第一話 はじまりの音と、止まった水
【夏のホラー2025 参加作】
静かに始まる夏。
今年も、何事もなく過ぎていくはずだった——。
でも、
「音」と「水」が重なったその瞬間、
何かが、目を覚ました。
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夏は今年、少し早くやってきた。
澄んだ空、鳴り響くセミの声、肌を刺すような熱気はまるで開けたばかりのオーブンのようだ。
下駄箱の前で、暑さはまるで呼吸すら許さないかのようにまとわりついてくる。
「はぁ……暑い……」
誰かが制服の襟を仰ぎながらつぶやいた。
「ほんとだ……」
友達がぽつりと返す。
二人とも、まるで今にも溶けそうなアイスクリームのようだった。
廊下の端から、コウタがのんびりと歩いてくる。
額から汗がじんわりと流れ、足取りはどこかだるそうだ。
彼は上履きを脱ぎながら、外履きに履き替えようとしていた。
「どこ行くの? 旅行?」
誰かが友人に声をかける。
「うーん、まだ決めてない……」
高校生特有の、行き先も目標もないような表情で返した。
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校門の前——
「よっ、コウタ!」
後ろから明るい声が飛んでくる。
「夏休みの予定は?」
コウタはちらりと振り返った。「お、おう……」
「おおう、ハゲかよ!」
友人がすかさずツッコミを入れる。
近くの生徒たちが思わずこちらを振り返った。
コウタは乾いた笑いを漏らす。
「そうだな……たぶん親戚の家かな。」
「ちぇ〜、それだけかよ……」
「なんだよ、ちぇ〜って?」
「じゃあ、お前の予定は? ハ・ヤ・カ・ワ・先生〜?」
「やめろおおおお!! 公の場で“早川先生”呼びはやめろおおおお!」
「はいはい、学校でナンバーワンの小説家を目指すお方〜」
「うわああああ!! やめろおおお、コウタさまぁああ!」
「ハハハッ……」
暑さにも負けない、いつものノリで二人は大声で笑い合った。
そのまま並んで歩きながら、校門をくぐっていく。
「で、結局お前の予定は?」
「ゼロです。」
「へぇ〜、そうかそうか。」
「へぇ〜〜ハゲかよ!!」
「お願いだ、コウタさま! 俺も親戚の家に連れてってくれ〜〜!!」
「え……」
コウタは困惑した表情で友人を見つめた。
手には靴を持ち、頭の中も暑さでぼんやりとしていた。
「え」
友人が同じように返す。
「“え”って言うな、クソが!」
「てへっ」
「ひっ……キモいな、お前。くたばれ。」
「ぐはっ……」
コウタは小さく首を横に振る。
くだらないやり取りに呆れながらも、どこか楽しそうだった。
「……まあ、いいけどさ」
ゆっくりと校門を出ながら言った。
「なんで俺の親戚の家に行きたいんだ?」
「ふぅ〜〜……」
友人は空に向かって両手を上げた。
「親、夏休みでもずっと仕事なんだよ……家族旅行の予定、ゼロパーセント。」
「ほう、なるほどね。」
コウタは知った風な口調でうなずいた。
「いいよ。」
「やっぱダメかと思った——」
「へっ?」
「いいって言っただろ。」
コウタが振り返る。
「でも、自分でうちの親に許可取れよ?」
「了解!任せろ!」
友人は敬礼し、勢いよく応える。
「なんか持っていこうか? へへっ」
「変なもん持ってきたら、ぶっ殺すからな。」
「ひぃっ、わかったってば……」
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太陽が高く昇ったまま、二人は住宅街の交差点に差し掛かった。
コウタは立ち止まり、汗で湿った肩のベルトを直す。
向かい側では、気楽で騒がしい友人が軍人のように敬礼していた。
「じゃ、明日の朝五時に行くぞー!」
彼はそう叫びながら後ずさりしていく。
「それより早く来たら、殺すぞ。」
「はいはい〜、コウタさまぁ〜!」
二人は再び笑い、そしてそれぞれの道へと歩き出した。
真夏の熱風が吹き抜ける中、
何か冷たい“気配”が、ずっと前からその流れの奥に潜んでいたとは——
まだ誰も知らなかった。
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【場面転換:コウタの家】
二階建ての家の前、少し古びた木製の表札が風に揺れている。
「中沢」
引き戸が静かに開く。
「ただいま……」
コウタが少し疲れた声で言う。
「おかえり〜」
キッチンから母親の声が響く。
エプロン姿で、変わらぬ明るい笑顔を浮かべていた。
「あ〜〜、暑っ……」
コウタはまるでゾンビのように冷蔵庫へと足を引きずる。
カチャッ。
冷蔵庫を開けると、冷気が顔にぶつかる。
彼は冷えたペットボトルを取り出し、表面の水滴が手に伝わる。
ゴク… ゴク… ゴク……
「ふぅ〜〜……生き返るわ。」
少しの間、冷蔵庫の扉に頭をもたせかけてから、ゆっくり閉めた。
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「そういえば、コウタ。あんた今年は行くのね?」
母の声が台所から届く。
「この二年、ずっと誘っても行かなかったのに。」
「うんうん、行くよ。」
「そう、よかったわ〜」
嬉しそうに声のトーンが上がる。
「……たぶん、明け方に“うるさいの”が来ると思うけど。」
「お、おう?」
コウタは適当に返しながら、床に置いてあったカバンを持ち、階段へ向かう。
制服はシワだらけで、肩を落として疲れたように足を引きずっていた。
途中で空のペットボトルをゴミ箱に投げ込み、階段を上がっていく。
母はその後ろ姿を見つめたまま、しばらく無言で立ち尽くしていた。
「……まばたきひとつもせずに……」
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階段の上から足音が消える。
母はまだ台所に立ったまま、無意識に階段を見上げていた。
「……珍しいわね、あの子が行くなんて。」
ぽつりと呟き、小さく息を吐く。
「はぁ、ほんと……家の中なのに、まだちょっと暑いわね。」
彼女は後ろのエプロンのひもを外し、袖を肘までまくった。
そのまま、シンクの上にあるグラスを手に取る。
グラスを蛇口の下に置き、いつものようにハンドルを左に回す。
カチッ。
……しかし、音も水も出ない。
滴すらない。
何も流れない。
「……え?」
もう一度、今度は少し力を入れて回してみる。
……ダメだ。
「……おかしいわね……もしかして、水道代、払い忘れた……?」
下のパイプをのぞき込み、異常がないか確認してから、もう一度試してみる。
カチ。
——シャアアア……
ようやく、水が流れ出す。
最初は弱く、やがていつも通りに。
「ふぅ……出た。」
彼女はほっと息をつき、小さく笑った。
——でも。
ほんの一瞬、まるで“蛇口が意志を持っていた”ような、
そんな錯覚が脳裏をよぎった。
——ちゃんと回したはずなのに、
まるで拒否されたかのように出なかった。
グラスに水が満ちる。
彼女はそのまま口に運び、一口飲んだ。
家の中には、静けさと冷気だけが残された。
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気づかぬうちに、
それは、もうすぐそばまで来ていた。