第四話 静かな水面に揺れるもの
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その朝は、いつもの爽やかさとは程遠かった。
コウタは布団に座り込み、目は赤く、顔は青ざめていた。
髪は乱れ、目元にはうっすらとクマが浮かんでいる。
昨夜は眠れなかった。というより――まともに眠っていない。
目を閉じるたび、まるでまぶたの裏から何かが覗いているようだった。
やっとの思いで階下へ降りていく。
食卓の場面は昨日と変わらない。
ハクボウは退屈そうにスプーンを弄っている。
テーブルを囲むのは、コウタの父母と、彼の伯父・伯母だ。
「…おはよう。」コウタは疲れた声で呟いた。
「顔、やつれすぎだぞ。変な奴でも見たんじゃねぇのか?」とハクボウが冗談交じりに言う。
「いや、変なのはお前だよ。」と、コウタは淡々と返した。
会話は畑仕事の段取りに移る。
両親と伯父母は、今日は畑に出る予定らしい。
対して、コウタとハクボウ――
“田舎っ子”に任せて、村を散策することになった。
「今日は二人でぶらぶらしてらっしゃい。」と伯父がティーカップを傾けながら言った。
「俺らは畑仕事してくるからさ。」
「いいじゃん、それ。」とハクボウが肩をすくめて答える。
コウタも少しぼんやりしながら頷いた。
その時、伯母が口を開く。
「でも、気をつけてね…」
「気をつけるって?」
コウタが首をかしげる。
「ううん、別に大した意味じゃないんだけど…」と、伯母は微笑みを浮かべたまま言い添えた。
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村の空気は湿っているが、どこか透明で清々しい。
二人は石畳の小道を歩き、無人の家々や簾の奥に視線を通す。
すると――
楽しそうな子どもたちの笑い声が響いた。
コウタは慌てて振り返る。
そこには、少し離れた草むらで四人の子どもが縄跳びやかくれんぼをしていた。
その顔はみんな無邪気で、笑い声はかすかな陽だまりのようだった。
「…よかった。まだ子どもがいる村で。」コウタは心底安心したように呟いた。
二人が近づくと、子どもたちは手を振ってくる。
ミディアムレングスの髪を束ねた少女が問いかけた。
「あなたたち、この村の人じゃないでしょ?」
「そうです。親戚の家に遊びに来たんです。」とコウタは穏やかに答える。
丸いほっぺたの男の子が声を張った。
「ねえねえ、音楽、好き?」
「もちろんだよ! いろんなジャンル、全部好きかもね。」
「ははは〜、何それ面白い〜!」と子どもたちは声を上げて笑った。
続いて、ハクボウの質問が飛ぶ。
「じゃあそっちは?」
「ゲームと小説を書く方が好きかな〜」とハクボウが答える。
「ちーっ、つまんない!」
「そうそう〜」
「ふ〜ん…」
ハクボウは照れたように「うーん」と顔をしかめた。
子どもたちはまた駆け出す。
「またね、音楽お兄ちゃん!」
「さよなら〜」とコウタも手を振る。
「…またね、つまらない人たち!」
「ぼーどーお〜お年寄りみたい」
「くそがきども!」
「ガキのくせに!」ハクボウが腕を組みながら叫ぶ。それを見たコウタは思わず笑った。
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二人はさらに進んでいく。
視界に広がるのは田んぼの緑、遠くの山々、空を飛ぶ小鳥たち。
だが、なぜかそれらは遠い世界の景色のようだった。
やがて木製の小さな橋に差し掛かる。
下を流れる川は澄んでいて、その中で小石がゆっくり揺れている。
ハクボウは先に渡り始めた。
コウタは立ち止まり、水面に自分の顔を映す.
じっと見つめる。水は動いていないように見える。
しばらくして、水面に変化があった。
それは、
背後の顔ではない、別の表情。
くっきりとした口元が裂けるように歪み、瞳はやけに深く、光が吸い込まれるようだった。
露骨に“そこだけ”が笑っていた。
頭を戻そうとしたとき――
「おい!そこで何してるんだ!?」
ハクボウの声が響いた。
コウタは飛びのき、ひとまず距離を取る。
「すぐ行くよ!」
もう一度水面を見返すと、そこにはもとの顔しか映っていない。
ただ少しの波紋が揺れて見えただけだ。
「きっと、気のせいだよ…」
と思い込もうとしながら、胸の鼓動はまだ速くなる。
焦って小走りでハクボウを追う。
「遅いなぁ、ほんとに!」
「お、おうよ…」
彼らの笑い声が遠ざかる。
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そして、橋の下。
水は相変わらず静かに、そして不自然に澄んでいた。
水面には、誰もいないはずの“あの影”が――
まだそこにあった。
上を見上げている。
にやりと。
流れには乗らず、じっとそこにいる。
いや――
それは消えたのではない。
隠れているのだ。
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お読みいただき、ありがとうございました。
静かな水面に揺れるもの。
次のエピソードでは――
あの残された影は、水の中だけとは限らないかもしれません。
もしこの物語を読み終えた後も、心のどこかに不安が残っているのなら――
それはもう、「それ」が見え始めている証かもしれません。
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次回のエピソードでお会いしましょう。
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