第九話 真実――音を喰らう影
―――
遠くから、竹林を抜ける風の鈴の音が聞こえた。
かすかに。現実とは思えないほどに微かで。
だが、心をざわつかせるには十分だった。
博歩は幸太の祖父の部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
視線の先には部屋の隅にある小さな窓、
風もないのに、カーテンが揺れている。
その間、幸太は「神楽の詩」と書かれた紙を手にしていた。
「“帳の向こうにいる者たち”…って、誰なんだ?」
その紙が、さっきより重く感じられた。
―――
「……聞こえたか?」と、博歩が囁いた。
幸太が体を起こす。
鈴の音が、まだ微かに鳴っている。
まるで、小さな神社の鈴のような――あるいは、祭壇に吊るされた鈴の音。
チリン……チリン……
だが、この近くに神社など存在しない。
幸太はゆっくりと立ち上がり、古びた箱の蓋を閉めた。
そして「神楽の詩」の紙を丁寧に折り、ポケットにしまい込む。
「まさか、神社に行く気じゃ……?」と博歩が呟く。
幸太は振り返り、鋭い目で彼を見つめながらも、声は穏やかだった。
「知りたくないのか?」
―――
【場面:古い神社への道】
昼間の空はどんよりとしていた。
湿った空気。垂れ下がるように静まる木々。
そして、あの夏の風物詩である蝉の声さえも聞こえない。
幸太と博歩は、古文書に記されていた神社へと、土の道を歩いていた。
その神社は、長らく使われていないという。
村人たちはこう呼ぶ。
「自ずと閉ざされた社」と。
曰く、その扉は――呼ばれた者でなければ開かない。
だが、幸太がその取っ手に手をかけた瞬間――
カチャリ。
扉が……開いた。
「ふーん、扉が開かないって話、ただの作り話かもな」
幸太は少しだけ首をかしげ、後ろを振り返るような動作を見せる。
「あるいは……お前が祭りの守り手の孫だからかもしれないな」
博歩は肩をすくめ、神社の方を眉間にしわを寄せて見つめていた。
―――
【神社の内部】
古びた線香の香りと焦げた木の匂いが漂う空間。
その中心には、年季の入った祭壇があった。
そしてその上には、色褪せた巻物が吊るされていた。
幸太は祭壇へと近づく。
博歩は後ろで、そっと幸太の袖を掴む。
巻物には、古めかしい筆文字が記されていた。
幸太はゆっくりと声に出して読む。
「神楽の詩を欠いてはならぬ」
「……犠牲者たちへの敬意、ということか」
「欠ければ神ならざる影が目覚め、音を喰らう」
―――
「“音を喰らう”…?」と、博歩がかすかに呟く。
―――
その瞬間――
世界から音が消えた。
完全な静寂。
呼吸の音さえない。
心臓の鼓動すら聞こえない。
――思考までも、沈黙に呑まれた。
何かが……彼らを見つめている。
―――
【過去の幻影】
祭壇の前で、一本の蝋燭に火が灯る。
その炎が、突如として光を放つ。
そして――幸太の目に映る景色が変わった。
そこはもう神社ではなく、夏祭りの真っ只中だった。
白い装束をまとった人々が、古の楽器を奏でながら舞う。
だがその背後から、形なき巨大な影が迫ってくる。
突然、海水が天へとそびえ立ち、何の前触れもなく陸地を襲う。
大洪水が村を襲い、
祭壇を呑み、
音楽を呑み、
観客たちを呑み込んだ。
悲鳴。
そして……沈黙。
―――
【現実へ】
幸太は激しく息を呑んで、はっと我に返る。
博歩が彼の肩を強く掴んでいた。
「……顔が、真っ青だぞ」
幸太はゆっくりと首を横に振り、唇を引き結ぶ。
「……戦わなきゃ」
彼は、ひび割れ始めた祭壇を見つめた。
その奥から、小さな呟き声が聞こえた気がした。
「目覚めたのは……音を喰らう影――影喰い(かげぐい)だ」
―――
神社の外では、再び鈴の音が響き渡る。
だが、今回は――
一方向からではなかった。
森の中から。
古井戸の底から。
空き家の隙間から。
まるで……何かが目覚めようとしている。
幸太は空を見上げた。
太陽は雲に隠れ、空気は重苦しく沈む。
博歩は、彼の手を強く握りしめる。
「もし、あの祭りが……外の人間によって、再び行われたら……?」
幸太はそっと俯き、低く呟いた。
「……“正しくないやり方”で演じられたんだ」
―――
---
第九話
『沈みゆく太鼓。声なき夏』を
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
> 影は目覚めた。
この村が再び声を取り戻すとき、
それに応えるのは人間か——
それとも、長く埋もれていた“何か”か。
ブックマークと評価は、作者にとって何よりの支えです。
第十話で、またお会いしましょう。
---