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魅惑の黒タイツ

練習短編四作目です。特にガッツリくるストーリーでもないので、気軽に読んでくれたらいいです。

 うららかな春の昼下がり。俺は桜の花びらがちらちらと散る公園のベンチに座って、道行く人を見るとはなしに眺めていた。ニートになって早一年、そろそろ貯金も底を尽きかけていたが、さりとて情熱を燃やせそうな仕事も見つからない三五歳。

「お隣、よろしいですかな」

 不意に声を掛けられて、振り返ると、老執事という言葉がピタリと当てはまりそうな、白髪で髭を生やし、燕尾服などを着た上品そうな老紳士が立っていた。俺は「どうぞ」と席を詰めた。

 二人は最初交わす言葉もなく、散りゆく桜や往来の人々を眺めていたが、ふと老紳士が呟いた。

「もう冬も終わりですな。寂しくなります」

「冬がお好きなんですか」

 俺は聞き返した。老紳士は人生の悲喜こもごもを見てきたような静かな表情で首を横に振った。

「黒タイツが、です」

 一瞬何のことだかわからなかった。

「黒タイツ、ですか」

 俺が再び問うと、老紳士はゆっくりと頷いた。

「そう。冬場に女性が穿く、あの黒タイツです」

 俺は返答に困った。この紳士然とした老人の口から突拍子もなく黒タイツの話題が出てくるとは思わなかったからだ。

「いやぁ黒タイツはいい。あの光沢といい(なまめ)かしさといい、女性の足を細くみせる美脚効果といい……」

 老紳士はきちんと背筋を伸ばしながらも、まるで黒タイツを探すかのように道ゆく女性たちの足下を眺めていた。

「今時の若者はすぐに体の方に目をやりたがる。やれ、巨乳だの、おっぱい星人などと。そしてすぐに脱がして行為に及ぼうとする。まるで衣服は邪魔だといわんばかりだ。着衣ゆえの色気に気がついていない」

 老紳士の言葉が次第に熱を帯びてきた。

「女性も女性です。今の流行は模様入りのタイツだそうですが、まるで入れ墨感覚で穿いている。あんなものは邪道です。タイツというのはもっとこう……」

 そこで老紳士の動きがはたと止まった。見ると恥ずかしさと若干の失望感が顔に表れていた。

「これは失礼しました。初対面の方にこんな話をしても、変な年寄りの戯言と戸惑われるだけでしょうね」

 老紳士はその場を辞そうとベンチから腰を上げようとした。

「待ってください」

 俺は慌てて呼び止めた。

「わかりますよ。俺も……俺も黒タイツフェチですから」

 ニヤリと笑ってみせた。老紳士の表情がみるみるうちに喜びと親愛に満ちたものに変わった。

「あなたもでしたか」

 まさに同志を得たりと言わんばかりに、老紳士の目が輝く。

「やはり黒タイツは至高ですよね」

 老紳士が同好の士に賛同を求めるように言う。俺はしかつめらしく人差し指で眼鏡を押し上げて持論をぶった。

「ただの黒ではいけません。太ももとふくらはぎ辺りがかすかに透けてみえる濃さのタイツがよろしい」

「おお、八十デニールですな」

「そう、四十では薄すぎるし、百では濃すぎます」

「まさに同感です」

「そしてふくらはぎから(くるぶし)にかけてまた黒に戻る、このグラデーションが引きつけられます」

「女子高生のローファーとの組み合わせなどが最高です」

「柄物もせいぜいダイヤ柄くらいまでです。最近の模様はすこし度を逸している」

「その通り」

 老紳士は我が意を得たりとばかりに大きく何度も頷いた。

「私は医者に酒を止められてますが、四十年、いやあと五年早くあなたと知り合えていたらいい酒が飲めたのに」

 老紳士は心底悔しそうだった。

「申し遅れました。わたくし、こういう者です」

 老紳士は名刺を取り出して俺に渡してきた。名刺には株式会社不服助(ふふくすけ)・会長 不服兼三、と書いてあった。

「不服助っていったら大手の靴下メーカーじゃないですか。しかも会長だとは」

 俺が驚いて言うと、不服老人は気恥ずかしそうに頭を掻いた。

「あなた、リビドーという言葉をご存知ですかな」

「リビドーですか。よくわかりませんが、どこか淫靡(いんび)な響きがしますね」

「そう、淫靡です。リビドーとはラテン語で欲情を意味します」

 やはり、恐るべきラテン語。

「黒タイツにはリビドーがあります。私は黒タイツを見る度に、まるでリビドーの大波に飲まれたような錯覚を覚えます。黒タイツから透けた足が『もっと私を見て』『もっと私を感じて』と妖艶に誘いかけるようではありませんか。もう見ているだけでムッハーとなってしまって、例えようのない興奮に満ちあふれるのです。発育途中の女子高生たちの伸びやかな黒タイツ、上品なOL達の色っぽい黒タイツ。もう黒タイツに埋もれて死にたいとさえ思えるわけです。わかりますか、この気持ち」

 もちろん、と俺は強くそれに賛同した。なにいう俺も、黒タイツで飯三杯はおかわりできる口だからだ。

「しかし、残念なことです」

 不服老人は膝に置いていたしわしわの両手を眺めた。

「今や若い女の子が惜しげもなくミニスカートから黒タイツの足をさらけ出している時代だというのに、私はもう年をとった。今年で七十九になります。いつお迎えが来てもおかしくない年齢だ。なのに黒タイツが拝めるのは冬の時期だけです。果たしてあと何回魅惑の黒タイツを見る事ができるのか……」

 確かにそう考えれば人生とは長いようで短い。仮りに百年生きたとしても、冬を迎えられるのは一生のうちでたった百回しかないのだから。

「ああ、死ぬまでにもっと黒タイツを眺めていたい」

 不服老人はつぶやくように言った。彼の目に映っている光景は絶望だろうか。それとも、抗いがたい欲求への未練だろうか。

「では」俺はまた眼鏡を人差し指でクイっとあげた。

「夏用の黒タイツを開発してはどうですか」

「なん……ですと」

 不服老人はまるで虚を突かれたような表情を見せた。

「しかし、黒タイツは本来防寒がその役目。それを夏場にもってくるというのは……」

「冷えるタイツを作るんです。例えば、保冷剤のようなものをナイロン糸に編み上げて、冷蔵庫で一晩冷やせば翌朝ヒンヤリ、みたいな」

「そんな……アイデアがあった……とは」

「逆転の発想です」

 俺は少し得意げに笑った。

「だが確かに冷えるタイツなら冷房いらずで、クールビズ商戦にも打って出られるかもしれない」

「おまけに一年中黒タイツが眺めていられる」

 俺がそう付け加えると、不服老人は考え込むように額に縦じわを作っていたが、不意に顔を上げると聞いてきた。

「失礼だが、君、仕事は」

「ニートです」

 堂々と答える。それを聞くとまた不服老人は驚愕の表情を見せた。

「信じられない。在野にまだこんな才能が眠っていたなんて……」

 彼の頬に心なしか赤みがさして見えた。老い先短い老人に、一縷(いちる)の希望が見えた瞬間だったのかも知れない。不服老人が情熱の籠った眼差しで両手を差し出してきた。

「君、ウチの会社の開発部で、その冷えるタイツを開発してみませんか。いや、是非してほしい」

 欲情を活かせる仕事。これ以上のやり甲斐があるだろうか。これを天職といわずなんという。

「やりましょう」

 俺は二つ返事で返した。そして不服老人の差し出した手を固く握りしめた。

 頭の中で妄想がはじけ飛ぶ。

——主任、夏場のタイツは日光を跳ね返す意味でも白の方が……。

——ダメだ。タイツは黒だっ(キリっ)。

——主任、ダメです。保冷剤が上手く絡まりません。

——あきらめるな。あきらめたらそこで終わりだぞっ(キリっ)。

 ああ、なんて楽しそうな職場だろう。俺はまだ見ぬ将来に期待を膨らませた。

 ビバ、リビドー!

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