黒い人影
廊下はしんと静まり返っている、どの教室も授業中だからだ。ぼくは昨夜から奥歯の虫歯が痛くて、今朝は我慢できずに歯医者に立ち寄ってきたから、こんな中途半端な時間に廊下を歩いているのだ。
・・・通常に登校していれば、こんな経験はしなかったのかもしれない。
ぼくはまだ疼く頬をさすりながら、三年一組の教室に向かっていた。途中、左に交差する廊下に差し掛かり、何気なく左方向に目をやり、思わず立ち止まる。
(あれは誰だろう?)だいぶ離れた先に、黒っぽい服を着た小柄な人影が見えた。(先生でもなさそうだし・・・)人影はこちらに背を向けて歩いているようだが、なぜかその人物の周りには靄がかかったようにボンヤリしていて、はっきりしない。
不審に思い、その行く末を窺っていると、やがて人影は左に体の向きを変え、廊下に面したドアを開けることもなくその部屋に入っていった。まるで煙か霧のようだった。
(・・・!)ぼくは自分の目を疑い、呆然と廊下の先を見つめる。(人影が消えた・・・)そして思わず小走りに駆け出すと、その部屋の前まで行ってみた。
そこは『女子バレーボール部』の更衣室だった。無機質なクリーム色のドアをノックしてみる、返事はない。
(だけどあの人影は、たしかにここに入っていったように見えたけどな)ぼくの頭にはさっきの光景がはっきりと残っている、考えただけで不気味だが、ぼくは好奇心に支配されはじめていた。
更衣室の前でしばらく躊躇ったが、思い切ってドアノブをまわしてみる。鍵は掛かっておらず、ドアは内側へスーッと開いた。ドキドキしながらドアの隙間に顔を突っこむと、左右に首を振って内部を眺め回す。そこは六畳ほどの広さで、幅の狭いロッカーが前面に並んでいて、左の壁には大きな姿見の鏡が掛かっている。・・・誰もいない。
もう一巡見回してみる、(・・・!)大きな鏡の中に人影が映っている、そしてそれはすぐに消えた。ぼくはギクリとしたが、どうしても正体を確かめたい衝動に駆られて、思わず部屋に忍び込む。
鏡とその対面の壁を眺めたが、怪しいものはない。ドアにはクローザーが付いているので、パタリと閉まった。
(なんか、あの怪しい人影に誘い込まれたような気がするな)部屋の中央に立ち尽くしていると、じきに終業のチャイムが鳴り、ぼくは我に返った。
(やばい、早く部屋を出なきゃ)そう思ってノブに手を掛けた時、廊下から女子の声が聞こえてきた。そしてその声はこっちに近づいてきている。(やばい、本当にやばい。こんなとこで女子に見つかったら大問題になっちまう!)ぼくはネズミのようにあわてふためき、周囲をキョロキョロ見回すが、逃げ道など当然ない。
(どうしよう・・・)女子はなにか話し合いながら、足音はドアの外で止まる。すぐ向こうにいるのが判った。(こうなったら!)ぼくは目の前の細長いロッカーの扉を開けて、そこに身を差し入れて扉を閉めた。ほぼ同時に更衣室のドアが開く。
「ん?・・・今、人の気配がしなかった?」そう言いながら入ってきたのは、バレー部キャプテンの雅美だ。「そう?私は気がつかなったけど」続いて入ってきたのは、一年の頃から密かにぼくが想いを寄せている、隣のクラスの未樹だった。
(うわっ、マジでやばい!これで見つかったら、ぼくの人生は終わりだ!)ぼくはロッカーの目線にある隙間から、彼女たちを眺めて息を殺した。そして扉の内側の折り返し部分に、指を引っ掛けて手前に引っ張った。額からは異常に汗が吹き出て目に入るが、拭う余裕などない。
「だけどさ未樹、そんなに好きなら、思い切って告白しちゃえばいいじゃん」雅美は髪を束ねながら、未樹に話しかける。「うん、・・・でも勇気が出ないよ。もし和志くんに好きな人がいたら・・・」
(えっ?)ぼくは未樹の口から出た自分の名前を聞いて、頭をぶん殴られるような衝撃を受けた。(未樹がぼくのことを好き?まさか、そんなことありえない)ぼくは身動き出来ない、狭いロッカーの中で息をひそめて、天国と地獄のような気分を味わう。額から伝う汗はさらにひどくなった。
「さてと着替えなきゃ」雅美の顔が、薄い鉄板一枚で遮られた目の前に来た。(やばい!ここ雅美のロッカーだったのか!)そして扉を引っ張る。「あれ?どうしたんだろ、開かないな」雅美は扉の取っ手をガチャガチャと動かす。ぼくは汗で沁みる目を塞いで、渾身の力で扉を引っ張った。
しばらくそうしていたが、やがて雅美はあきらめて、「鍵掛けた覚えないけど、先生から借りてくる」と言いながら、更衣室から出て行った。ぼくは思わず深いため息を、無言でついた。
・・・これで更衣室の中は、ぼくと未樹の二人だけになった。
未樹が元から茶色がかった髪を後ろで束ね、白いブラウスのホックを外して前を開けた瞬間、ロッカーの中のぼくの背中が、強い力で押された。不意をくらって扉にぶつかると、そのまま外へ弾き出される。「わーっ!」飛び出したぼくと未樹の目が合い、お互いに目を見開いたまま、凍りついたように止まった。ほんの短かい時間だが、ぼくには何倍も長く感じる。(終わったな、すべて・・・)
我に返った未樹はあわててブラウスの前を隠すと、「和志くん、なんで?」と落ち着いた声で聞く。ぼくは悲鳴を上げられると覚悟していたので、ちょっと拍子抜けした。しかし絶望的な状況は変わらないと思った。
ぼくは「信用してはくれないと思うけど」と前置きしてから、廊下で黒い人影を見たところから話をはじめた。未樹は黙ったまま、ぼくの話を聞いている。全てを話し終え、「これは真実なんだけど、あまりにも嘘くさい話だろ?だから信じてくれなくてもいいよ」と、ため息まじりで締めくくる。
未樹は少しの間沈黙すると、「信じるよ、その話」とポツリと言う。「それで、これからする私の話も、信じられないかもしれないけど」と前置きした。今度はぼくが沈黙する。
「その黒い人影、多分私のおばあちゃんだよ。去年亡くなったんだけどね」未樹は宙を見つめて、少し嬉しそうな懐かしそうな顔をする。ぼくは理解できずにいる。
「生きてた頃からね、いたずら好きなおばあちゃんだったんだよ。でも、いつも私が喜びそうなことを仕掛けてきてね」未樹は祖母を思い出したのか、少し目が赤くなってきた。
「・・・ちょっと前にね、あれは夢だったのか夢枕に立っていたのかわからないけど、『未樹が好きな男の子はだれ?』って聞いてきたんだ」その途端、ぼくはカーッと身体と顔が熱くなってきた。
未樹はそれ以上なにも言わなかった。ぼくもなにも言えなかった。
ただ、(ばあちゃん、サンキュ)とだけ、心の中で呟いた。