ボロ長屋
午前5時、まだ寝静まっているような夜明け前の薄暗さの中、俺は住処である古びた町営住宅の玄関ドアに鍵を差し込むと、だましだまし解錠する。シリンダーもキーも摩り減っていて、容易に解除できないのだ。劣化しているのはそれだけではない。二世帯連棟のボロ長屋の色あせたモルタル壁はひび割れ、安物のセメント瓦は苔むし、汲み取り式の便所の臭突のモーターはいかれて嫌な音を立てている。
そんな朽ちたような建物が10棟20世帯、疎外されたように町の外れにかたまっている。うらぶれた貧乏人と病人、年寄りだらけのスラム街のような場所だ。・・・この長屋の群れにいったい何世帯何人が暮らしているのか知らないが、28歳の俺がもしかしたら一番若いのかもしれない。
ようやくドアを開けると半畳もない土間で、アスファルト合材のこびりついた安全靴を脱ぐ。狭い洗面所で汚れた手と顔を洗う。
ひとり者の俺は地元の土建会社の作業員で、昨日から明日までの三日間の予定で夜間作業の舗装工事をしている。普段はめったに夜間作業などないので、肉体的にも精神的にもかなり堪えていた。・・・鏡の中の顔を眺めるとヘルメットの跡のついた頭髪は脂でベタついていたが、シャワーを浴びる気力も湧かないので汚れた作業着を洗濯カゴに放り込むと下着だけ替えた。
ささくれ立って黄色く褪せた畳に敷きっぱなしの布団に座ると、24時間やっているハンバーガー屋で買ってきた包みを開けてチーズバーガーをほおばる。枕元の一升瓶から置きっぱなしのコップに焼酎を注ぐ。・・・生ぬるい食い物と生ぬるい飲み物を交互に胃に流し込むと、酔いはすぐに訪れた。ふわりふわりと眠気に支配されながらテレビの電源を入れると、もう朝のニュースがはじまっていて俺とは対照的な顔つきのキャスターが早口でなにかしゃべっている。俺は心地よい気分で次々に焼酎を注いでは飲み干した。
『ブーッ』玄関のブザーが鳴った、まだ6時を回ったばかりだった。(こんな朝っぱらから誰だ・・・)俺は少しうつろになってきた目でドアを眺めたが、玄関まで行く気にはならない。(おおかた近所の新聞配達がついでに勧誘にでも来たんだろうが、こんな非常識な時間に誰が出てやるか)俺は無視を決め込んでタバコに火を点けた。
『ブーッ』またもやブザーが鳴った、俺は舌打ちとともに怒りに火が点く。「うるせえな!何の用だ!」布団に座ったまま玄関に向かって怒鳴りつけた。茶色に褪せたペラペラのドアの向こうにも充分に声は届いているはずだ。だが何の返事もない、それどころか間を置いてまたブザーが鳴る。(このクソ野郎が!)俺は我慢がならなくなって立ち上がると、畳を踏み鳴らして玄関まで行きドアを勢いよく開けた。「いったい何のつもりだ!」捨てゼリフを吐いた直後、俺は唖然となる。立っていたのは制服の警察官だった。
「朝早くに失礼しました」まだ若そうな警察官は、目深にかぶった制帽の頭を丁寧に下げる。俺はドアノブを握ったまま黙っていると、「聞き込みなんですが」と言いながらポケットから手帳を取り出した。「・・・実は昨日の深夜、お宅の5軒先の家で強盗殺人事件がありまして」と話し出した。「強盗殺人?」俺は聞きなれないセリフに少しだけ酔いが醒めた。
「はい。橋爪周造さんというひとり暮らしのお年寄りが殺されまして。・・・橋爪さんご存知ですよね?」警察官は上目遣いに俺の顔をジロリと見た。俺は途端に不快な気分に襲われたが、実際に橋爪などという年寄りとは面識がなかったので、「名前も知らないし顔も見たことねえよ」と答えた。すると警察官は黙ったままボールペンを持った右手で、アゴにある大きなホクロを掻いた。
そして、「ご存知ない?ご近所なんですがね」またも上目遣いで俺を見た。(・・・この野郎、俺を疑ってやがるのか)不快な波は一層強くなったが相手が警察官なので、「俺は仕事に出てるから近所の人間と顔を合わすことがないもんでね。・・・それに昨日の夜は今日と同じで夜間作業だったから、俺はここにいなかったよ」と、なるべく穏やかに答えた。
すると警察官は「そうですか、夜間作業ですか。ちなみに何時ごろ戻られましたか?」と、警察特有の射抜くような視線を向けてくる。俺はますます嫌悪感に苛まれたが、実際に帰ってきた時間を告げた。今朝と同じ5時頃だったはずだ。
「その時になにか不審な人物を目撃しませんでしたか?」警察官の語気は少し強くなった、目つきには明らかに俺を容疑者扱いしている光が宿っていた。俺は憤りに火が点く。「あんた、そんな暗い時間に誰かがいたって見えやしねえだろうが。俺は誰も見てやしねえよ」ついに声を荒げた。
警察官は唇をゆがめながら、「そうですか、わかりました。・・・それでは念のためにもう一度お尋ねしますが、あなたは昨日の夜ここには不在で怪しい人物も見ていない・・・ということですね?」と見つめてきた。「しつこいな!なんだったら俺のアリバイでもなんでも調べてみろよ!」俺はキレて怒鳴ると、そのままドアを勢いよく閉めた。
そのまま居間に戻り布団に座り込むと、空のコップに焼酎をなみなみと注ぐ。「まったく頭に来る野郎だぜ、完全に俺を疑ってやがる。・・・いいさ、俺の会社に行ってアリバイを調べりゃわかることだ」俺はついつい声に出して呟いた。コップの半分ほどを一気に飲むと、「だいたい夜中に怪しいヤツがうろついていたって、暗くて見えやしね・・・あっ!」俺は突然、あることを思い出した。(・・・見なれねえ男、見た・・・)
それは昨日の夜明け前、俺は長屋から少し離れた駐車場に軽トラを停めて歩いて帰宅するところだった。長屋入り口あたりでハンティング帽をかぶりマスクをつけた年齢不詳の男とすれ違った。黒っぽい上下で俺とすれ違う時に顔をそむけるように足早に去っていった・・・。
(あの男がそうだったのかも)俺はさっき思い出せなかったことを激しく後悔した。(あのサツの野郎にこのことを報告していたら、こんなに疑われることもなかったかもしれねえのに)だが、俺の酔いは深くなり、そのまま布団に寝転がった。
翌日の午前5時、3日間の夜間作業がようやく終わりホッと安堵しながら家路をたどる。ちょうど不審なハンティング帽の男と遭遇した地点で立ち止まり、あの男のことを思い出そうとした。だが男の人相の手掛かりとなるようなことはひとつも浮かんでこなかった。(殺されたじいさんのことすら、名前も姿も知らねえような長屋の住人か、俺は」いくらか殺伐とした気持ちになった。
部屋に帰るとシャワーを浴びて冷蔵庫の缶ビールの栓を抜いた。(そういや今日あたり、俺のアリバイ調べに会社にサツが行くかもな)俺はバスタオルで頭を拭きながらテレビをつけた。
『一昨日○×町の強盗殺人事件の容疑者が逮捕されました』地方版のニュースキャスターの声にギョッとなり、画面を覗きこむ。『被害者の○×町の無職、橋爪周造さんの甥にあたる男が、今日未明逮捕されました。男は容疑を認めているようです。県警によりますと、男は叔父にあたる橋爪さんと金銭のトラブルがあったようです』
(・・・!)容疑者の顔写真が画面に大きく映され、俺は心臓が止まりそうになった。(あの警察官じゃねえか!どういうことだ!)大きく映された顔写真には、あの鋭い目つきとアゴのホクロが鮮明に映っていた。俺はしばらくの間考え込んでいたが、やがてひとつの結論に達した。
・・・あの男は叔父を殺して逃げる時、仕事から帰ってきた俺と鉢合わせした。俺ははっきりした特徴はつかんでなかったが、ヤツは俺に姿を見られたことを気にかけていた。多分、目撃されたのは俺だけだったのだろう。そして俺の顔を憶えていたヤツは、俺を探しだすために警察官に変装してこの部屋にやってきた。
そしてもっともらしく俺から根掘り葉掘り聞き出し、どこまで知っているのか確認したのだろう。わざわざ大きな特徴ともいえるホクロに指をやったのも、俺の反応を見るためだったのかもしれない。
そしてあの時俺が、『ハンティング帽にマスクの黒っぽい服の男』の話をヤツにしていたとしたら、俺は多分生きてはいなかっただろう。