バッドモーニング
「おはようございます優さん、朝ですよ」
目を覚ますと、俺の部屋に天使がいた。
こう表現してしまうと、まるで絶世の美少女に優しく起こされているかのような幸福なシチュエーションを思い浮かべてしまうから不思議だ。
きっと可愛い女の子を目にしたらすぐに天使と表現してしまう、どこぞのありふれたエンタメ作品の呪いにでもかかっているのだろう。そうに違いない。
「…………」
「どうしたんですか優さん? 朝ですよ、早く起きてください」
端的に言うと、これは比喩表現ではない。
絶世の美少女なんてここにはいないし、もちろんこの状況が幸せだなんて俺は一ミリたりとも思っちゃいない。
本当に目の前に天使がいるのである。
ゆったりとした白いワンピースに頭の上に浮かぶ金色の輪っか。背中に生えているのは白鳥のような大きな翼で、それをばっさばっさと羽ばたかせながら俺の上でホバリングしている。
そんな奴のことを天使と言わずして何と言おう。
夢か?
そう思い、試しに頬を抓ってみた。
「……痛い。なんだ現実か」
確かな痛みを感じ、これが夢ではないことを理解する。
俺は布団に包まり、再び瞼を閉じた。
「おやすみ」
現実なんて見ていても仕方がない。体を休めることが出来る分、夢を見ている方が遙かに有益である。
「ちょ、ちょっと優さん!? なに二度寝しようとしてるんですか!」
「うぅ……」
俺が現実に目を背けて再び夢の世界へ旅立とうとしているところ、慌てて天使がそれを止めにきた。
目覚まし時計の音よりも遙かに大きな声が脳に響き、俺は堪らず呻き声を上げる。
「起きてくださいって言ってるじゃないですか!」
「朝っぱらから大声で叫ぶなようるさいなぁ。別にいいじゃねーかよ、まだ起きなくても……」
無理矢理に起こそうとするのはホント勘弁してほしい。
昨日は帰るのが遅かったから、3時間くらいしか眠れていないのだ。
「そういう訳にはいきません! 早く起きてください!」
しかし、そんな俺の思いとは裏腹に、天使は強引にでも俺を起こそうと体をゆさゆさと揺すってきた。
「や、やめろ……」
ゴロゴロゴロゴロと、まるでどこかに連れて行けと駄々をこねる子供のように、何度も何度も体を揺すってくる。
「──おえっ」
揺すられ過ぎて、だんだんと気分が悪くなってきた。猛烈な吐き気に襲われる。
果たして、世のお父さん達はみんな似たような経験をしているのだろうか。
おいどうしてくれんだよ。あまりの気分の悪さに、将来絶対誰とも結婚しないって思わず心に誓っちまったぞ。
自然と、俺の声音も不機嫌なものとなる。
「昨日は帰りが遅かったから眠いんだよ……頼むからもう少しだけ寝かせてくれ」
ロクに睡眠時間を取れていないため、俺の声に覇気はない。出来ることなら怒鳴り散らしてやりたいところだが、こうして弱々しくやめてくれとお願いすることしか出来なかった。
「ダメです!」
しかし、そんな俺の切なる願いすらも、天使は全く聞き入れちゃくれない。
昨日帰りが遅くなってしまったのはこのアホ天使のせいなのだが、そんなことは知らないと言った感じで俺の体を揺する手に更なる力が込められる。
ゴロンゴロゴロ、コネコネペッタン。
やめろ、俺はパン生地じゃないぞ!
「二度寝なんてしたら、頑張って作った朝ご飯が冷めてしまうではないですか!」
「はぁ?」
揺さぶりながらそう言ってくる天使に、俺は堪らず顔を顰めた。まさかそんなことのために俺を起こそうとしているのだろうか。ふざけんなよお前。朝ご飯ガチ勢かよ。
俺は布団から顔を出し、天使に向かってぼそりと呟く。
「別にいいだろ冷めても。後でレンチンすればいいだけの話じゃねーか……」
冷めたのならまた温め直せばいい。それだけの話である。
この世には電子レンジという便利な道具があるのだ。機械の中に温めたいものを入れてボタンを押すだけ。それだけでどんな冷たいものもたちまち熱々にしてしまう、とても便利な道具が。
しかし、
「そんなことしたら風味が落ちちゃうじゃないですか!」
天使は俺の提案を受け入れられないようで、温め直すことを頑なに否定しながら、問答無用で布団を引っぺがしてきた。
「いいから、四の五の言わずに早く起きてください!」
体を覆っていた布団が引っぺがされ、全身が露わになる。
「ちょっ、寒い!」
布団によって守られていた体温が、天使の発生させる風によってどんどん奪われていく。
「──くッ!?」
顔を上げると、台風を思わせるような風圧に唇と瞼がめくれあがった。眼球と口の中は凄まじい勢いで乾燥していき、目を開けることはおろか、今は呼吸をすることさえ難しい。
「このっ、返せバカッ!」
モタモタしていると本当に風邪をひいてしまいそうなので、俺は必死になって天使の持つ布団へと手を伸ばした。
結果として、部屋の中でホバリングしている天使と綱引きをする形となる。
うんとこしょー、どっこいしょー。
「くそっ、なんて力だ……!」
が、引っ張れども引っ張れども、一向に天使から布団を取り戻すことが出来ない。
「放せ! 放せよ! 放せつってんだろボケ! いいからその手を放せ!」
全力で引っ張ってみてもビクともしない。まるで大木と綱引きをしているかのようだった。
寝起きのせいもあるのだろうが、それ以前に単純な力比べで俺は天使に負けている。どれだけ全力を尽くそうとも、コイツから布団を取り戻せる気が全くしない。
「絶対に放しません。だって放したりなんかしたら、またすぐに二度寝しようとしちゃうじゃないですか。私だって寝不足で辛いんですよ? 優さんも我慢してください」
対して天使はまだまだ余裕があるのか、涼し気な表情で「ふわぁ」と欠伸をするしまつ。ばっさばっさと翼を羽ばたかせながら、余裕な態度で布団の端を掴んでいた。
あぁ、寒い!
「起きてちゃんと朝ご飯を食べるまで、二度寝することは許しませんからね」
「なんだその朝ご飯に対する異常なこだわりは、イカれてんのかお前!」
以上の理由で、天使は布団から手を放すつもりはないもよう。朝ご飯ガチ勢、超面倒臭いです。
俺は天使に向かって叫んだ。
「てゆーかいつまで飛んでんだよボケ! いい加減そのホバリングをやめろ! さっきからお前のその無駄なホバリングのせいで、部屋の中が大惨事になってんだよ!」
部屋の中は天使のせいで荒れに荒れていた。小物は床に転がり、紙類は宙を舞い、重いはずの箪笥さえもガタガタと倒れそうな程に震えている。
文字通りの嵐が、俺の部屋の中で巻き起こっていた。片付けのことを考えると、ただでさえ痛い頭が更なる痛みを生んでいく。
「おっと、それは失礼しました」
とはいえ、流石の天使もここまでの惨状を生み出すつもりはなかったのか、周囲を確認してから、素直に謝罪の言葉を口にした。
直後、天使の手からパッと布団が放される。
「えっ」
拮抗していたはずの力が突然崩れ、全力で引っ張っていた俺の体はその勢いのまま、後ろの壁へと吸い込まれるように吹き飛んでいった。
「─────!!!!」
ガン!! と、シャレにならない音が後頭部から響き渡る。
俺は壁に激突した後頭部を押さえながらベッドから転げ落ち、床の上で激しくのたうち回った。
どったんばったん大騒ぎ。ジャ〇リパークのフレンズたちもビックリの騒ぎっぷりである。
「大丈夫ですか、優さん?」
「だ、大丈夫なわけあるかっ──くそっいってぇぇぇぇ!」
強烈な痛みに悶絶する俺を、天使は心配そうな眼差しで見つめてくる。
しかし、俺が叫び声を上げるのと同時に、心配そうな眼差しは安堵の表情へと変わった。
「良かった、活きのいい魚みたいにピッチピチに跳ねてる。元気そうでなによりです。これなら別に治療しなくても大丈夫そうですね」
「どんな安心の仕方だそれ!? 全然大丈夫じゃねぇつってんだろボケ!」
どう考えても安心していい場面ではないというのに、天使は本当の本当に心の底から安堵した表情を浮かべていた。
もがき苦しんでいる俺に微笑みを向ける様は、さながら悪魔のようである。
いや、笑ってないで助けろや!
「あっ、やば。もうこんな時間だ」
結局天使は転げ回る俺を助ける素振りすらみせず、興味をベッドにある目覚まし時計の方へと移していた。
謝るどころか、頬をぷんぷん膨らませながら俺に文句を言ってくる。
「もう、優さんがなかなか起きないから一緒に朝ご飯を食べる時間が無くなってしまったじゃないですか。私は入学初日から遅刻したくないので先に下へと降りてますけど、優さんも早く着替えて降りてきてくださいね。いいですね?」
いつの間にか天使の服装は制服へと変わっていて、頭に浮かぶ金色の輪っかも消えている。
「でないと、私が朝ご飯を全部食べちゃうんですから!」
最後にそれだけを言い残して、天使はタタタッと急ぎ足で部屋を出て行った。
「…………」
階段を勢いよく駆け下りていく音を聞きながら、俺は着替えることなく、ベッドの上にゴロンと転がった。
「誰が降りるかバーカ。今日は休みなんだよ」
本日は入学式があるため、在校生は休みなのである。
無理矢理に起こされてしまったが、昼まで眠る意志は天使に怒られようとも変わらない。
「はぁ……もうやだ」
床に落ちていた布団を拾い上げ、ミノムシのように包まる。
気分は最悪。
せっかくの休日が、アホな天使のせいで台無しにされてしまった。
母さんが天界に行ってから僅か一年。俺の平穏な日常は、悲しいことに終わりを迎えてしまったようだ。
「なんで俺がこんな目に……」
瞼を閉じて、こんなことになってしまった原因を思いだす。
「昨日、アイツが俺の前に現れさえしなければ……」
そう、昨日だ。
すべては昨日……アイツと出会い、始まってしまったのだから。