告げられた婚約破棄の半分は確かに優しさで出来ていました。
「すきっ、きらい……。すきっ、きらい……。すきっ」
ひらり、はらり、くるり──
黄色い小さな花弁が、凪いだ水面に舞い降りる。
柔らかい風に押され、花筏は川を流れていく。
それは花のおまじない。
願いを込めた一枚一枚が彼女の心を映し出していた。
──ぼ、僕と君のこんやくは、ハキさせてもらう!──
「っ……きら、い……」
巡るその言葉に少女は僅かに顔を歪めた。
思い出を追い払うように、デイジーの花弁をぽつり、ぽつりと散らしていく。
呟く声は微かで、小さなその響きはやはり、震えている。
そっと撫でた指先で、その花弁をゆっくりと引く。そして、手放した。
川のほとり。微風に踊る花弁。木陰の間から差す光。
時間は穏やかに過ぎていき、少女が待つ、その人の姿はまだ見えない。
「す、き……」
その一言の後、少女の手がぴたりと止まった。ぐらりと揺らいだ瞳には、迷いが滲んでいる。
最後の一枚が視界に入ると、少女は瞼を閉じた。長い睫毛の先が、頬に影を引く。
──その瞬間、ふいに春風が吹き込んだ。
その風に乗って、ふわりと手紙が舞い上がる。
やがて少女の目の前で軽やかに舞い戻り、地面に優しく広がった。
それは婚約者からの手紙。少女は、驚きとともにその手紙を手に取った。
綴られた文字は歪で、少し乱雑。インクがところどころ滲み、抑えきれなかった焦りを浮かび上がらせる。
──リゼットへ
あの時はごめんなさい。こんやくのハキなんて、もう言わない。
半分は優しさのつもりだった。いや、ちがう。にげでした。
ちゃんと話したい。いつもの場所で待ってる。
ジュリアン──
***
舞踏会の片隅、小さな“紳士さま”と“淑女さま”たちは楽し気にささやき合っていた。
「ジュリアンって“コンヤクシャ”のこと好きなの?って、顔まっかじゃん!」
「やだっ、本当だわ!“ケッコン”する気なの?ちゃんとドレスの色とか決めてあげた?」
豪奢な衣装で着飾り、流麗な旋律に合わせ優雅に踊る大人たち。
その傍らでは、子供たちだけの“シャコウカイ”が別の熱を帯びていく。
その中心で頬を赤らめ、口籠る少年が一人。視線を彷徨わせながら、ぎゅっと握った拳に力を込めていた。
彼の名は、ジュリアン・ベルウッド。伯爵家の跡取りであり、そして、誰もが知る“あの令嬢”の婚約者。
「ねえ、ねえ。リゼットさまに、“だんなさま”って呼んでもらった?」
「えーでも、ジュリアンとリゼットさまって釣り合うかなぁ?ほら、ちっちゃいし!」
一人の少女が手のひらをぴたりとジュリアンの頭上にかざして、からかいの笑みを浮かべる。それはまるで、どこに触れれば彼が怒るのかを知りながらも、敢えてそこに手を伸ばすかのような、挑発的な笑顔だった。
「う、うるさい!」
ジュリアンは、怒鳴り声を上げる。唇を噛み締めながら、手は僅かに震えていた。
胸の奥がぐしゃりと縮む。彼自身でさえ何に怒っているのか、よくわからなかった。
「──あ!ほら見ろよ!“コンヤクシャ”さまのご登場だっ!」
「はやく“アイのコクハク”して来いよ!“きみを一生守りますっ!”って!」
声を聞き、彼は顔を上げる。彼の瞳が婚約者──リゼット・アスター公爵令嬢を捉えた。
すらりと伸びた長身に、光沢を帯びた黒髪。
藍色の瞳が辺りを見渡し、彼を映しだす。
そして、凛と澄んだ面差しが柔らかく綻んだ。
ジュリアンの力んだ手のひらが、一瞬、緩む。しかし──。
「「「“コークハク!” “コークハク!” “コークハク!”」」」
その声が聞こえた途端、直ぐに握り締められた。先ほどよりもさらに強く。
「ジュリアン。お待たせしました」
リゼットはドレスの裾を小さく浮かせ、彼に駆け寄る。
深紅の生地がひらひらと弧を描き、陽の光を受けて煌めく。
口元に笑みを浮かべ、品よく淑女の礼を執った。その姿に、大人たちの視線が奪われる。
カッと血が上り、頬に熱が集中していく。
「リゼット……。ぼ、僕と君のこんやくは、ハキさせてもらう!」
その声を聞いた瞬間、リゼットの唇がほんの少しだけ、寂しげに揺れた。
ジュリアンは、はたと我に返る。彼の熱はするりと、あっけなく冷めていった。
***
「はぁ……」
リゼットは深いため息を吐く。耳の奥には婚約破棄の言葉が深く響いていた。
その声色は鳥のさえずりよりも、川のせせらぎよりも、色濃く存在感を残す。
手にはひとひらだけ残された一輪の花と、少し斜めに綴られた手紙。
──半分は優しさのつもりだった──
その文字をリゼットはそっとなぞる。
その時、彼女の耳は、今よりも幼いジュリアンの声を聞いた。
『きょうから、ぼくのやさしさはぜんぶ、きみのものだ』
それは、ジュリアンと初めて会った日のこと。伯爵邸の大広間で、彼女は少しだけ緊張しながらその場に立っていた。
両親の手を握っていた彼女に、ジュリアンの元気な声が降り注ぐ。小さく力の入った手も、ピンと張りつめた背筋も、その声が聞こえた途端、すっと和らいでいった気がした。
『……、それは、どういう──』
『あれ?おかしいなぁ。キュンとしなかった?』
彼女の返事を待たずして、ジュリアンは呟きながらどたばたと階段を駆け下りる。
──歩くときは、ゆっくりと余裕をもって。すべての動きは滑らかに、無駄のない動作で。──
物心つく前から、当然のように言われてきた言葉たち。しかし、目の前のジュリアンの仕草はまるで違っていた。戸惑いながらリゼットは言葉を濁す。
『ええっと、その……』
『お父さまが、“レディをイチコロ”にするおまじないだって』
『そ、そうなんですね』
リゼットはジュリアンの奔放な姿にぎこちなく笑みを零した。
その笑みに負けじと、ジュリアンは勢いよく笑った。
『うん!』
『そ……、それなら』
ジュリアンのその弾けるような笑顔を見て、リゼットは思わず小指を差し出す。
『やくそくです』
『やくそく?』
──無理に笑わず、自然に微笑んで、品位を保つ──
彼女は優雅に、ゆったりと淑女の笑みを披露する。
彼の瞳がきらりと輝く。そして、小指を絡ませて答えた。
『うん!わかった』
その日から、彼の優しさは本当に全て、彼女に注がれていた。
『リゼット、大丈夫?』
体調不良を押し殺しながら出た夜会で、ジュリアンはこっそりと彼女にそう尋ねた。
リゼットはいつもの微笑で返事をする。
『ええ、大丈っ──』
『ごまかされないぞ』
彼女の言葉を遮ると、ジュリアンはじっと彼女を見つめていた。
誰にもバレずに振る舞えていたはずなのに、彼の真っ直ぐな瞳だけは彼女の嘘を許さなかった。
『だ、大丈夫よ。ちょっと──』
彼を言いくるめるための算段を考えていたリゼットの視界が急に暗くなる。
『って、うわぁっ……』
ぐらりと倒れそうになった瞬間、彼は力強く彼女の身体を支えた。
リゼットよりも僅かに小さいジュリアンは、それでも男の子の頼もしい手をしていた。
熱っぽかった頬に触れられた掌。それが冷たくて気持ちよかったことを、彼女の肌はまだ覚えている。
また別の日のこと。
『だから、そこはちがくて』
難しい本を片手に唸っていたリゼット。隣で同じように苦戦していたはずのジュリアンが、不意に声をかけてきた。
『そこ、僕、お父さまにおそわった!まかせて!』
少し得意げな、でもどこか照れたような顔で、彼はリゼットが引っかかっていた部分を訥々と説明し始めた。結局、余計に分からなくなってしまったけれど、一生懸命な眼差しだけは彼女の胸に刻み込まれた。
そんな優しさの欠片たち。
舞踏会の夜、ジュリアンの口から出た婚約破棄という言葉は、それら全てを否定するように響いた。
僅かに赤らんだ頬に、強張った表情。彼の身体は力んでいて、彼女の瞳には涙を零しているようにも映った。
「リゼット」
彼女の耳にその声が届く。その声につられるようにして手紙に落としていた視線を持ち上げる。
目の前に現れたジュリアンは、あの夜と同じように全身に緊張を湛え、立ち尽くしていた。
「ジュリアン」
一言、声が響く。その声にジュリアンは眉を顰めた。
「その……」
キュッと噛み締めた唇。それをジュリアンの瞳が捉えた瞬間、彼は勢いよく頭を下げた。
「本当に、ごめん……。ごめんなさい!僕、バカなことした」
ごめん、ごめん。と、彼は何度もその言葉を繰り返す。
深く、深く下げられた頭。上着の裾は彼の手によってくしゃりと皺が寄る。
リゼットはゆっくりと瞬きをして、小さく息を吸った。
「手紙の、──半分は優しさでした──ってどういうこと?」
必死に繰り返す彼の頭上に、その言葉が降り注ぐ。
いつもと変わらない、透き通った声。ジュリアンの手のひらの力はゆるりと抜けていく。
「その……」
彼が顔を上げると、リゼットは真っ直ぐに彼を見つめていた。
言葉を選びあぐねるように、彼の視線は宙を舞う。
「だって。僕、君にふさわしくない」
その言葉を聞いても、彼女は視線を逸らさない。
揺るがない、震えない。ただ、真正面から彼を見ていた。
サラサラと風に揺れる髪を彼女の掌が抑える。
その時、彼女の表情が小さく歪んだ。
「そんなこと……、ないわ」
ジュリアンはゆっくりと、しかし確実に首を振る。
「背も、なかなかのびないし。力だってない。勉強だって、君にはかてない」
まるで、それが覆せない事実であるかのように、ジュリアンは淡々と告げた。その声音には、諦めと、僅かな自嘲が混じっていた。
「ばか、ね……」
彼女の声は普段よりもか細い響きを持って、ジュリアンの鼓膜を揺らした。
「今から、のびるかもしれないわ」
そして、芯のある、圧迫するような物言いに変わる。
「力が無いなら、今からがんばればいいじゃないっ」
抑えきれない怒気がそこに孕む。
「勉強だって、そうよっ!」
最後は叫び声だった。
だが、ジュリアン、彼女の剣幕に怯むことなく、むしろ諦めたように微笑んだ。
その表情が、彼女の心をさらに波立たせる。
「でもほら、リゼッタにはもっとかっこよくて、もっとぴったりな人がいるんだ」
彼は視線を彷徨わせ、どこか自分に言い聞かせているようだった。
「もっとつよくて、もっとあたまのいい男が。君はそういう人とけっこんすべきなんだよ」
言い終えると、ジュリアンは優しく微笑む。いつも近くにあった優しい眼差し。
──半分は優しさのつもりだった。いや、ちがう。にげでした。──
手紙の言葉がリゼットの脳裏に蘇る。逃げだったと、他でもない彼自身が認めた言葉。
なのに彼はまた逃げようとしているのか。
怒りと悲しみと苛立ちと。それらがごちゃ混ぜになって喉元までせり上がる。
「そんな風に決めつけないでよっ!」
リゼットの声が、川のせせらぎを切り裂くように響いた。
その瞳は涙で潤み、けれど決して崩れない意思の光を灯している。
「どうして、どうして。そんな事言うの!?にあわないなら、にあう男になればいいじゃない!!」
胸の奥をぶつけるような言葉だった。
感情を抑える訓練の果て、誰よりもお淑やかになった少女の姿はもうそこに無い。
「どうしてそれが分からないの!?どれだけカッコいい騎士さまの手よりも、どれだけ優秀な領主さまの目よりも……」
リゼットは拳を握りしめて言葉を絞り出す。
「……ジュリアンのその手の方が、小指の方が、笑顔の方が、私はずっとうれしかったの!」
彼女の声が震え、涙がとうとうこぼれた。ジュリアンは目を丸くする。
「私はっ、私は、ジュリアンが良いの!ジュリアンじゃなくちゃだめなの!」
その一言が胸に突き刺さった。
彼はわずかに肩を震わせながら、息を詰まらせて声を振り絞る。
「リゼット、ごめん……。おねがいだから、なかないで」
ジュリアンは必死に言葉を探していた。けれど、いくら心が焦っても、口が思うように動いてくれない。
「……それに、半分ってなに?私への優しさは、たった半分しかなかったの?それなら、残りの半分はなんだったの?」
リゼットの声は弱々しいが、その分鋭かった。
ジュリアンの心の奥を、躊躇なく貫いていく。
逡巡するように、瞳が揺れた。乾燥して、ぴったりとくっついた喉。
それを無理やり剥がすように彼はほんの一瞬だけ息を飲む。
「そ、それは……、その、半分は……き、だから」
「……え?」
「だ、だから、半分はっ……」
リゼットがわずかに顔を傾ける。
その瞳に映る彼の顔は真っ赤で、けれど真剣だった。
もう一度、ゆっくりと喉を鳴らす。
「リゼットのことが、好きだから」
ぽつりと、でも確かに落ちたその言葉に、リゼットの肩がびくりと揺れる。
ジュリアンの頬に差した紅が、彼女にも伝播する。
二人の視線が交差する。逸らそうとするリゼット。
しかし、ジュリアンの声が彼女の瞳を引き留めた。
「……大人になったら、結婚してください」
告白というには拙くて、けれど本物だった。
それは、どんな飾った言葉よりも、彼女の心を揺らした。
リゼットはふっと微笑む。
それは、かつての“お淑やかな微笑み”ではなかった。
もっとずっと、素直で、嬉しくて、胸がいっぱいになっている笑顔だった。
「もう……、その約束は、ずいぶん昔にしたはずでしょう?」
彼女はそっとジュリアンの手を取る。小さな指が、小さな指に絡む。
まるで、あの“最初の約束”が、今ここに再び結ばれるように。
そこにあったのは、まだ未完成で、でもまっすぐな愛の始まり。
少女はその日、花のおまじないを卒業した──。
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