マスターのお説教
「さて、君達のおかげで急遽お店を閉めなくちゃいけなくなってしまった訳だけど……どうしてあんなことをしたのか、きちんと説明してくれるんだよね?」
「「…………」」
店をめちゃくちゃに荒らしてしまった俺と環は、厨房の固い床に正座させられ、マスターに問い詰められていた。
「ねぇ、どうしてそこで黙るのかな? 話してくれないとわからないよ?」
声音こそ穏やかなものだが、マスターの俺達に向ける表情は冷たい。
暴徒と化した環から逃げ回った結果、店内はそれはそれはもう酷い有様となっていた。
観葉植物はなぎ倒され、テーブルには深い傷跡が残り、ガラスの破片が辺り一面に散らばっている。環の手にしていたトレイはもはや元の形が分からないまでにひしゃげており、べったりと付着した俺の血液が事の残虐さを雄弁に物語っていた。
まさに見た目は殺人現場。
何も知らない誰かがこの店に入ってくれば、まず間違いなく警察に通報されてしまうことだろう。
なので今は外から中が見えないようカーテンを閉め切り、店の扉に掛けてあるプレートは営業中から準備中に裏返してある。
こんなことで警察沙汰にされては堪らないからな。
しかしそれは同時に、黙っていてはいつまでもマスターのお説教が終わらないことを意味していた。
客が入ってこれないということは、第三者の介入が望まれないということでもある。静かに怒り狂うマスターの前で、沈黙は許されない。
「す、すみませんでした」
重苦しい空気の中、先に声を出したのは俺の方だった。それに続くようにして、環も震える声で謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい、おじいちゃん」
「いや、すみませんでもごめんなさいでもなくて、僕はどうしてこうなったのかっていう理由を聞いてるんだけど?」
「「…………」」
再び場を沈黙が支配した。
おいやべーよ、全然許してくれる気がねぇよ。
反省の意を示し頭を下げるも、マスターの冷たい表情が穏やかになることはない。それどころか「おかしいな、ちゃんと日本語で話しているはずなのにどうして通じないんだろう?」みたいな顔までされてしまう。
マスターの怒りは相当なもののようで、簡単には許してくれなさそうだった。きちんと説明しなければ、きっといつまでもこの地獄のような時間は続いてしまうのだろう。
「──ひっ」
不意に、マスターから視線を向けられた環が悲鳴を上げた。
恐怖心がトラウマレベルで刻み込まれているのか、顔を真っ青にさせながらダラダラと滝のような汗を流している。
……凄まじい汗の量だ。多量の水分を吸ったブラウスが透けて、水色の下着がうっすらと浮かび上がっていた。え、なにこのラッキースケベ?
突然の事態に動揺しながらも、しかし俺はそれを放置することに決める。
出来ることなら指摘してやりたいところだが、この緊張感漂う空気の中では何を言ってもダメなような気がしたので、そっと目を逸らすだけに留めておいた。
ごめんな環、勇気のない俺を許しておくれ。
くっそー、今がお説教中でさえなければなー!
そんな風に俺が一人で悶々としていると、厳しい表情を作るマスターが口を開いた。
「環には昨日ちゃんと言ったよね? お客様に迷惑を掛けるのも、僕の大切なお店をめちゃくちゃにするのも許さないって。まさか、昨日の今日でもう忘れてしまったのかい?」
「あ……いや、その……そういうわけでは……。は、はい、ちゃんと覚えてます。……この耳で聞きました」
しどろもどろになりながらも、どうにかと言った感じで環は答えた。
しかし、いつもと比べてかなり声が小さい。それこそ、蚊の鳴くような声だった。隣にいる俺ですら、酷く聞き取り辛いなと感じてしまうほどに。
「そう……覚えてるんだ」
それでもマスターの耳には正確に届いてくれたらしく、冷たい表情のまま、一つ一つ確認するような言葉が淡々と呟かれていく。
「覚えてるのに、めちゃくちゃにしちゃったんだ」
「そ、それは」
痛いところを突かれ、ピシリと固まる環さん。
少しでもマスターに良い印象を与えようとしたはずが逆効果になってしまい、頭の中が真っ白になってしまったようだ。
マスターはそんな環の様子を見て、心の底からガッカリしたような溜息を吐いた。
「僕は悲しいよ環。君にとってこのお店は、取るに足らないどうでもいいものだったっんだね……。環もきっと、この喫茶店RINGのことを大切に想ってくれてると、僕は信じていたのに」
「ま、待っておじいちゃん! 違うの!」
マスターの悲し気な表情を見て、環は慌てて弁解の言葉を挟もうとした。
「私だって、このお店のことを本当に大切に想って──」
「あの惨状を生み出しておいて、何を大切に想ってるって?」
「─────」
挟み込もうとして、断罪された。
環の言葉は一切マスターに届くことはなく、冷たい言葉だけが淡々と告げられていく。
「……ぅ、……ぅう」
え、えげつねぇ……。
自分のお店がめちゃくちゃにされてしまったとはいえ、本当に容赦がない。隣で環のすすり泣く声を聞きながら、流石の俺もドン引きする。
これの何が容赦ないって……マスター、環が喫茶店RINGのことを大切に想ってるって、十分に理解した上で言ってるんだよね。
それなのに今の言葉を投げかけたのだから、マジで鬼だなと思う。
実際、環のような真面目な人間には、このやり方が一番効く。
自分のせいで他人に迷惑を掛けてしまったことを如実に理解させられ、優しい人間であればあるほどに心に深いダメージを負ってしまうのだ。
それが大好きな人からのもので、しかも嘘偽りのない言葉だと分かるからこそ、尚のこと深いダメージを負ってしまう。
自分の罪の重さを正しく理解させるためとはいえ、環の性質すらも利用し、あえて良心に付けこむようなやり方をとるマスター。
流石としか言いようがない。
「うぅ……ご、ごめんなさい、おじいちゃ」
「ごめんなさいはもう何度も聞いた」
「…………」
そして、何度謝っても許されない。環の謝罪の言葉はことごとく潰されていった。
もうやめてマスター! 環のライフポイントはゼロよ!!
とはいえ、ここで終わらせないのがマスターの素晴らしいところである。
俯きながら泣きじゃくる環の頭にポンと手を乗せて、マスターは先程までの表情とはまったく違う優しい微笑みを浮かべていた。
「少しでもこのお店に対して申し訳ないと想っているのなら、言葉だけでなくちゃんと行動で示しなさい」
「……おじいちゃん」
散々打ちのめされた環にとってそれは、きっと天の恵みにも見えたことだろう。
どんな罪を犯した者にも、ちゃんと挽回のチャンスを与えてくれる。そうでなければ、環の心はとっくの昔に砕けていたに違いない。
俺にもこんな風に厳しくも優しくしてくれる家族が欲しかったなと、少しだけ羨ましく思う。
母さんだったらこの場合、優しく頭を撫でるどころか普通に強烈な拳骨で息の音を止めにくるからね。ほんの少しでもいいから、マスターの教育方法を見習ってほしいものである。切実に。
環は希望の光を見たかのように、パッと顔を上げた。
「あと三十分で最低限営業を再開できる状態にまで戻すこと。良いね?」
「……え?」
しかし、出された条件は無理難題と思われるようなものだった。
環も頭の中で瞬時に計算を済ませたのか、その表情からは明るさが消え、みるみるうちに絶望色に染まっていく。
「いや、でもおじいちゃん、流石にアレをたった三十分で片付けるのはちょっと……」
先程も説明した通り、店内は殺人現場かのような惨憺たる状態である。それを三十分で片付けるなど、どう考えても不可能だ。
「出来ないのかい?」
無慈悲な目が環に向けられた。
「えーと……」
環は必死になって頭の中で再度計算を済ませてから、恐る恐るといった感じでマスターを見上げた。
「……三十分は無理でも、一時間もらえればなんとか──」
「そうか出来ないのか。それじゃあ残念だけど、環は今日限りでクビってことで」
「出来る! 出来るよおじいちゃん! おじいちゃんに鍛えられたこの私に出来ないことなんてあるはずがないじゃない! 三十分ね! オッケー! 超任せて! 行ってきます!!」
そうして、環は慌てた様子で厨房を飛び出していった。
うるさい奴がいなくなり、あっという間に厨房がシーンと静まり返ると、
「さてと……で、今度は何をして環を怒らせたんだい、優君?」
今度は君の番だよというばかりに、マスターの目が俺に向けられた。
とはいっても、先程までの重苦しい空気感というものはない。俺に厳しい言葉も冷たい目も通じないと知っているのか、マスターの表情はいつもの穏やかなものに戻っている。
「まぁどうせまた、言わなくてもいいことまで言って怒らせたんだろうけどね」
というかこれ、完全に最初から諦められてますね。
穏やかというより、呆れられてるといった方が近そうだ。
あれれー、おかしいなー? 俺ってそんなにどうしようもない感じの人間に見えますー? 見えるんだろうなぁ……。
尊敬しているマスターに完全に諦められていることを知り、若干のショックを受けながらも、俺はどうにかしてマスターに問い掛けられたことに答える。
「え、えーと……そうですね。昨日、環から頂いた試作品の感想を少々……みたいな?」
「少々、ねぇ……。具体的にどんな感想を伝えたんだい?」
そう聞かれたので、俺は環に伝えた感想をありのままマスターに話した。話してすぐ、マスターは頭を抱えた。
「いや、それのどこら辺が少々? 罵詈雑言の嵐じゃないか……。優君、オブラートって知ってる?」
質問の意図は分からなかったが、オブラートの意味くらいは当然知っているので、俺は自分の優秀さをアピールするよう即座に答えた。
「はい、もちろん知ってます。デンプンの膜のことっすよね」
「うん、そうなんだけどそう言うことじゃなくってね……」
しかし、残念ながらマスターの望んだ回答ではなかったもよう。
マスターは俺の間違いを正そうとしたようだが、時間がないのか、時計を見てすぐにそれを諦めてしまった。
「まぁいいか、長くなりそうだし。この話はまた今度にしよう」
どうやらまた今度にこの話をするらしい。また今度があるんだ……。
「とりあえず今の話を聞いた限り、優君にも非があるということは十分に分かった。お客様とはいえ、君にも環と同様に罰を与えさせてもらうよ」
確かに実際に孫娘を傷つけてしまったのは間違いない訳だし、俺も罰を受けるというのは自然な流れと言えるだろう。
むしろお店をめちゃくちゃにしてしまった一番の原因は俺の方にある訳で、警察に通報されないだけありがたいと思うべきなのかもしれない。
俺はしっかりと罰を受ける覚悟を決め、ゴクリと喉を鳴らした。
マスターは緊張する俺に向けて指を二本立て、そして問い掛ける。
「選びなさい。今すぐに環に謝って仲直りするか、これからずっと君に出す料理を環の作ったものにするか……どっちがいい?」
そんなの考えるまでもない。
「環と仲直りする方でお願いします!」
即答した俺は全力で立ち上がり、厨房から勢いよく飛び出した。
そして次の瞬間には、
「先程は言い過ぎてしまい! 大変申し訳ありませんでしたぁぁ!!」
「えっ、何!? 何っ!?」
驚く環に向かって、ガラスが散らばる床の上で、めちゃくちゃに土下座するのであった。