ダンベルは筋肉を鍛えるための道具です
「羊が5082匹……羊が5083匹……」
天童の怒声を聞いてから約二時間後。
俺は掛け布団を頭まで被り、必死に羊の数を数えていた。
「羊が5084匹……羊が5085匹……くそっ」
しかし、眠れない。
部屋に戻ってからすぐにベッドに飛び込んだのまでは良いものの、全くもって眠れない。
時間がいつもよりも早いこと、空腹のせいで寝つきが悪いこと……などなど、眠れない要因は多々あると思う。
が、それでもようやくウトウトとしてきたこのタイミングで発生したこれが、俺の眠れない一番の要因となっていることは間違いないだろう。
「あれー? どこにしまっちゃったかなー?」
ガン! ドン!! バサァァ!!!
隣の部屋から聞こえてくる、爆音である。
「う、うるせぇ……」
耳を塞いでも効果なし。
まるで工事現場を想起させるかのような騒音は、三十分前から俺の眠りを容赦なく妨げ続けていた。
「さっきから何を騒いでんだアイツは?」
だんだんと、脳が苛立ちで覚醒していく。
今まで誰も招いたことがなかったので気がつかなかったが、どうやらこの部屋と隣の部屋を遮る壁は、俺が思っていたよりもずっと薄かったらしい。
そこそこ高い金を払って買った家なのだから(母さんが)、もう少しは壁を厚めの設計しておいてほしかったものである。
欠陥住宅かな? と思わず疑ってしまう程、隣の騒音が耳によく届く。
ドドン! バタン!! ダダダン!!!
「…………」
しばらくすれば収まるかと思っていたが、騒音が静まる気配は一向にない。
いったいいつになれば収まるのか、まったくもって想像もつかない。
「ていうか、今何時だと思ってるんだよ?」
時刻はすでに二十三時を回っていて、夜もだいぶ更けてきた頃合いだ。
そろそろ俺だけでなく、近隣の住民達も皆、床に就こうと寝室に移動している時間帯だろう。
この騒音のせいで、ご近所トラブルに発展しないか非常に心配だ。
コミュ障の俺では苛立った人達が家に押し寄せてきたとしても、適切な対応なんて出来やしない。
せいぜいが天童を盾にすることくらいだが、そんなことをしても火に油を注ぐだけだろう。
なのでそうなる前に、
「よし」
俺は掛け布団をバサッとはねのけて、この爆音をただちに止めてやるため部屋を飛び出した。
別にご近所トラブルを防ぐだけが目的じゃない。俺としてもいい加減我慢の限界だったので、一言文句を言ってストレスを解消しようと思っての行動だ。
「おい、さっきからうるせぇぞバカ! 何やってんだ!」
乱暴な手つきで、扉を強引に押し開ける。
勢いよく扉を開けたのが功を奏したのか、大きく響いていた騒音は意外なほどあっさりと止んでくれた。
「へ?」
その代わり、天童の間の抜けた声が俺の耳に届く。
「…………」
「…………」
お互いの姿を視認して、部屋の中に静寂が訪れた。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、俺も天童も何も言えず固まってしまう。
引っ越しの作業がまだ終わっていないのか、昨日まで何もなかったはずの客間は沢山の段ボール箱で埋め尽くされていた。
おまけに何かを探している最中なのか、床は足の踏み場もないほど天童の私物で満たされている。
「…………」
「…………」
汚い部屋だ。
それだけの話で済んでいれば、どれだけ良かったことだろう。
俺達がお互いを視認して固まってしまった理由は、もっと別の、全然関係ないところにある。
注目すべきは天童の格好。
詳しく説明すると……上はなし、下は夕方に拝んだ花柄のパンツ一丁。
……以上。
要するに、ほとんど裸だった。
「──いっ」
天童の顔が、耳が、みるみるうちに紅潮していく。
「やばっ」
この後に何が起こるのかを瞬時に察知した俺は、慌てて自らの耳を塞ぐ。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! うわぁ! うわわわわわわわわわわっ!? なっ、何勝手に入ってきてるんですか優さん!? バカ!! アホ!! このド変態!!!」
直後、予想以上の大音声が家の中に響き渡った。
天童の絶叫に、空間がビリビリと震える。
耳を押さえていなければ鼓膜が破れてしまっていたんじゃないかと思う程の叫びは、俺を怯ませるのに十分な効果を発揮した。
「──ぶっ!?」
だからこそ、次の瞬間、高速で飛来してきた段ボール箱に反応することが出来ない。
メリッと角を潰すようにして握られた段ボール箱は、まるで野球ボールのようにオーバースローで投げられ、見事なまでのコントロールで俺の顔面にクリーンヒットした。
「いってぇ!?」
軽々しく投げられてはいるが、もちろん中身はずっしり詰まっているので、重たすぎる衝撃が猛烈な痛みとなって俺に襲い掛かってくる。
せめてもの救いは、その中身が硬いものではなかったことくらいか。
放たれた段ボール箱が俺の前でどさりと落ち、中身が盛大にぶちまけられた。
「あっ、これに入ってたんだ!」
どうやら天童の探していたものが見つかったらしい。
天童は小走りで俺の近くまで駆け寄って、廊下に散らばった衣服を急いでかき集めていた。
「うぅ……」
痛みを堪えながら、俺がゆっくりと顔を上げようとすると、
「優さんは見ないでください!」
今度は40㎏相当のダンベルが頭部に飛んできて、俺の意識はあっさり刈り取られた。
……いや、ダンベルは投げちゃダメだろ。