日常――前半――
(まだ、痛みますわね……)
ナタリーはベッドの上で上体を起こすと、自身の首に手を触れてみる。
昨日の闘技、熱砂のエリアで起きた出来事を思い返すたびに、首を締められた跡が熾火のようにくすぶるのを感じる。
不可解な出来事ではあった。気まぐれたる神の行い――のひと言で片づけるには、目の前で起こった事象はあまりにも鮮烈すぎた。
(神たちは、晶の事を狙っていた)
晶は、あれほどの戦いを潜り抜けた後も、息を乱すわけも昂奮するわけもなく、平常と変わらぬいつもの無愛想な仕草でその場に立ち尽くしていた。
「皇 晶……」
ナタリーは、口の中でまるで転がすように、その名を口にしてみる。
自分と同年代でありながら、魔剣を受け継ぎ神殺しと呼ばれる存在として神々から目を付けられている男。
不思議な男だった。共に暮らすようになって、その無感情ながらも時折熱くなる性格を目の当たりにし、ナタリーは晶に対して理解を深める所か、逆に謎が深まってしまっていた。
その晶は、すぐ隣の部屋で沙耶と共に寝起きを続けている。
ナタリーは、晶と沙耶を引き取った当初、ふたりの同部屋に猛反対の姿勢を見せたが、晶の性格を知るにつれ、また、沙耶自身が抱える問題点を考慮し、今では黙認状態でふたりの事を見守る事に決めていた。
(あんな……男の事なんて、どうでもいいですわ)
ナタリーは、ベッドから抜け出しながらそんな事を考えてしまう。
ナタリーが衣服を着替えようと、部屋に備え付けた木製のクローゼットを開ける。
戸を開けた瞬間――クローゼットの中から何かが飛び出してきた。
2対の影、昨日まで自身の腰に収まっていたそれは、狭い所から広い場所へ解放された事を喜ぶかのように、室内を縦横無尽に飛び交う。
少しばかりそうやって飛び回った後、落ち着いてきたのか2対の影はナタリーの周りをじゃれつくようにまとわり付いてきた。
「モラルタ、ベガルタ、わたくしは着替えをしたいのです。大人しくしていなさい」
ナタリーは、幼子に話しかけるかのように影を諭す。
ナタリーの体にまとわり付いていた影は、ナタリーの言葉を聞くと体から離れ、中空で影と影がまるで遊びに興じるかのように、飛び交い始めた。
(なんだか、ペットを飼っているような気分ですわ)
晶の影によって、その形質を変化させた双剣は、現在晶から貸与される形でナタリーの元にあった。
所有権はあくまでも晶の元にあるうえに、元の状態に戻す事も難しいらしく、実質的にナタリーはモラルタとベガルタを晶に取られた形となってしまっていた。
ただ、その事に関してナタリーは、晶に対して別段怒りは感じていなかった。
晶の性格的に、状況を利用してモラルタ、ベガルタの所有権を得ようとしていない事ぐらいは、ナタリーにも分かっている事だったからだ。
寝間着を脱ぎ捨て、ナタリーは下着姿になるとクローゼットの中から自身の装備品を取り出す。
クローゼット内は、年頃の女性の物とは思えないほどに殺伐としており、衣類は最低限の物しかなく、剣や槍、鎧に盾といった武具が、整然と並べられていた。
ナタリーは、普段使いのミスリル銀製の鎧を体に装着させると、クローゼットの奥から使い込まれた一本の剣を取り出す。
ウィップソードと呼ばれる特殊剣で、ナタリーがモラルタ、ベガルタの2対の双剣をエクストラダンジョンで入手するまでの間、使い続けていた相棒であった。
(また、よろしくお願いしますわね)
ナタリーは、昔を懐かしむような表情で少しの間、剣を眺めていたのだが、そんなナタリーの様子を察知したモラルタとベガルタが、自分たちの存在を誇示するかのように、ナタリーの視界の端をチラチラと飛び回り始めた。
「はいはい、あなた達を使わない訳ではないですわよ」
やれやれといった感じで、ナタリーはひとつ息を吐くと立ち上がり、腰にウィップソードを装備した。
これは保険だった。形質が変化したモラルタと、ベガルタが、実戦でどう動くのかわからない部分が多すぎるため、いざという時の備えは必要だと感じていた。
「ナタリー?」
ノックの音と共に、部屋のドアの向こう側から沙耶の声が聞こえてきた。
「沙耶、開いてますわよ」
返事をかえすと同時にドアが開き、沙耶が寝起き顏のまま部屋に入ってきた。
「また泣いてらしたのね」
ナタリーは、沙耶の顔を見てそうつぶやくと、ベッド脇に置かれた小さな丸テーブルの上に、あらかじめ用意していた洗顔用の布地を手にする。
「わかる?」
「わかりますわ」
自分の顔に手をやる沙耶に対して、ナタリーはそう答えると、部屋の出入り口付近で立ったままでいる沙耶の元へ行き、目元に残る涙の名残りを拭い始めた。
「ナっナタリー、自分で出来るよ」
「いいから、じっとしていなさい」
抵抗しようとする沙耶を、ナタリーは少し強めにたしなめる。
(それにしても、ふびんなものね)
ナタリーは、沙耶の顔を拭いながら思う。
沙耶は眠りに落ちるたびに、自身の中の感情を抑える事が出来なくなり、うなされ泣きじゃくってしまう。
感情の暴走と呼ばれるこの症状は、プレイヤーなら誰しもが一度は経験する。そして沙耶は、この感情の暴走に毎夜悩まされていたのだ。
エデンに召喚された人間は、闘技において死を恐れたりしないよう、身体のどこかに刻まれた印によって、感情が抑制される。
それは望郷の念などにも当てはまり、長くエデンにいる人間ほど、元の世界に帰りたいという思いが希薄になっていってしまう。
だが、何かの拍子で抑圧されている感情が表に出てしまう事がある。きっかけは人それぞれで、沙耶の場合は睡眠が引き金になってしまっているようだった。
「ナタリーは、まだ感情が暴走した事がないんだよね?」
沙耶が、おずおずとした感じで尋ねてきた。
「わたくしは……」
「晶がね、言ってたんだ……」
ナタリーが答えるよりも早く、沙耶が話を続けてくる。
「ナタリーは、元の世界に未練を感じていないって」
「どうして、そう思うのかしら?」
ナタリーは一瞬、心の内を覗かれたような気がして、居心地の悪さを覚えた。
「家を見れば分かるって……プレイヤーは普通、住居になんかに興味をもたない。住居を持つという事は、元の世界へ帰還する気がそもそもないんだろうって……言ってた」
沙耶の……いや、この場合、晶のいう通りというのが正確だろうか――ナタリーは、敢えて沙耶に答えを返さず、沙耶の顔をきれいに拭きあげていった。
「できましたわ」
「ありがとう、ナタリー」
『どういたしまして』とつぶやきながら、ナタリーは沙耶と視線を交え、お互いどちらからともなく笑いだす。
「行こうナタリー、もうじき朝食だってヌッホさんが言ってたよ」
「えぇ、行きましょう。沙耶」
ナタリーと沙耶は部屋を出ると、一階の食堂を目指して歩きだす。
「おはようございます、ご主人様」
広く長い廊下を歩いていると、パタパタと忙しなく駆けまわっているホビット達が、ナタリーと沙耶に声を掛けてきた。
なにせ、広大な家というよりは屋敷で、ナタリーひとりで維持出来るものではない。
そこで、ナタリーはコルでホビットを下働きに雇い、屋敷の管理はそちらに丸投げしていた。
「おはよう、お仕事ご苦労様ですわ」
「勿体無いお言葉で」
あいさつをしてきたホビットの若者は、ナタリーが労いの言葉をかけると、被っていた帽子を脱ぎ胸に抱え、感激の眼差しでナタリーの事を見上げてきた。
ホビットたちは、小柄な体格の割りに力もあり、勤勉で真面目によく働く。実際、ナタリーの事を見上げていたホビットの若者も、すぐに帽子を被りなおすとパタパタと足音をたてながら、再び仕事へと戻っていった。
「ナタリーって、どこかのお姫様みたいだね」
沙耶のつぶやいた言葉に、ナタリーは笑顔で返すだけで、明確な答えを口には出さない。
「沙耶、そういえば晶を見かけませんが、まだ寝ているとかじゃないでしょうね」
ナタリーは話題を変えようと、晶の事を沙耶に訊ねる。
「起きてるけど、朝食はいいんだって」
「まさか、昨夜もずっと……?」
沙耶が見せた表情で、ナタリーは発した疑問への答えと受けとった。
晶は、ナタリーから闘技における過去の記録映像の閲覧方法を聞きだすと、その日の夕食にも顔を出すことなく、部屋にこもり映像に見入っていた。
「沙耶、先に食堂へ行ってください。わたくしは晶の所へ行ってきます」
ナタリーは、怒りに引きつりそうになる表情を我慢しながらそう言い捨てると、沙耶に対して背を向け、元来た道を引き返し始めた。
「ナタリー、お手柔らかにね!」
(それは、無理というものですわ)
背後から聞こえる沙耶の言葉に、ナタリーは心の中で否定しながら、足早に歩き去った。
呆れた話だ――普通にエデンで生き残るための日々を過ごしていれば身につくレベルのプレイヤースキルを、晶は全くというほどに知らなかった。
(まぁ、晶らしいといえばらしいですけど)
そんな事を思いながら、ナタリーは広い廊下を歩いていく。
廊下に面した大きなガラス窓から射し込む光に、ナタリーの銀の髪がキラキラと陽の光を浴びて輝いている。
色素の薄い肌は、元いた世界においては、何かと不便をきたすことが多かった。
エデンに来て、こうやって普通に太陽の光の元に肌を晒せるようになり、初めてナタリーは自由に外を出歩く事の楽しさを知ることができた。
プレイヤーとなる事で、生きている実感をようやく得る事が出来たナタリーにとって、プレイヤーで無くなる事など考えられない事であり、帰還したいなど思いもしない事だった。
「晶さん、はいりますわよ!」
木製のしっかりとしたドアのノブに手を掛けると、ナタリーはノックもせずドアを開け放ち、室内へと足を踏み入れる。
沙耶がきっちりとしているせいか、室内はきれいに利用されているようで、ベッドに敷かれたシーツなどもきちんと洗いに出されている。清潔感のある室内の様子に、ナタリーは感心しながら晶の姿を探しはじめた。
やがて、薄暗い室内の片隅に晶の姿を見出すと、ナタリーは呆れた表情で息をひとつ吐いた。
晶は、広い室内の片隅に揺り椅子を置き、そこに腰を掛けたままの状態で瞳を閉じ動く事なくジッとしていた。
闘技の記録映像は、プレイヤーの脳裏に再生される。過去の記録から最新のものまで見る事が出来るこの機能は、さまざまなエリアの特性やモンスターの特徴を知る上で、とても有用なものではあった。
(それにしても……)
ドライで、何かに熱中している所など見たこともないこの男を、ここまで夢中にさせている映像とは何か――ナタリーは少し気にはなっていた。
「晶さん!」
ナタリーは晶の肩に手を掛けると、揺さぶりながら声を掛けた。
「ん……」
晶は小さく呻きながら、ゆっくりと閉じていた瞳を開いていく。
「なんだ、ナタリーか」
「『なんだ』じゃありませんわ」
長時間腰掛けて痛むのか、晶は揺り椅子から勢いよく立ちあがると、体中の筋を伸ばしはじめた。
「あぁ、陽が昇っていたのか」
晶が、外に面した窓から射す陽の光に、目を細めさせながらつぶやく。
「『陽が昇っていたのか』じゃありませんわ」
ナタリーは腰に手をあてると、呆れたような口調で晶の事を咎めた。
「朝から何を怒っているんだ、ナタリー?」
「怒ってるのではなく、呆れかえっているのですわ!」
怪訝な表情を見せてくる晶に、ナタリーの語気が強くなってしまう。
「呆れる?そういえば、沙耶が見当たらないが……」
「沙耶なら、ひと足先に食堂へ行かさせました」
「そうか……」
晶は、素っ気のない返事をかえすと、再び椅子に座り直し瞳を閉じようとする。
「晶さん、何を座り直しているのですか?」
「映像の続きを観るためだ」
(これは、重症ですわね)
ナタリーは、興奮しかけている自身の気持ちを落ちつけようと、深呼吸をする。
晶をそこまでさせているものが何なのかは大体察しがつく。だからこそ、ナタリーは納得がいかなかった。
「今朝、沙耶が泣きはらした顔でわたくしの部屋にやってきました」
ナタリーは再び自分の世界へ入ろうとしている晶に、努めて冷静に話しかける。
「……暴走を起こしたか」
晶は閉じかけた瞳を開き直すと、ナタリーの事を見あげる。
「『起こしたか』ではありません!」
取り澄ました表情の晶に、ナタリーは声高に叫びながら、晶の両肩を激しく揺さぶった。
「晶さん……あなた、いったいどうなされたというのですか?」
「ナタリー……」
真剣な眼差しで見つめるナタリーに、晶の瞳が微かに揺れる。
「晶さん……わたくしは、あなたの事を詮索するつもりはありませんわ……」
『だけど』ナタリーは、そうつぶやくと言葉を続けていく。
「あなたは、沙耶の身柄を引き受けたのでしょう?守ると誓ったのなら、最後まで筋を通しなさい」
「ナタリー、俺は……」
「分かっていますわ、言わなくとも。エデンからの帰還のためのヒントを、映像記録から得ようとしているのでしょう」
(1000人はいるであろうプレイヤーが見付けれないものを、晶さんひとりで頑張った所で……)
そう思うナタリーではあったが、晶のやっている事を無駄だと言うつもりもなかった。晶は神殺しなのだ。普通のプレイヤーと違う晶なら、何か手掛かりを得るかもしれないという思いがあったからだ。
ナタリー自身は、帰還するつもりはない。だが、ナタリーに他のプレイヤーの帰還を邪魔しようという気持ちもなかった。
「沙耶を帰してあげたいという気持ちはわかります。でもね……晶さん。その事で、沙耶が辛い思いをするようでは意味はないと、わたくしは思いますわ」
ナタリーの話を静かに聞いていた晶は、肩に置かれたナタリーの腕を優しく外すと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「すまない、ナタリー」
「謝る相手が、違うのではなくて?」
「それもそうだな」
晶は、短くつぶやくと部屋から足早に退出していく。
広い室内――ひとり残されたナタリーは、晶の温もりが残る椅子の背もたれに指を這わせる。
(なんて、不器用な男なの……)
「わたくしも、似たようなものね」
ナタリーは独りごちると、静かに部屋を後にした。




