男、こんな場所で女の子に何を言わせてるのかしら」
「あの制服、諸星高校の生徒さんよ……。悲しいわ、私達が通っていた頃とは違って今では随分と下品な生徒を受け入れるようになったのね」
ひそひそひそひそと、明らかに俺に対して侮蔑の込められた会話がマダムたちの間で繰り広げられている。
いやなんでだよ! なんで俺が変態みたいな扱いされなきゃいけないんだよ! 今の絶対に俺悪くねーだろ!
どちらかと言えば聞いてもいない胸のサイズを勝手に教えてきた剣崎妹の方が変態だと思うのだが、しかし悲しいことに、世間は決してそう判断はしてくれない。
この世から痴漢の冤罪がなくならないように、いつだってこういうセクシャルな話題には、男の方が圧倒的に立場が低くなるものなのである。
なんという理不尽か。頼むから日本政府には新たに男性専用車両の導入も検討してほしい。荷物が尻に軽く当たっただけで痴漢呼ばわりされるのは……もう嫌だ(切実)。
「えーと、あのー、そのー」
剣崎妹はそんな周囲からの視線の変化にも気づかず、ただひたすらにもじもじとしながら俺の様子だけを窺っていた。どうやら何かを言いたそうにしているようだが、それが恥ずかしい内容なのか、なかなか次の言葉が出てこない。
胸のサイズ以上に恥ずかしいことって何だろうな? うんこ漏れそうなのかな?
気にせず行ってこいよと思いながら剣崎妹のことをじっと見つめていると、やがて彼女は決心したように顔を上げて、
「出来れば私のことは剣崎妹ではなく、実と呼ん───」
「お待たせー! 追加の蜂蜜とチョコ持ってきたわよー!」
何かを言おうとしたところで、それを遮るようにして環の声が飛んできた。
振り返ってみると、その両手にはもちろんチョコと蜂蜜が大量に抱えられている。
「って、あれ? もしかして実?」
「……環先輩」
環と剣崎妹が一年ぶりの邂逅を果たす中、当然のようにチョコと蜂蜜が俺の持つ買い物カゴへとどかどかと放り込まれていく。
ただでさえ重い買い物カゴが更に重みを増したのを感じて、俺は普通にキレた。
「テメェマジでふざんけんなよ、カレー作るって言ってんだろうが」
「い、良いじゃない別に……。私が甘党だってことは上月だって知ってるでしょ? カレーは甘口が絶対、そこだけは譲れないわ」
「甘口ってレベルじゃねーんだよコレ!」
「それよりも!」
俺の文句を無理矢理に遮って、環は前にいる剣崎妹へと目を向ける。ついでに自身の胸を隠すようにして、そっと手を添えた。
「えーと、本当に実で合ってるわよね? うわぁ、すご……でっか……。ワープ進化してんじゃん」
どうやら環も感想は俺と同じようで、そのあまりにも早い成長スピードに酷く驚いているようだ。
特に胸。視線が剣崎妹の胸元に集中している。もはやここまで差をつけられてしまっては悔しさも出てこないのか、環は何度も感嘆の息を漏らしながら大きく見開かれた目でたわわに実った果実をガン見していた。
あまりにも無遠慮な視線に、剣崎妹も一歩後ろへ下がってたじろぐ。
お巡りさんコイツです。早くこの変態を逮捕してください。
「あ、あの……どうしてお二人が一緒にいるんですか?」
「──え?」
てっきり胸を見たことに対して文句を言ってくるものだと思っていたが、剣崎妹がおもむろに口を開いて出した言葉は、そんな何てことのない内容の問いかけだった。
「どうしてって……」
「違うのよ実、これにはそれはそれはもう深ーい事情があってね──」
なぜか隣で環がわたわたと慌て始めているが、別に深い事情なんて何もないので、俺は剣崎妹の問いかけに素直に答える。
「コイツが俺ん家で料理するって言うから、普通に買い物に付き合ってるだけだけど」
「ちょっ!?」
「上月先輩の家でっ!? 料理をっ!?」
俺が言うと、剣崎妹は突然ショックを受けた様子でガシャンと買い物カゴを落とした。
割と大きな音がして、ちょっと焦る。
「お、おい何やってんだよお前。店員さんブチ切れんぞ」
「す、すみません」
幸いにも近くに店員さんはいないのか、鬼のような形相で駆けつけられることはなかった。見たところ商品にも目立つようなキズはないようだし、棚に戻したりなんかさえしなければ、別段大きな問題にはならないだろう。
「酷い……正々堂々と勝負しようって言ってたくせに、やっぱり抜け駆けしてたんだ」
剣崎妹が落ちた商品を拾いながら、何やらブツブツ言っている。
「私は一年間ずっと我慢して受験勉強頑張ってきたのに……その間にも環先輩は上月先輩とイチャイチャイチャイチャと……!」
「は? 勝負? イチャイチャ?」
「だああああ違う違う! 違うから! 実ったらものすっごい勘違いしてるから!!」
何のことかよく分からないワードに俺が首を傾げていると、環が決河の勢いで剣崎妹との間に割って入ってきた。
「安心して実、私と上月は全然そんな関係じゃないから! この一年間ロクに会話も交わしてないし、料理も作ってあげてなんかないから!」
「いやお前、去年同じクラスだった時はしょっちゅう俺に話しかけてたし、喫茶店RINGに行った時なんかはほぼ100パーセント自分の作った料理を食べさせようとしてただろ」
俺が本当のことを言うと、剣崎妹は「やっぱり!」と叫んで環を睨みつける。
「アンタは黙ってろ!!」
「──かはっ!?」
直後、強烈な肘鉄を鳩尾にお見舞いされた。しっかりと急所を打たれたため、俺は喋るどころか呼吸さえ出来なくなってしまう。痛い、超苦しい。
「ち、違うのよ実……本当に違うの」
膝を屈し、酷く苦しんでいる俺を放置して、環は睨みつけてくる剣崎妹を宥めようと必死の説得を試みていた。
「落ち着いて聞いて……ね? 私と上月はね、あなたが想像してるような関係じゃ───」
「触らないでください!!」
しかし、まったく効果がないのか、環の差しだそうとしていた手を剣崎妹はバシッと払いのける。
そして、鋭い視線と容赦のない言葉がショックを受ける環に追い打ちとなって降りかかった。
「この貧乳裏切りおっぱいガン見女! 環先輩のことなんてもう何も信じられません!」
「ひ、貧乳裏切りおっぱいガン見女!?」
「ぶふっ!?」
剣崎妹から放たれた環の新たな呼称に、後ろで聞いていた俺は堪らず噴き出してしまう。
ただでさえ少ない空気が体内から吐き出され、酸素が足りなくなって途端に意識が朦朧としてきた。やめてやめて超苦しい! 息が出来ない状態で笑かさないで!
俺は買い物カゴを下に置いて、痙攣する体を必死に抑えながら呼吸を繰り返す。
すーはーすーはー、ぶはっ! ダメだ! 環の石のように固まった顔が面白過ぎてマジで呼吸ができねぇ!
「こ、この男……!」
おっと──いかんいかん。
流石に二度も噴き出したのはマズかったのか、横目で環に思いっ切り睨まれてしまった。これ以上笑っていては本当に殺されかねないので、今度の今度こそ心頭滅却して呼吸を整える。
すーはーすーはー。よしっ、やっと酸素を取り込めたぞ!
ようやくのことで意識も戻ってきて、再び顔を上げる。
「──ひっ!?」
すると、環以上に恐ろしい形相をした女の子の顔が視界に入ってきて、先程までとは別の意味で息が止まりそうになった。
「……環先輩」
「な、なに?」
その悪霊のような恐ろしい声で呼ばれた名前は決して俺ではない。だというのに、その声を聴いた瞬間、震えが止まらなくなる。さしもの環もこれには堪えたのか、額からは少なくない汗が流れていた。
「「「…………」」」
誰も喋らない地獄のような時間が数十秒程経過して、おもむろに、剣崎妹が口を開く。
「これで勝ったなんて思わないでくださいね……。私、まだ諦めてませんから」
「ごくり」と、環の生唾を飲み込む音が聞こえた。つられて俺もごくりと生唾を飲み込む。
なにこの緊張感? 吐きそうなんだけど?
「上月先輩」
「は、はいっ!」
環から視線を切り、剣崎妹は次に俺の方に顔を向けた。
瞬間、背筋に冷たい悪寒が走る。表情は環に向けられていたものとは違って笑顔だ。妖艶な笑みを浮かべながら、御馳走を前にした狼のように、剣崎妹はぺろりと唇を舐める。
「今度は私が、上月先輩のために美味しいカレーを作ってあげますからね。楽しみに待っていてくださいね。ふふふ……うふふふふふ」
「…………」
カレーじゃなくて、むしろ俺が食べられちゃうような、そんな雰囲気だった。
剣崎妹は怪しく微笑みながら、俺達に背を向けて去っていく。
その背中を見ながら、俺は縋るような思いで環に助けを求めた。
「なぁ環……俺、どうやったらあの子から逃げられる思う?」
「そんなの私が知りたいわよ、バカ」




