根性焼き
意識を取り戻したのは、それから少し経ってからのことだ。
重い瞼をゆっくりと開けると、まず初めに、淡い光に照らされていることに気づく。
「……うぅ」
「あっ。起きましたか、優さん」
ぼそりと呟かれるその声が、俺の鼻先をふわりと撫でた。
ぼんやりとした視界が徐々に晴れていき、それに伴って、天童の無駄に整った顔面が俺のすぐ近くにまで迫っていることにも、遅まきながらにしてようやく気づく。
「──なっ!?」
俺は驚き、後ろへ勢いよく飛び跳ねた。
「──いっ!?」
直後、ゴン! と後頭部が壁にぶつかり、猛烈な痛みが発生する。
「ってぇぇ……」
足に込めていた力がするっと抜け落ち、立ち上がること叶わず、俺はどすんと音を立てながら廊下に尻もちをついた。
「あーもう、何やってるんですか優さん……まだ動いちゃダメですよ?」
その様子を見て、天童が呆れたような声を上げる。
それから俺の肩にそっと手を置いて、動きを制するよう力を込めた。
「──ぐがっ!?」
ズシン! と、とんでもない重さが肩にのしかかり、俺は思わず悲鳴を上げた。
体感としては、まるでここだけ象に踏まれているかのようである。
俺が人間であること、そして自分が怪力であるということをコイツは忘れているのだろうか?
とんでもない重さに、肩が外れそうになった。
「頭蓋骨が陥没しているんですから、治療が済むまで大人しくしていてくださいね」
肩を置いている方とは逆の手から、再び淡い光が発せられる。
どうやらダンベルをぶつけられて出来た傷を、天使の不思議な力で塞ごうとしてくれているらしい。
パァァと、光に照らされた額がチリチリとむず痒い。
このように、天使には人の傷を癒す力がある。手から淡い光を放つなどして、人間の細胞に影響を及ぼし、強引に自然治癒力を向上させているのだ。
この力には、昔は俺もよくお世話になったものである。
体がまだ成長していなかった頃、母さんからの暴力を受けるたび瀕死になっていた俺は、この力のおかげで何度も証拠隠滅を……じゃなくて、命を救われたものだ。
そうして普通の人間ではありえないほどの超回復を繰り返し、結果として、今の頑丈過ぎる体を手に入れたという訳である。
「……ん? ちょっと待て、お前今なんつった?」
まぁそれはとりあえず今は置いておくとして、天童になんだかとても聞き捨てならないことを言われたような気がする。
もしかしなくても『頭蓋骨が陥没している』と言わなかっただろうか、コイツ。
「大人しくしてくださいと言いました」
天童は俺の質問をはぐらかすよう、手から放つ眩い光をこれでもかとばかりに強めた。
「いや、そっちじゃなくて──ちょ、熱っ! 熱いって!!」
ほんのりと暖かった空気が、突然ドライヤーのような熱風に変わる。
先程までの気持ちよかった治療が、唐突に拷問へと移り変わった。
「集中できないんで、少し黙っててもらえませんか?」
若干怒り気味の天童の声が俺の耳に届く。
眩しくてその表情は窺えないが、たぶん、今は吹雪のような冷たい視線を俺に向けているのではないだろうか。
「お、おい……なんでそんな怒ってんだよお前?」
「…………」
「別に良いだろ、半裸を見られるくらい」
「…………」
「お前だって、俺の恥ずかしいところ天界でいっぱい見てたんじゃねーのかよ」
「…………」
どうしよう、とうとう返事すらしてくれなくなったぞ。
天童は治療が終わるまでずっと沈黙を貫き、黙々と俺の額を焼き続けた。
やがて、手から発せられる光が消えると、
「言っときますけど、私は絶対に許しませんからね」
俺の言葉に相当腹を立てているのか、天童は案の定ムッとした表情でこちらを睨みつけ、「ふんっ」と鼻を鳴らし、プイっとそっぽを向いた。
「こんなにも可愛い私のことをブス呼ばわりしたことも、着替え中の乙女の部屋にノックもせずに入ってきたことも、到底許されるべきことではないのですから」
「いや、だからってダンベルはねーだろ、ダンベルは……。殺す気満々だったじゃん」
ダンベルは筋肉を鍛えるための道具であり、野球ボールのようにして投げる物では決してない。ましてやそれを人に向けて投げるなど、言語道断である。
母さんの拳で散々鍛え上げられた俺の頭蓋骨だって、流石に砕けるというものだ。
「私の裸を見たのですから当然です。むしろこれくらいで済ませてあげたことに感謝してほしいくらいですね」
「これくらいって……頭蓋骨陥没をこれくらいで済ませるのかお前は?」
生死を彷徨うほどのダメージを与えたというのに、謝る気は微塵もなさそうである。
……しかし、そんな天童を見てふと思った。
もしかしたら裸を見られるということは、天使にとっては結構な大事なのかもしれない。
そういえばなと、昔を思い出す。
俺が子供の頃も、たまたま母さんの着替えを見ただけで半殺しにされてたっけ。
例え相手が自分の子供であろうとも容赦なくボコボコにしてしまうのだ。赤の他人から見られるということは、天使にとって相当に屈辱的なことだったのかもしれない。
「……まぁ、そうだな。俺が悪かったよ。すまん」
「え?」
俺がそう素直に謝罪の言葉を口にすると、天童は鳩が豆鉄砲を食ったようなポカンとした表情を浮かべた。
「……どうしたんですか優さん、いきなり? もしかして頭を打っておかしくなっちゃいました? えっ、嘘でしょ? 私のせいですか? もう一発いっときます?」
「なんでだよ!?」
謝ったにも関わらず、突然血のついたダンベルを持ち出され俺は戦慄した。
「なんで謝ったのにもう一回殴られなくちゃいけねーんだよ!? 意味がわかんな過ぎるぞ! ───おいふざけんなバカやめろ! ダンベルを構えるな!!」
俺が必死に抵抗するのを見て流石に冷静になったのか、天童は「すみません」と一言謝り、大人しくダンベルを下ろしてくれた。
マジで焦った。本気でもう一回殴られるのかと思ったぞ。
「ひねくれ者の優さんがこんなにも素直に謝ってくるとは想像もしていませんでしたので、私としたことが少し取り乱してしまいました」
いや取り乱し方が恐ろし過ぎんだろ! 取り乱したんならもっとあたふたしてろよな! なんで真顔でダンベル構えてんのお前!? サイコパスかよ!!
天童は狂気的犯罪者らしく、怯える俺を見てにっこりと微笑む。
「でも、そうですね。自分の非を認め、すぐに相手に謝ることが出来るというのはとても素晴らしいことです。簡単なように見えて、意外と難しいことですからね。絵里先生も天界でさぞお喜びになっていることでしょう」
そう言いながら、すっと俺の方へと手が伸ばしてきた。
「──!?」
反射的に防御態勢に移る俺の頭に、ポン、と天童の小さな手が乗っかる。
今度は押さえつける目的ではないためか、特に重さは感じなかった。
「絵里先生の代わりに、私が頭をなでなでしてあげますね」
予想した痛みが襲い掛かってこないことに一安心していると、代わりに優しく頭を撫でられる感触がやってくる。
なでなでなでなでなでなでなでなで。
「やめろ! 子供扱いするな恥ずかしい!」
流石に照れが生じたので、俺は天童の手を堪らず払いのけた。
この歳になって頭を撫でられるというのは、なかなかにくるものがある。なにか新しいものに目覚めてしまいそうな予感がしたのが、ちょっとだけ悔しい。
これが俗に言う、バブみというやつなのだろうか。
うっかりハマってしまいそうになったが、天童にそんな無様な姿を晒すことは俺のプライドが許さないので、ギリギリのラインで堪えた。
意識を切り替える目的で、話題を強引に変える。
「ていうか、なんだよその格好。これからどこかに出かけるつもりか?」
俺が意識を失っている間に着替えたのだろうか、天童はスカートとパーカーを着用していた。
すでに夜も更けてきた時間帯になっているというのに、その格好はどう見たって寝巻姿には見えない。寝るというよりも、まるでこれからどこかへ出かけようとしているかのような格好だ。
「そうですね……食材が全てなくなってしまったので、せめて朝ご飯の材料だけでも買っておこうかと」
天童は複数のエコバックを取り出し、そう答えた。
確かに天童の言う通り、家の中の食材は他ならぬ天童自身の胃袋によって全て消えてしまっている。
冷蔵庫の中身はおろか戸棚に入っていた保存食も食べ尽くされてしまっているので、買い出しに行かない限り、明日の朝食は用意できないだろう。
とはいえ、だ。
大食らいの天童にとっては死活問題なのかもしれないが、別に朝飯なんて食わなくても平気な俺からすれば、心底どうでもいい話ではあった。
こんな夜遅くから買い出しに行かなくても、明日の朝少し我慢すればいいだけのことだからな。
なので俺は、
「じゃ、気をつけて行ってこいよ」
とだけ言い残して、天童に背を向け部屋を出て行こうとした。
「待ってください」
そこを、腕をガシッと掴まれ止められる。
「…………」
果たして、こんな風にして腕を掴まれるのは今日だけで何度目だろうか。数えるのも億劫なほど色んな人に掴まれているような気がする。
「今度はなんだよ?」
面倒くさそうな顔して俺が振り向くと、天童は子供らしい笑顔を浮かべて、
「何寝ぼけたことを言ってるんですか優さん。優さんも一緒に行くんですよ?」
「……は?」
突然、クソ面倒臭いことを言いだしてきた。
「だって、私一人だと警察に補導されてしまうではないですか」
「…………」
まぁ、言われてみればではある。
すでに時刻は二十三時を回っていて、高校生ならばおいそれと外を出歩いてちゃいけない時間帯だ。
おまけにこの見た目をしているのだから尚のことマズい。
夜中を一人で歩いているところを誰かに見られでもしたら、おそらくはそれだけですぐに警察に通報されてしまうことだろう。
天童一人で買い物をするのは、およそ不可能と言ってもいい。
「一応聞くけど、諦めるっていう選択肢はないの?」
面倒なので、諦めることを勧める。
「はい、ありません」
しかし、きっぱりと否定されてしまった。
「朝ご飯は一日を元気よく過ごすために一番大事な食事ですからね。絶対に食べないとダメなんです」
「ダメなのはお前だけだろうが……。ていうか、お前の元気がなくなってくれるのならむしろ好都合だし……。もう夜も遅いんだから、今日は諦めて早く寝ろ。俺は何があっても絶対に家から出ないからな。寝る」
「ははは、最初から優さんの意見なんか聞いていませんよ」
「おわっ!?」
今度こそ部屋に戻って寝ようとしたが、天童に腕を掴まれたままだということを完全に失念していた。
「いだだだだだ!!」
天使の怪力に俺なんかが逆らえるはずもなく、半ば無理矢理引きずられるような形となって廊下に出される。
「分かった! 行く! 行くから! お願いだからこの手を放してくれ折れる!! 折れる!! あああああああああああああああああああ!!!」
ボキン! と腕の骨が砕け、結局、俺は天童と一緒に深夜の町に繰り出すことになってしまうのだった。