赤布三枚で狩場を立て直した令嬢は、同じ手順で自分が救われる
「代理の名まで載せては大げさでしょう」
伯母様の白い指が、主催者名簿の私の名へ一本線を引いた。
勢子は十二人、赤布は三枚、主催者欄の私の名は零。最後だけ、数え直しても増えなかった。
「マチルダ侯爵夫人に招かれたのは私ですが」
「亡くなったあなたのお母様の地図をお持ちだから、確認を頼まれただけでしょう? 差配は私の名で十分です。代理に名前は要らないの」
なるほど。では名のない代理らしく、黙って働こう。
そう思った直後、勢子が八人しかいないことに気づいた。
「残り四人は?」
「荷運びよ。中央の荷車が遅れているの」
伯母様が扇で示した先では、四人の勢子が酒樽を抱えていた。狩りより晩餐。猪より葡萄酒。優先順位が実に貴族的である。
だが、藪の内側から猟犬が一頭だけ飛び出した。
トビアスがいない。
「四人を戻してください!」
私は裾を掴んで斜面を駆け下りた。左の藪が揺れ、低い唸りが地面を震わせる。猪は内側。トビアスも内側。逃げ道は外縁路に一つ。
荷車から四人を引き剥がし、十二人を四人ずつに分ける。一組に赤布一枚。腰ではなく、肩の高さの枝へ結ぶ。藪越しでも位置が見えるように。
「左、中央、右へ! 外側の道だけ空けて!」
「中央が足りないなら、私が入る」
アーサー様が上着を脱ぎかけた。帰領したばかりで、この狩場の手順をご存じないらしい。
「四人ずつです。爵位は人数に含めません、アーサー様」
十二人の勢子が一斉にこちらを見た。アーサー様も見た。今は数に入っていただくと困るので、私は角笛を構えた。
「四人で一組です。三つ数えてから動いてください」
一声。二声。三声。
一、二、三。
三組が同時に内側へ二歩進む。赤布が左、中央、右で揃って揺れ、猪は閉じた人壁を避けて外側の逃げ道へ走った。
泥まみれのトビアスが藪から転がり出る。
「ローザ様、俺……」
「頭は後です。指は十本ありますか」
「あります!」
十本。猟犬一頭。勢子十二人。猪は外へ一頭。
名は零でも、死人も零。
今日は零に好かれている。
* * *
二度目は、数える暇もなくアーサー様が藪へ消えた。
猪に跳ねられた従者を肩で支え、外縁路へ押し出した代わりに、ご自分が内側へ取り残されたのだ。立派だが、配置を知らない立派さは、ときどき救助人数を一人増やす。
「赤布を三枚、見える高さへ! 欠けた組は動かさないで!」
左四人。中央四人。右四人。
今度は荷車へ走る者はいなかった。トビアスが赤布を胸に抱え、中央組の先頭へ滑り込む。
藪の向こうで枝が折れた。
「アーサー様、聞こえますか!」
「聞こえる。猪は私の右だ」
「そのまま動かないでください!」
「しかし従者が——」
「道へ出ました。足も二本あります。今はご自分の二本を動かさないで!」
返事が止まった。噛み合っている暇はない。私は三組の位置を見て、角笛を握り直す。
「四人で一組です。三つ数えてから動いてください」
三声。
三つ数え、十二人が二歩進む。
猪が赤布の並びを嫌って外側へ抜けたあと、アーサー様は折れた枝を杖にして現れた。頬に泥、袖に血。ご本人の血ではないと確かめるまでに、心臓が十二回ほど余計に働いた。無断労働である。
「助けられた」
「従者を助けた分と相殺でお願いします」
「命の勘定をそんなに雑にするな」
アーサー様は泥の中へ片膝をつき、中央の赤布を留めた結び目に触れた。枝の外側から回して二度、最後だけ内側へ。次に角笛を借り、吹き口へ指を置く。
「三声の間隔は?」
「急がず、長く空けず。全員が次の音を待てる間です」
「ずいぶん曖昧だ」
「人は時計ではありませんから」
彼は赤布の結び目をもう一度確かめた。
礼を述べるだけなら一回で済むはずなのに、その手は手順を持ち帰ろうとしていた。
* * *
晩餐の皿は八十六枚、客は四十人、中央席は三つ。
名札は二枚。
「三組を同時に進ませるよう、私が申しつけましたの」
伯母様の柔らかな声に、左右の客が感心して頷く。
中央にはマチルダ侯爵夫人と伯母様の札。三つ目の席は空白で、私は壁際に立ち、給仕へ皿の不足を知らせていた。
皿は足せる。名札は足せない。便利な世の中だ。
「母君から譲られた地図が役立ちましたわね」
マチルダ侯爵夫人が穏やかにおっしゃる。
「ええ。姪にも確認を手伝わせましたの。身内ですもの、当然ですわ」
当然。無給、無名、立食。身内という制度は待遇表がたいへん簡潔である。
客の賞賛が増えるほど、伯母様の機嫌はよくなった。私が静かに家を出るために縫っていた旅装と、貯めていた銀貨二十七枚は、どちらも遠ざかる。役に立つ者は手放されない。ただし席は与えられない。家具に似ている。よく磨かれた家具なら、なおさら捨ててもらえない。
アーサー様は空白の中央席を見たあと、皿を数える私を見た。
何もおっしゃらない。
その代わり、ご自分の名札へ置いた指が動かなかった。
食後、伯母様は厩舎脇で四人の勢子を呼び止めた。
「明日は西の獲物を先に追いなさい。中央組から四人回せば足りるでしょう」
「ですが、ローザ様は四人組を崩すなと」
トビアスの声に、伯母様の語尾が削れた。
「私の指示を聞きなさい。今日の采配をしたのは私よ」
扇が閉じる音がした。
「姪には知らせなくていいわ。失敗したら、確認不足だったと記録なさい」
私は曲がり角の手前で、皿を六枚抱えたまま止まった。
伯母様は危険を知らなかったのではない。
今日、二度も見た。
見たうえで、明日も四を八にする。
皿は六枚。扉まで七歩。銀貨は二十七枚。
明日の勢子は、放っておけば八人。
* * *
「中央の赤布がありません!」
翌朝、追い込みの直前に勢子が駆けてきた。
左と右の赤布は定位置。中央だけ空。勢子は八人。
「中央組の四人は?」
「西へ回れと、コレット様が」
「戻して。今すぐ」
「もう尾根を越えています!」
私は角笛を掴んだ。追い込み開始まで五分。西へ往復すれば十分以上。赤布がなければ、中央組が戻っても位置を知らせられない。
「私は赤布を探します。トビアスは四人を呼び戻して。追い込みを止めるよう全員に伝えて」
「ローザ様、一人では」
「外縁路しか通りません。藪には入りません」
安全な道を選ぶ。無謀と勇敢は別勘定だ。私はそこを混ぜない。混ぜれば、困るのは担架を運ぶ人である。
荷車を一つ、二つ、三つ確認する。布袋、縄、酒樽。赤はない。
中央の定位置へ続く外縁路は、昨日の雨でぬかるんでいた。右は藪、左は低い土手。その先で荷車が一台、車輪を溝へ落として道を塞いでいる。
荷台の酒樽の下から、赤い端が見えた。
あった。
手を伸ばしたとき、遠くで角笛が一声鳴った。
「止めて!」
二声目。
誰かが変更を知らず、合図を始めている。
私は酒樽を押した。動かない。栓を抜き、中身を地面へ流す。葡萄酒が泥を濃く染め、樽が軽くなる。一本。まだ重い。二本目の栓へ指をかけたところで、三声目が鳴った。
左の藪がざわめく。
八人が動いた。
中央の四人がいない。人壁には穴がある。猪は当然、穴へ来る。爵位も名簿も知らないが、数にはたいへん正直な獣だ。
私は二本目の樽を転がし、赤布を引き抜いた。枝へ結べば、中央組の位置だけは示せる。
位置だけ。
四人はいない。
藪の向こうで、重い足音が地面を叩いた。
「中央は空です! 進まないで! 左組、そこで止まって!」
声を張りながら土手へ上がろうとした。泥が靴底をさらい、片膝をつく。赤布は離さない。目印がなければ、外から私の位置が分からない。
外縁路の前方からも藪が揺れた。
戻ろうと振り向く。
後方で荷車が傾き、車軸が土手へ食い込んで道を塞いでいた。
前は猪。後ろは荷車。右は藪。左の土手を横切れば、猪と勢子の間へ出る。
道は零。
こういうときの零は嫌いだ。
「私は中央の外縁路! 荷車の手前です! 猪は北から南へ動いています!」
答えはない。
勢子たちは勝手に動けない。動けば穴が広がる。私が彼らへそう教えた。
藪越しに、猪の鼻息が聞こえた。
赤布を肩の高さへ掲げる。手が震えて枝に結べない。一度。滑る。二度。布の端が落ちる。
数え直す。
指は十本。うち、まともに動くのは不明。
息は一つ。ひどく浅い。
足音は、近い。
自分で走るべきか。土手を越えれば三歩で藪へ入る。猪の走路を横切るのに五歩。最短で八歩。間に合わない。
分かってしまう。
分かるから、動けない。
役に立つために覚えた地形が、今は私に逃げるなと命じている。足を置けば誰が巻き込まれるか、全部見える。
「中央外縁路です!」
もう一度叫ぶ。喉が擦れた。
枝の隙間に黒い背が見えた。
赤布を握る。せめて外から位置が分かるよう、頭上へ伸ばす。
救助を待つしかない。
それは、私がいちばん不得手な仕事だった。
一声。
藪の向こうから、新しい角笛の音がした。
猪の足が止まる。
二声。
昨日より低く、長い。急がず、長く空けず。全員が次の音を待てる間。
三声。
「ローザ!」
アーサー様の声だった。
遠くで人の足音が重なる。四人、と思ったところへさらに四人。別の方向からも四人。
十二人。
「左、その赤布を高く! 中央は荷車の向こうだ。右、外縁路を塞ぐな!」
枝が鳴り、赤布が左に上がる。
中央では、荷車の上に赤布が翻った。私が握っている布とは別の一枚。酒樽の下から見つけたこれは、きっと左か右から持ち去られたものだったのだ。隠した数まで間違っている。伯母様、詰めが甘い。今だけは心から感謝する。
「トビアス、先頭へ。誰も一人で穴を埋めるな」
「はい!」
「十二人いるか!」
「左、四人!」
「中央、四人!」
「右、四人!」
声が三方から届く。
アーサー様は四人を連れ戻した。荷車を越え、隠された赤布を取り戻し、ご自分の手で三組へ渡した。
それでも、まだ私へは来ない。
猪が走路にいるうちは、来てはいけない。
分かっている。分かっているのに、赤布を握る指から力が抜ける。
「ローザ、聞こえるか」
「聞こえます」
「そこから動くな」
「はい」
「私の声だけ聞け」
喉が閉じ、返事が出なかった。
藪の向こうから、自分の声が返ってきた。
「四人で一組です。三つ数えてから動いてください」
赤布が揺れる。
「そう教えたのはあなたでしょう」
アーサー様が、一つ、と数えた。
猪が頭を上げる。
二つ。
十二人の靴が地面を掴む音がした。
三つ。
左、中央、右。三組が同時に内側へ二歩進む。
一歩。
赤布の線が狭まる。
二歩。
猪は揃った人壁へぶつからず、開けられた外側の逃げ道へ向きを変えた。黒い背が藪を割り、私の前を横切らずに南へ抜ける。
勢子たちは声を上げない。追わない。四人の配置を守り、猪が十分に離れるまで動かない。
足音が遠ざかる。
一本、枝が揺れた。
そのあとで初めて、アーサー様が藪へ入ってきた。
肩で枝を押し分け、泥へ片足を取られ、手をついて立ち直る。近道を選ばず、猪の消えた方向を何度も確かめながら私まで来る。
「ローザ」
差し出された手を取ろうとした。
指が開かなかった。赤布を握り込んだまま、関節が固まっている。
「離せないのか」
「すみません。数えると、たぶん十本とも私の指なのですが」
冗談のつもりだった。
声がひどく壊れた。
アーサー様は赤布ごと私の手を包み、一本ずつ指をほどいた。親指。人差し指。中指。薬指。小指。五本終えるまで、急かさなかった。
反対の手も同じように開く。
十本。
赤布が泥へ落ちる前に、彼が拾った。
「立てるか」
「立てます」
嘘だった。
膝へ力を入れた途端、身体が沈んだ。アーサー様の腕が背と膝裏へ回り、私を持ち上げる。濡れた外套も泥のついた靴も、役に立たない腕も、全部まとめた重さで。
「重いでしょう」
「生きている人間の重さだ」
一歩ごとに彼の胸が上下する。枝が私の頬へ当たらないよう、抱く腕の位置が変わる。
藪を出ると、十二人が四人ずつのまま待っていた。
トビアスが泥だらけの赤布を胸へ抱え、深く頭を下げる。
「今度は俺たちが戻しました。ローザ様が教えてくれたとおりに」
誰も歓声を上げない。
配置を守ったまま、十二人が私を待っていた。
アーサー様は荷車脇の乾いた地面へ膝をつき、私を下ろした。それでも背を支える手を離さない。
「救われる側になって初めて分かった」
簡潔な声が、今だけは一語ずつ置かれた。
「あの三声は命令ではない。見えない相手へ、戻る場所を作る合図だった」
頬を拭おうとして、手がまた動かなかった。代わりに雫が顎から落ち、彼の袖へ濃い点を作る。一つ。もう一つ。途中から数えられなくなった。
「私も、分かりました」
息を吸うたび、胸の奥が細く痛む。
「役に立たないときの私は、置いておく理由がないと思っていました。代理に名前は要らないし、失敗する代理には居場所も要らない。だから、誰にも気づかれずに出ていけるようにしていました」
旅装。銀貨二十七枚。誰にも告げない出発日。
「でも、今日は何もできませんでした。手順は分かっていたのに動けなくて、赤布も結べなくて。助けていただかないと、戻れませんでした」
「それでいい」
即答だった。
私は首を振った。そんなに簡単に許されては、今までの勘定が合わない。
「よくありません。私は——」
「二人を助けた者が、三度目に助けを求めて何が悪い」
彼の指が、私の手の甲へ食い込む。
「戻れないなら迎えに行く。立てないなら運ぶ。数を間違えるなら、私が隣で数え直す。君が私にしたことだ」
視界が滲んで、彼の顔の輪郭がほどける。
それでも、手の熱だけは間違えなかった。
* * *
その夜の晩餐も、中央席は三つあった。
名札は二枚。
伯母様は何事もなかったようにマチルダ侯爵夫人の隣へ座り、空席から私の札だけを隠していた。
「狩りは続けられますの?」
私の包帯にも、泥の残るアーサー様の袖にも目を向けず、伯母様は給仕へ尋ねた。
「予定どおり晩餐を始められるかしら。お客様を待たせるわけには参りませんでしょう?」
「狩りは終わりです」
マチルダ侯爵夫人の判断は短かった。
「記録の確認が先です」
「まあ、記録など明日でも」
「人命を危険にさらした配置替えを、です」
伯母様の笑みが薄くなる。私と使用人へ向けていた命令形は出てこない。格上の前では、声まで上等な絹になるらしい。ずいぶん都合のよい布である。
「姪が確認を怠ったのでしょう。今日の差配役はローザですわ」
「昨日はご自分だとおっしゃいましたね」
アーサー様がご自分の席の名札を手に取った。
「成功は伯母上、失敗はローザ。便利な役職だ」
「アーサー、言葉を慎みなさい」
「では慎んで申し上げます。伯母上の席なら、私たちから遠いほど結構です」
生真面目な方の口から、たいへん俗で美しい一撃が落ちた。
四人の勢子と荷車番が、受けた命令を順に証言する。四人を西へ回す時刻。中央の赤布を荷車へ移す指示。失敗時には私の確認不足と記録する一文。
トビアスが抱えてきた泥だらけの赤布も、その隣へ置かれた。
「姪に任せていた範囲のことですわ。私は狩場の細部までは存じませんもの」
「昨日、同じ配置で二人を救ったところをご覧になりました」
私が言うと、伯母様は初めてこちらを向いた。
「ローザ、身内を大勢の前で辱める気?」
私にだけ、語尾が命令へ戻る。
「いいえ。記録の数を合わせています」
主催者名簿は一冊。消された名は一つ。危険を承知した命令は一枚。
別の欄には、黙って従った使用人の名も記される。見ていたことは、無かったことにならない。
マチルダ侯爵夫人が給仕へ手を上げた。
「その席札を下げて」
伯母様の前から札が外される。
受け取ろうと伸びた指は、空を掴んだ。伯母様は立たされ、扉の外へ案内された。客たちは誰も止めない。扉が閉じるまで、私はその背へ声をかけなかった。
アーサー様はご自分の名札を持ったまま、空白の中央席へ歩いた。
給仕から新しい札とペンを受け取り、そこへ私の名を書く。
ローザ。
線で消されていない三文字だった。
彼はその札を空席へ立て、自分の名札を隣へ置く。
晩餐客が一斉に息を吐いた。
「主催者を立たせたまま食べる趣味はありません」
マチルダ侯爵夫人が私のために椅子を引いた。
「お母様の地図を覚え、十二人を動かし、二人を救ったのはあなたです。次から狩猟会の記録には、共同主催者として名を置きます」
線のない札を、私は指先で確かめた。
それだけで足が止まりそうなのに、アーサー様は私の前へ立ったまま、手を差し出した。
「まだ一つ、記録にない話がある」
「今でなければいけませんか」
「今でなければ、君はまた数を合わせて一人で去る」
旅装も、銀貨二十七枚も、話していない。
この方は手順だけでなく、逃走計画まで覚える気らしい。困る。たいへん困る。
けれど彼の手も、わずかに震えていた。
「家同士が用意した縁談は断った」
客の気配が遠のく。
「差配役が欲しいのではない。完璧な救助者が欲しいのでもない」
アーサー様は膝をつかなかった。私を見上げる形にせず、逃げる道も塞がず、同じ高さで答えを待つ。
「失敗して、震えて、数を間違える日にも隣にいてほしいのは、あなただけだ」
彼の掌には、昨日の赤布で擦れた小さな傷があった。
「助けられなければ動けない日も?」
「迎えに行く」
「何の役にも立たない日も?」
「君の役目を私が決める気はない」
「混乱して、椅子まで数えます」
「一緒に数える」
「たぶん皿も」
「構わない」
「銀貨は二十七枚あります」
「なぜ今それを申告した」
「分かりません!」
数えられるものを全部並べても、返事だけは数にならなかった。
役に立つ間だけ置かれる場所なら、逃げ方を考えられた。弱い私を含めて選ばれる場所には、逃げるための手順がない。
彼が待っている。
答えを奪わず、手だけを差し出して。
私は目立たず去れる安全を、そこで手放した。
「私も、あなたの隣にいたいです」
差し出された手を取る。
今度は、握られたからではない。私の指で、彼の指を握り返した。
アーサー様の腕が私を抱き寄せる。救助のときより強く、けれど私が身じろぎすればすぐ分かる強さで。
肩へ顔を押しつけると、彼の外套がまた濡れた。
「離しませんよ」
「困ります。食事ができません」
「では隣で食べろ」
並んだ席は二つ。名札も二枚。
逃走経路は、まだ一つくらいあるはずだった。
正式記録には、二日間の狩猟会で勢子を救い、侯爵令息を救った者として私の名が残った。配置替えを承知で命じた伯母様は以後の主催から外され、私は伯母様の家へ戻らなかった。
銀貨二十七枚は、新しい暮らしの靴と手袋に変わった。
次の狩猟会では、勢子十二人、赤布三枚、四人一組の三組。私とアーサー様が並んで点呼し、晩餐の中央には二人分の名札が置かれた。
ただし問題が一つある。
「アーサー様、椅子を一席ぶん離してください」
「なぜ」
「共同主催者ですから。左右から客へ応対できる配置が合理的です」
「却下する」
私が椅子を一脚ずらす。
彼が自分の椅子ごと寄ってくる。
もう一脚ずらす。
また寄ってくる。
椅子二脚、名札二枚、逃走経路は零。
今度の零は、伯母様のせいではないらしい。




