共通ルート5.飢え
国会の答弁で下港区と上港区の違いを聞かれたら、議員たちは大体経済活動における重要性の違いに話を帰結したがる。上港区には外資系企業の津谷支社が林立し、集中したIT・マスコミ・広告業が津谷の経済の多くを担っている。対照的に、下港区はスペースの三分の一を貿易港が占めており、それに合わせて物流業と第二産業が大きな割合を占めている。
同じ質問を地元住民に聞いたら、まったく異なる回答になる。
同じく港区という名目を戴くが、上下港区が一緒なのは、移民の多さとそれ所以の治安の悪さの二点だけである。しかもその二点だけでも内訳は大きく違うものだ。海外本社から津谷支社に赴任している富裕層と、貿易港で働く奴隷と紙一重の低賃金労働層が同じわけない。そして、治安の悪さといっても、上港区ではナイトクラブや風俗店、水面下のデリヘルなどの多さを指すが、下港区では暴走族や、不法滞在、暴力団、博打などで、どうも貧困と結び付きやすいイメージがある。
しかし、その見方も近代人文科学に銘打った常識的な知見に過ぎない。オカルトやスピリチュアルなものを含めたより広いキャンバスで見ていると、上下港区の住民たちにはもう一つの相似性が見えてくる。
飢えている、何か本質的に人間が得られぬ超越的な大きな力に。
その大きな力の概念を、運や恩恵と呼ぶのは早計ではあるが、本質からズレた認識ではない。
経済と市場の規律に従ったが故に大金を稼いだ上級国民であろうと、お金さえあればと日々白日夢を繰り返す無一文であろうと、楽して思い通りの人生を送りたいという一点において違いはない。きっとそれは、人間全般に通ずる究極にして唯一の夢であろう。
そして、時に、その夢をまるで意地でも実らせないでいる神様が憎く見えても仕方ないものである。しかし、意気地なしの男たちが、それでもいいだろうと運命を受け入れる傍らで、女はその憎むべき神様に勝るとも劣らないくらいの意地を見せてその超越的な力を手に入れようとする。
中世に魔女と呼ばれた女性たちを、そういった視点で見ると、恐らくどのフェミニズム団体よりも原理主義的で格好良いのだろう。そしていずれ、その意地は新しい時代の女性に受け継がれ、神秘主義の魔女の代わりに産業時代に相応しい全体主義の魔女が現れるのである。
知らんけど。
下港区の電気提供事業で広く知られている不成文の一つは、変圧器に設置されるべきでないものが何か設置されていない限り、家庭や小型事業所の異常な電気消費量は無視すること。つまり、盗電は犯罪として厳正に対処する必要があるが、一日中照明をつけっぱなしにするのは、わけのわからない移民労働者が金を引き換えに得た自由である。もちろん、火事になったらきちんと訴えるが。
お陰で、適切な設備と知識を持った者は、その気あらば、家の中で電気焼却炉を稼働させるのも不可能ではない。問題は、廃棄物の臭いをどう消すかだ。幸い、近代化したものの悪臭を消滅しきれなかった人間社会では、カバーする方法はいくらでもある。
下港区南長葉川4丁目15番地9号はまさしくそういうところである。豚骨ラーメン屋を一階に持ち、その地下一階の扉の前にはガールズバーと書いてある看板が放置気味でいつも置かれてあるが、営業している気配は地上部分にしか感じない。
ここが、下港区において、「魔女」の秘密拠点の一つになっている。
扉の窓ガラス越しに見えるバーの内装は如何にも本物らしく、ホールの奥にはカーテンに入口を覆われたスタッフ用のエリアもある。だがいざカーテンをめぐってその後ろにある廊下に入ることができれば、その果てに事務室などは存在せず、裏庭への出口とキッチンに見せかけた、電気焼却炉が置かれたボイラー室しかないと、容易に気付くのだ。
この所謂ガールズバーは、昼夜問わず二人またはそれ以上の数の魔女が交代で当番をする。当番と言うからには、何かやらなければならない仕事があるように聞こえるが、新人魔女の彩玉が参入した二ヶ月前以降設備の見張りくらいしかやることはなかった。夜の当番は、そのボイラー室の中で一晩泊まり込むだけのようなものである。
もちろん、それは相棒である学徒魔女の章姫がほとんどの作業を引き受けてくれていたからだと彩玉は理解している。にしても暇すぎるのだ。
外からボイラー室の中の設備の形が見えぬようわざと暗くしているせいで、刺繡どころか漫画を読むことさえ満足にできない。音が漏れるテレビやラジオはもちろん置くはずがなく、娯楽は自力救済と言わんばかりにスマホで済ませる他に道はない。それでもいつまでもショートムービーを漁っては虚無感を抱いてしまうし、活字を見ると頭が痛くなる彩玉にとって小説を読むなど言語道断である。気づいたら、ジャンクフードで暇つぶしするのが関の山だった。
ポテトチップスを一袋食い尽くして、ゴミを捨てにバーのホールに行くため彼女がカーテンをめくった時のことだった。
夜のとばりを背景に、極細のケミカルライトに見える光の棒を握った人影が、本来扉があるはずのところに無音で立っている。
しかし、あらゆる照明を消したホールでのことである。その針や糸ほど細いケミカルライトに照らされただけでは、見間違いではないと言い切れる自信は彩玉にない。そして、彼女が状況確認する前に、手にしていたアルミ袋が雑音を発したせいで、驚いたのかその人影は消えた。
消えた、というのは、比喩表現ではない。そこに立っていたのに、体の向きを変えることもなく、そのまま空気に蒸発した。
同時に、彩玉の背後から、ダウンコートの摩擦音と共に、一本の腕が力強く彼女の首を締めつけてきた。
すぐ首の方向を変えて、相手の肘の窪みに気管を向かわせるよう彩玉は対応を試みたが、その対処法は既に予測されたのか更なる締め付けにしか及ばなかった。
彼女はもちろん気づくはずがないが、その気管を固く押さえながら、脊椎に圧力を吸収させないよう、背後から襲撃者は肩胛骨で彩玉の頭蓋骨を支えてくれたのである。
脳に酸素が届かないことによる効果は創作物で見るよりずっと速く出るものだ。3秒か4秒足らずの締め付けだけで、彩玉の頭の中は既に酸に焼かれた焼灼感が出始めて、意識を失い始めた。
死を意識する暇さえなかった。もっとも、相手に、死なせるつもりがあったならの話だが。
意識を失って倒れる彩玉の体は、背後から襲撃者の腕に抱えられて、崩れ落ちはしなかった。
静かになったホールの中で、ダウンのナイロン製生地の摩擦音は暫く続いた。
酸素の補給中止による失神は、数秒から数分しか持たない。長く自由を奪うには、より本格的な拘束が必要である。
『…これで舌を噛むこともできないだろう』
何重もの強力な工業用テープで椅子に固定され、歯の間と唇の外には二重と丁寧にテープを貼られた彩玉の体を見て、「女好き」は満足げに一息ついた。如何にも襲撃を受けたと見せるばかりに、誰が見ても不要だろうと思わせるほどに手首から肘まで念入りに縛ったのである。
それらを全部剥がす時はさぞいい除毛になるだろう、と彼は思った。
何をされてもされるがままな彩玉の体から伝わってくる温もり、やや硬直しているとは言えやはり健在する女性特有の柔らかさ、肌の滑らかさ、ボディーソープであろう微かな金木犀の香り。
9時間前の伊予、5時間後の麗月、そして今手薄とは言え、魔女の拠点の最中。危うさを持った女から危うさしか持たない女へと、その心労に神経を苛立たされた「女好き」に、無抵抗な彩玉の豊かでありながらまだほんのりと少女の甘酸っぱさを残した体は、肉欲を煽って魔性的に感じる。
しかし、野生動物の発情と違って、コミュニケーションの延長線上にある人間社会での性だとしたら、誰もがその相手を務めるわけではない、少なくともそうでない「はず」、だ。
彩玉に嫌がらせを仕掛けたのは、情けない自分への苛立ちからの逆恨みなのか、それともひねくれた無意識的な求援なのか、「女好き」はもうわからない。彼にわかるのは、こんな体たらくでは、伊予に説教したのは恥晒し以外の何でもないという一点のみだ。
過ちが既に否定しようのない事実となり、それを受け入れるだけでストレスが溜まっていく中、会いに来たからこうなっちゃうんだと嘲笑う女性の声を、「女好き」は聞いた。
「…因果応報だ…」
彩玉に最後に確認の一瞥を置いて、カーテンをめくって彼はホールを後にした。