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「生徒に手を出しちゃだめよ、宗田」
宗田と繋いだ手を見ながら言う。
「……誰が、生徒だ」
「はい、先生。わたしがです」
「ばぁか。ずっと言ってろ」
「ずっと、言っていたいよ」
空を見上げた。
高い、広い、青い空。
「あのさ、宗田。長生き、してね」
宗田の顔を覗き込む。
わたしが知るより、少し大人の顔になった宗田を。
「それで、たくさん、たくさん、誰かを好きになってね」
宗田に言ってやりたいこと――意地悪な気持ちもたくさんあったのに、こうなるとそんな気持ちは全て消えてしまうから不思議だ。
「朝倉も」
宗田の声が震えている。
「幸せになって」
えっ、と宗田の顔を見る。
「ばか、見るな」
宗田が空いている腕で、目を拭う。
宗田が、泣いている。
「幸せになって」
もう一度、宗田が言う。
――幸せになって、なんて。
だってわたしは、もう。
「朝倉が、どこにいても。……どこにいてもっ! 俺は、朝倉の幸せを応援するからっ!」
……宗田ってば。
宗田ってば!
もう、なにその、やけにオトコマエな体育会系の台詞は!
「宗田ってば、脳みそ筋肉君?」
「その筋肉に、勉強教えてもらっていたのは誰だ」
「はい、わたしです」
手をあげる仕草にかこつけ、宗田から手を離す。
そして、そのまま立ちあがった。
けれど、わたしの手は再び宗田に掴まれた。
「どうしたの?」
「いかないでくれ、朝倉」
「なにを言い出すのよ」
「俺は、傲慢でバカで無知で、朝倉の言う通り、脳みそが筋肉だった」
「随分ないいようね」
「朝倉には、いつでも会えると思っていた」
「陸上部は仲がよかったからね」
「そうじゃなくて。そういう意味じゃなくて」
宗田が黙る。
「朝倉はいつも、俺を応援してくれていた。見てくれていた。朝倉の視線を、俺は当たり前に感じていた。高校時代から、ずっとそうだったから、そのありがたさに気が付かなかったんだ。大学4年の春の大会に朝倉は来なかった。夏の陸上の同期会にも来なかった。秋の大会にも朝倉が来なかったとき、俺は、なんだか、見放されたような、捨てられたような気持ちになったんだ」
宗田の話に驚く。
「宗田断ち」は、わたしが思う以上の効果があったわけだ。
でも、どうしてだろう。少しも嬉しくない。
「朝倉は、それ以降も、陸上の集まりには来なかった。彼氏ができたとか、そんな話も聞いた。なんだか、すごく腹が立った。なんだよ、俺のこと好きだとか言っていたくせに、その程度だったのかよって思った。そこまでいって、ようやく目が覚めた。自分の気持ちに気が付いた」
宗田がわたしの腕を掴んだままで立ち上がった。
「俺、朝倉 香奈が好きだ」
まさかの告白に言葉が出ない。
「大切だったのに、気が付かなかった。朝倉は好きだと言ってくれたのに、俺は友達だと答えてしまった。あのときの俺は、本当にバカだった。見た目ばかりが女の子らしい子に惹かれて、なびいた。朝倉の優しくて、思いやりがあって、人を励ます、そんな素晴らしいところを、友人なら当たり前に享受できることとして、軽んじた」
宗田の言葉がわたしの心にしみてくる。
「それでもまだ、俺はバカだった。朝倉には会えるって。いつでも会えるって。まさか、朝倉がいなくなるなんて、想像すらしなかった」
しんと静まる。
宗田もわたしも、なにも言えなくなってしまった。
宗田の後悔は、まるまるわたし自身の後悔でもあった。
すべて、過去のことなのだ。
――待って。
そうなの?
本当に、過去だけ?
わたしには、過去しかないの?
――違う。
違う!
こうしている今だって、刻々と時は流れている。
息を一つつくだけの、ほんのわずかな時さえ未来と呼べるのなら。
わたしは今まさに、未来を生きている。
だから、1分でも1秒でも。
最後の最後まで貪欲に、後悔なんかしない生き方ができるはずだ。
宗田に向かい、えへへと笑う。
「宗田。好きをありがとう。わたしも、ずっと、ずっと、ずーっと、宗田が大好きだった」
宗田が眩しそうな顔でわたしを見た。
そんな顔で宗田に見られたのは、初めてだった。
高校生の頃の宗田。
大学の競技会で遠くから見た宗田。
そして目の前にいる、大人になった宗田。
その全部を、悔しいくらいに好きだった。
ずっと、ずーっと、大好きだ。
そして、たぶん、この先も、わたしはずっと宗田が好きなのだ。
宗田を好きな未来は、わたしが決めた、わたしだけのものだ。
わたし、幸せだ。
こんなに好きな人に出会えて。
そして、その人から好きだと言ってもらえて。
涙がこぼれそうになる。
でも、ここでわたしが泣くのは反則だ。
だから、思いっきりの笑顔で宗田を見た。
笙子の姿でも、宗田がわたしを見つけてくれたように、きっとこの笑顔も届くと思うから。
宗田が目を細めた。
「朝倉は、俺の、……俺たちの、太陽だった」
宗田はそう言うと、わたしが大好きな、宝物のようなとびきりの笑顔を見せてくれた。
図書室に戻ると、楡井がわたしのことを待っていてくれた。
そして、わたしが席を外している間に和可奈が持ってきたという紙袋を、渡してきた。
わたしは、それを鞄に入れた。
楡井は、わたしに何も聞かない。
宗田と何があったのか、何も聞いてこない。
それなにの、家まで送ってくれた。
まるで駆け足のように早く落ちる陽に、背中を押されるように、二人で歩いた。
季節が変わるさまを、わたしは肌で思いっきり感じた。
薄暗くなってきた玄関で、楡井に手を振った。
夕暮れを背中に浴びながら、楡井が「また、明日な」と言った。
だから、わたしも「また、明日ね」と言った。
夕飯は、家族三人で食べた。
そして、夕飯が終わった後も、わたし達は眠くなるまで、ずっと話した。
和可奈から渡された紙袋を、そのまま笙子の机に上に載せた。
中を覗いて、笑ってしまった。
ありがとう、和可奈。
真夜中になった。
わたしは開けていた窓を閉めると、カーテンも閉めた。
……けれど、思い直し、少しだけ開けた。
そこからは、綺麗な満月が見えた。
薄雲が、ゆっくりと夜空を動き、淡く月を隠していく。
わたしはその月を、ベッドに横になりながら、見られるだけ見ていた。
街は眠っていた。
静かな、夜だった。




