第十七話 淡い時間の裏側
---
「今は何をするの?」
「今は寝る時間だよ。」コウタの父は新聞をたたみながら言った。「明日の午後三時ごろ、また叔父さんの家に行くからな。」
「わかった。」コウタは短く答えた。
---
部屋の空気はまるで別世界だった。清潔なシーツの香り、枕の温もり、そして夜の静けさが、ここ数日味わえなかった安らぎをもたらしていた。
「やっぱり自分の部屋が一番だな……」彼は小さな声でつぶやいた。ほとんど囁きのように。
まぶたが閉じかけたその瞬間、彼ははっと思い出した。
「あっ、まだシロツさんに連絡してない!」
---
コウタはすぐにスマホを取り出して素早く打ち込んだ。
「まだ起きてる?」
すぐに通知が返ってきた。
「もちろん。」 「で、で?どうだったの?!」
コウタは小さく笑って返信した。
「明日の三時までは時間がある。」
数秒後:
「ほんとに?!」 「じゃあ……朝八時に町の噴水前で会おうね!」 (※かわいいクマのスタンプが添えられていた)
「了解。」 (※敬礼スタンプつき)
その夜は、柔らかくて温かくて穏やかだった。 一時的にでも、世界は優しく思えた。 けれど彼は知っていた。 それは長くは続かないことを。
---
翌朝、カーテンの隙間から朝日が差し込んできた。 コウタは目を開けた。時計は六時三十分を指している。
まだ眠気の残る足取りで、彼はダイニングへと降りていった。 いつものように、父は新聞を読みながらコーヒーをすすり、母はキッチンで忙しくしていた。
彼らは一緒に朝食を始めた。
「コウちゃん、今日はどんな予定?」母がご飯をよそいながら聞く。
「友達と出かけるよ。」
「三時までには帰ってくるように。」父が言った。
「了解。」
「友達って……女の子? 男の子でしょ?」母が食い気味に言った。
「ふふ、秘密だよ。」コウタはオムレツを口に運びながら答えた。
「も〜う!!」母はほっぺをぷくっとふくらませて嘆いた。
---
「いってきます。」コウタが靴を履きながら言う。
「いってらっしゃい!」母が明るく返す。
---
外は猛烈に暑かった。 数歩歩いただけで、汗が額から垂れてきた。
やがて、駅前に到着。 腕時計を見ようとしたそのとき──
「えっ?」
向かい側に、シロツ・ハナが立っていた。 大きな帽子をかぶり、花柄のワンピースを着て。
「ここで……会えちゃったね……」ハナは恥ずかしそうにうつむいた。
「そ、そうだね……」
──沈黙。
「あのっ!」
「あのっ!」
同時に話し出して、互いに驚いた。
「き、君から先にどうぞ……」
「あっ、いえ、どうぞそちらが……」
また沈黙。 二人の顔はすでに真っ赤だった。
ついにコウタが勇気を出した。
「一緒に行こうか?」
ハナは小さくうなずいた。 「はい……もちろんです。」と甘い笑みを浮かべた。
---
電車の中、二人は並んで座った。 言葉は少なく、時折ぎこちない笑みを交わすだけ。
目的地に着くと、コウタはうなずいた。
「行こう。」
「うん。」ハナが答えた。
彼らは都会の喧騒の中を並んで歩いた。
「まずは飲み物でもどう?」ハナがドリンクスタンドを指さす。
彼らはレモンアイスを買い、飲みながら歩き出した。
「ねえ、今日すごく似合ってるよ。服も……」コウタはそっと言った。
「ありがとう……」ハナはうつむいて照れた。
---
「それで、まずはどこに行こうか?」コウタが尋ねた。
「映画のチケット、二枚あるの。……一緒に観たいの。」
「えっ、てっきり買い物だと思ってた。」
「それもあるよ。上映までの時間、服選びに付き合ってくれる?」
---
服屋
店内の冷房が心地よく体を包む。 店内には穏やかなポップミュージックが流れていた。
シロツ・ハナはすぐに行動開始。 一着、二着、五着、そして十着── すべてをコウタに手渡し、彼はまるで歩くハンガー状態。
「この服どう思う?」試着室のカーテン越しにハナが尋ねる。
彼女はレースの白いワンピースで姿を現した。
コウタはしばらく黙った。「……似合ってる。」
ハナはまた中へ。 今度はパステルカラーのドレス。
「これはどう?」
「それも、いいと思うよ。」コウタは少し疲れた笑みを浮かべた。
いくつか試着したのち、ハナは満足げな表情で一着を選び、コウタはややぐったりと立っていた。
---
映画館
「それで、どんな映画観るの?」コウタがスタジオ前で尋ねる。
「ホラー……かな?」ハナは平静を装って言った。
「ほ、ホラーか……あはは……」
「え? もしかして怖いの?」
ハナはニヤッと笑う。
「い、いや……ちょっとだけ。」
「なら問題ないね。」
---
映画が始まった。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」 スタジオに響く大絶叫。
コウタはびくっと反応。 時折、手が震えていた。 ハナはこっそり笑いをこらえて彼を見つめた。
---
映画館を出たあと
二人の表情は複雑だった。
「まさかコウタくんがあんなに怖がるなんて……」ハナは笑いをこらえながら言う。
「多分……村の出来事が影響してるんだ。」
「む、村の出来事って……?」
「……え?今なんて呼んだ?」
コウタがからかうように訊いた。
「わっ、やばっ!!つい呼んじゃった!!」 ハナは顔を両手で覆った。
コウタの顔も赤くなった。
「じ、じゃあ……ハ、ハナちゃん……」
二人は顔をそむける。
「ご、ご飯にしよう!」
「そ、そうだね!」
---
レストラン
レストランで、コウタは注文をハナに任せた。
「同じの頼んでおいて。ちょっとトイレ行ってくる。」
「わかった、コウタくん!」
コウタが離れたそのとき、スマホが鳴った。 ハナが画面を見ると、表示された名前は「ハクボ」。
「……わざと置いていったのかな?」
ハナは戸惑いながらも、結局──
ピッ。
「もしもし、コウタ?」 電話の向こうから男の声。
「昨日何が起こったか知ってるのか?!カゲグイがまた現れたんだぞ! くそっ、お前は彼女とデートかよ!」
「か、彼女?!わ、私?!」ハナは驚いた。
「おい、コウタ!? なんで黙ってる!? もう楽器は見つけたのか?」
「す、すみません。今トイレに行ってて、代わりに出ました……」
「……女の声……誰だ?」
「シロツ・ハナです。」
「な、何だって?!シロツさん!?」
---
コウタが戻ってきた。
「ハナちゃん、誰かから電話きた?」
「あっ、うん……ごめん、勝手に出ちゃった。」
「大丈夫。誰だったの?」
「たしか……ハクボって名前だったかな?」
コウタの表情がこわばった。
「ちょっと出て話すね。」
彼は離れて通話を開始した。
「もしもし、ハクボ!!」
「クソッ! お前、なんでシロツさんを知ってるんだよ!?この野郎!あとで説明しろ!」
「何言ってるんだよ、早川先生!?」
「先生と呼ぶな、小僧!!」
「……いつ戻るの?」
「午後三時には戻る。」
「……いろいろあった。カゲグイが講堂に現れて……あの音楽の音、実は俺たちを守ってたんだ。」
「……守ってたってどういうことだよ?」
「……まずい──」
「どうした?」
「……カゲグイと楽器のこと、シロツさんに話しちまった!!」
「な、なにぃ!? ハ、ハナちゃんに!?」
コウタは振り返る。 ハナは不安そうな顔で彼を見ていた。
---
---
穏やかな夏の日差しの下に、優しい時間が流れる。
でも、静けさの裏にある“何か”は、まだそこに潜んでいる。
---




