ちょっと強めのSM喫茶
「あっ、いらっしゃいませー!」
カランコロンとベルが鳴る扉を開けると、少女のハキハキとした声に出迎えられた。
場所は喫茶店RING。俺がよく通う、常連のお店である。
ちょうどランチタイムが終了したタイミングなせいか、客の姿は見当たらない。いるのは空になった食器をせっせと片付けている店員のみで、閑散とした空間に昔ながらのジャズミュージックが流れていた。
「……って、なんだ上月か」
天童に部屋を荒らされた挙句に朝ご飯まで食べ尽くされてしまい、自分で飯を作るのも億劫になる程に気分が落ちていたためこのお店に訪れた訳だが、
「ロクにお金も持ってないくせに何しに来たのよアンタ」
どうやらそれは失敗だったようだ。
食器を片付けている手を止め、忌々し気な視線を向けてくる店員の表情を見て、それを悟った。
「冷やかしなら結構よ、帰ってちょうだい」
喫茶店RINGの店員……もとい三ノ輪環は酷くテンションの下げた声で呟き、しっしと厄介者を追い払うかのような仕草で手を振る。
「いや、冷やかしじゃねーよ。普通に飯食いに来ただけなんだけど……」
そのあまりにもあんまりな態度に、流石の俺も顔が引きつるというものだった。
何という低待遇な接客か。こんな接客をされた日には、どんな温厚な客だって怒って帰ってしまうだろうに。
「俺が相手だからって差別すんなよな。もっとこう、営業スマイルぐらい浮かべらんないの?」
「はぁ? 営業スマイル?」
失礼な態度をとる環に当たり前の注意をするも、聞き入れてくれる様子はまったくない。それどころか心底呆れたような調子で「何言ってんだコイツ?」みたいな顔をされてしまった。
こ、この野郎!
「くっ──!」
ついカッとなってしまいそうになる気持ちを、グッと堪える。こんなことでいちいち怒っていては、環の相手は務まらない。
三ノ輪環という女の前では、常に冷静な態度でいなければいけないのだ。
怒って手を上げたところで良いことなんて何もない。簡単に返り討ちに合うだけだからな。
悲しいことに、環は俺よりも喧嘩が強いのである。
「営業スマイル、ねぇ……」
俺が必死に怒りを抑えるのをよそに、環は顎に手をやりながら、何か考えごとをするような仕草をとっていた。
それから俺の方をチラリと見て、ふむと頷く。
何か良からぬことを思いついたのか、環は瞳と口端を弓なりに曲げて、まるで卑しい豚を見るかのような嗜虐的な笑みで、俺を睥睨してきた。
「──ふっ。これで満足ですか、お客様?」
「満足するわけないだろうがバカ! それ完全にSM喫茶でしか通用しないタイプの営業スマイルじゃねーか!」
普通この場合はもっと明るい笑顔を見せてくるものではなかろうか。
「なんで鼻で笑われなきゃいけないんだよ! 俺はマゾヒストでもなんでもないぞ!!」
俺が大声を出してそうツッコむと、環は女王様の笑顔そのままに、二言目にしてとんでもない金額をふっかけてきた。
「それではサービス料金、一万円になります」
「バカ高ぇ!? ぼったくりにも程があんだろ!」
あまりにも法外な値段に、腹の底から吃驚の声が上がる。
「なんでこんなことに一万円も払わなきゃいけないんだよ! キャバクラだってもうちょっと良心的な価格設定になってるわ!」
確かにこのお店に来ている以上ある程度のお金は用意している。が、流石に一万円もの大金を支払えるほど俺の懐は潤っちゃいない。
当然払えるはずがないので、俺は差し出してきた手を軽く払いのけ、端っこにあるいつもの席へとドカッと腰を下ろした。
「……ホント、友達と懐の寂しい男ね」
「言ってろ」
流石に俺が支払えないことは環も重々承知しているのか、特にしつこく金を払えと言い続けることもなく、嫌味だけを言い残して店の奥へと下がっていく。
それからしばらくして、喫茶店RINGのメニューと共にグラスに注がれたお冷が持ってこられた。
「で、ご注文は何になさいますかお客様。蝋燭攻めですか? それとも鞭打ちですか?」
「なんで続いてるんだよSM喫茶……。仮にメニューにあったとしても、俺が注文するわけないだろうがバカ」
「ちっ」
なおも続けられるSMネタに堪らず俺が突っぱねると、環はなぜか露骨に表情を歪め、舌打ちをした。
「…………」
いや、なんでちょっと不満そうにしてんのお前?
まさかとは思うけど、そんなに俺とSMプレイしたかったの?
バカなの?
やるわけないでしょ?
喧嘩の強い環の申し出とはいえ、流石にそこまでの要求は俺だって受け止めきれない。蝋燭攻めや鞭打ちなんて、誰が好き好んでやるものか。
「そんなことより、マスターはどうしたんだよ? まさかお前一人だけだなんて言わないよな?」
ここまできておいてなんだが、答えようによっては即座に帰るつもりだった。
環しかいないのなら、この店に来た意味がないからな。
「おじいちゃんならなんかやることがあるからって、今二階にいるわよ」
「……ほっ」
「ちょっと、何よその心底安心したような表情は? ムカつくんですけど」
そりゃ安心もするさ。もしお前一人だけでこの店を回してるって言うんなら、最悪死人が出かねないからな。
「出すかバカ! 私をなんだと思ってるのよ!」
おっと、つい安心し過ぎたせいか、いつの間にか心の声が漏れ出てしまっていたようだ。
これ以上火に油を注がないよう、発言には気をつけなければ。
「お前のことは、歩く生ゴミ製造機だと思っている」
「ほ、本当に殺してやろうかしら……この男!」
流石に失言が過ぎたようで、環の拳がみるみるうちに硬く握りしめられていく。
「ぐぬぬ……」
しかし、それでもすぐに鉄拳が飛んでくることはなかった。
昨日マスターにこっぴどく叱られたせいか、どうやら環としてもそう迂闊な行動は取れないらしい。
ラッキー。
俺はそのことにも一安心して、グラスのお冷を一気に飲み干す。
うーん、ぬるい! もう一杯!
「まさか、昨日あげたドーナツも食べずに捨てたとか言うんじゃないでしょうね?」
環のことを歩く生ゴミ製造機と表現してしまったためか、ギリギリと歯を食いしばりながら、訝し気な視線でそう問い詰めてきた。
いらぬ心配だ。
環だって、俺が食べ物を粗末にしない人間だということは知っているだろうに。
「俺がそんなことする訳ないだろ? 出禁は嫌だからな。……ちゃんと食べたよ、全部」
実際のところ俺は一個しか食べていないが、一応嘘は吐いちゃいない。残りは全て天童とかいうアホ女が平らげてくれたから、嘘にはならないはずだ。
「そ、そうなんだ……」
環はどんな嘘も見抜いてしまえる能力を持っている。
なのでコイツと話をするときは必ず、嘘を吐かず、真実を隠しながら話を進めていくのが基本だ。
「……それは感心ね」
気づくと、環は少しだけ頬を赤く染めていた。
今まで環の手料理を食べる時はかなりの時間をかけていたから、こんなにも早く食べてくれるとは思ってもみなかったのだろう。
どんな嘘も見抜けるということは、逆に言えば全ての言葉が本音として伝わるということでもある。
だからかは知らないが、環は少しだけ嬉しそうにしているように見えた。
「まぁ私としてもアレは結構な自信作だったから……すぐに全部食べてしまうっていうのも、仕方のないことよね」
「…………」
どうやらあんなものでもかなりの自信作だったようで、鼻を高くして胸を張り、ふふんと楽し気に笑っている。
どうしよう……何だかだんだんと憐れに思えてきたな。
「で、食べてみた感想は?」
「……そうだな」
喜んでいる環に何を言うべきか迷ったが、どうせ下手に誤魔化したところですぐにバレてしまうので、俺は率直な感想を彼女に伝えることにする。
「あぁ、控えめに言ってクソマズかったぞ」
「…………は?」
一瞬、環は何を言われたのか分からないと言った感じで固まった。
想像していたものとは真逆の言葉をかけられ、脳が軽くショートしてしまったのだろう。
その様子に少しだけ心が痛む。
それでも俺は環の為をと思って、事細かに試作品の感想を話してやることに決めた。
「お前のドーナツはもう、一口食べるだけで吐きそうになるレベルだったな。味は砂糖何キロ使ってんだよってくらいただひたすらに甘かったし、食感も生地に練乳が練り込まれてるせいかべちゃべちゃしてて凄い気持ち悪い。ハッキリ言って、不愉快以外の何ものでもなかった。しかもそれが口内にこびりついて延々と残り続けるからもう最悪だ。飲み込むことすら難しいってなんだよそれふざけんなって思ったぞ。何度咀嚼してもなかなか飲み込めないし、飲み込んだとしても胃や食道が拒否反応を示して激しい胸焼けに襲われる。有害な成分でも入ってんのかよ。アレは一個食べただけで間違いなく糖尿病になるな。お前のドーナツは料理じゃない、毒物だ。ゴミと言ってもいい。食材を冒涜するのも大概にしろよボケ。今まで何度も言ってきたけどよ、お前ホント料理する才能ないんだから、試作品なんか作るのはやめて大人しく接客に専念した方が良い──」
しかし、俺の言葉は最後まで続かない。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!!」
なぜなら全身を赤鬼のように真っ赤に染めた環が、全身全霊の力でトレイを俺に振り下ろしていたからだ。
「しねぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
「いたっ!? いったぁぁ!!」
怒声を上げながら何度も何度もトレイで殴り続けてくる環。しかも平面ではなく固い淵のところばかりで殴ってくるから超痛い。頑丈さが取り柄なはずの俺でも、流石に耐えられそうになかった。
「ちょっ、痛い! 角はやめろ! 暴力反対!」
「うるさぁぁい! アンタなんか死んでしまえぇ! 死ねぇ!!」
血しぶきが舞い、ついには環のエプロンが俺の返り血で真っ赤に彩られていく中、
「ちょ、ちょっと何があったの!?」
騒ぎを聞きつけたマスターが、慌てた様子で二階から駆け下りてきた。