共通ルート4.弱者
「失礼。イヨさんですか?」
退勤後の帰路につき、電車の駅を出て、証拠保全で警察がパンダミック時代を思わせるほど過密にいてバリケードテープがあちこちに張られたいつもの道を選ぶか迷っているところ、伊予は男性の声を背に受けた。
職質であれば応じぬわけにはいかず、地味にストレスを感じる伊予。
秩序の守護者、というのは、間違いではない。警察なしでは、武器を持たない一般現代社会は三日も持たないのだろう。しかし、同時に、実力機関というのは必要な時には存在してほしいという虫のよい願望は多かれ少なかれ誰もが持っているものである。それは、社会進出している女性の男性への見方と似通っていることが、皮肉だと言わざるを得ないのだが。
伊予は身に沁みるほど、このことを理解している。とりわけ今は、警察にも男にも絡まれたくないのだ。
険悪な表情を極力抑えて振り返ったら、その声に聞き覚えがあるのに、伊予は納得がいった。他に誰も座っていないバス停のベンチから、灰色のダウンジャケットに身を包んだ「女好き」が立ち上がるのを、彼女は見たからだ。
「電車の定期券です。伊予さんが落とされたたので、返しにきました」
こういいながらこちらに向かってくる彼は、彼女にほとんど目をくれず、正面にいる伊予しか気づかないが、周囲の警察たちを警戒していた。
自分と同じものを忌む姿勢を見せる「女好き」を、伊予は、自分が何をしているかを彼はよく理解していると感じた。
彼女に差し伸べた手のひらには、カタカナでイヨと書かれた、PVC製の薄い電車定期券があった。6ヶ月の有効期間で、発行されて一週間も経っていないものである。
一枚だけで今月伊予の給料の五分の一が飛んでしまうような代物だ。
「ありがとうございます! 今朝からずっと探してたんで…」
用がこれだけならばすぐにこの場から離れたい彼女であったが、マナーの良し悪しの話以前に、「女好き」に聞かなければならないことを聞き逃してしまう。こういう時、相手が空気を読んでくれればという他力本願な期待を抱くのは誰も避けられない道だが、伊予は不運にも、その願いを抱く勇気があっても口にする勇気のないタイプである。
援助を請う彼女の眼差しに何か感づいたのか、更に近づいた「女好き」は、伊予の耳元に唇を寄せて囁いた。
「コーヒーでどう?」
「えっ?」
「4万円に値するサービスの対価に、淑女の1時間くらいはいただけないものですか?」
「あぁ…」
「女好き」のその言葉に伊予の頬が緩んでしまったことを、彼女は自覚していなかった。
駅の出口から30メートルも離れずにあったカフェ。
その奥の一組の席に腰を下ろして、カウンターで注文品を待っている伊予の後ろ姿に目を配りながら、若いな、と「女好き」は思った。
大男の襲撃を受けた直後、警察と鉢合わせるのが嫌だろうと思って先に帰らせる彼の提案。それをすんなりと、見方によれば図々しくも受け入れ、逃げるように去っていった伊予は、未だに「女好き」の連絡方法どころか、名前さえ聞いてくれない。
それでも「女好き」が何かを要求してくることを期待していた辺りは、彼女に最低限の借り貸しの意識が見られる。しかし、こちらが行動しないとあちらも動く素振りを見せないというのは、他人の自分を助けるためだった努力を過小評価する驕りである。
そのひねくれたプライドの在り方に、愛情の伴わぬ、管理即ち制限されるだけという親のエゴを押し付けられた中途半端な過保護な元で育てられた、必要以上に肥大化した我の薫りを、「女好き」は嗅ぎ付けた。
「それで自分と同じとでも?ふっ、女に絡みたい時だけ頭が回るのね」
手前のホットココアを啜ると、ないに等しいほどの控えめな甘味に包まれたほのかな酸味の中、女の声が突如鼓膜に伝わってきた。
『夢中になってやった私を、あなたが導いきってくれなかったからさ』
冷静ぶって反論したつもりだが、ココアの液面にさざ波が立つのを見ていると、震わせた己の動揺に「女好き」は自嘲せずにいられなかった。
お待たせしました、と口にしながら目の前の席に座り込んだ伊予は、マキアートを乗せたトレーをテーブルに置いた。上半身を軽く乗り出して、「女好き」は店の中に警察がいないという観察結果を小声で伝えた。
「眺めただけで分かるんですか?」
伊予の訝しげな目を、「女好き」は一笑に流して、また椅子の背もたれに身を任せた。
「襲われたのは自分ということにしました。伊予さんとは関係のないことになっています。お口が滑らない限り気づかれることもないでしょう。ご安心を」
敢えて「女好き」は口にしなかったが、もしもバレてしまっても、嘘をついた当事者の彼だけが追究される。その場合、伊予には任意同行を要求されるが、責任は問われないのだ。
「すみません、そこまでしていただいて…」
「謝罪より感謝の言葉をいただきたいね。通り魔の方、私の隣室で取り調べを受けてましてね、話は後で担当の警官から聞いたのですが、元々はコンテナ港で働くブルーカラーで、職場でいじめを受けて同僚に騙される形でミスをして解雇された。更に会社からは解雇理由を自己都合とするように強要されて、それで再就職が悉く失敗して、精神を歪めて凶行に走ったという。所謂無敵の人だ…」
無敵の人という言葉の定義を、いつしかネットでザックリとしか読んでなく、内容をほぼ忘れた社説記事から引っ張り出すまで、伊予にはかなりの時間がかかった。
その間、「女好き」は、ココアのコップを恍惚げに眺めてただひたすら話を進ませた。
「一人の弱者を守るためにもう一人の弱者を懲らしめるなんてナンセンスです。元から後味の悪いことなのに、伊予さんに謝られただけでは、自分のせいでみんなが不幸になった気になっちゃいそうです…」
と、その瞬間、失言をしてしまったと自覚して「女好き」は口を噤んだ。
そもそも二人の弱者のうち、伊予に味方するのを選んだのは彼自身である。だが、その事実を意識するだけの勇気があっても口にする勇気を持たぬ伊予だから、論点をずらさずにはいられなかった。そのため、自分のことではなく、大男の通り魔を弱者と称してその味方をすることに、彼女は嚙みついた。
「感謝はしています。倒したご本人なら、弱者と評しても問題ありませんね」
予想に反してまったく違う方向からの皮肉を聞いて、伊予の中から女へのコンプレックスを感じつつも、「女好き」は非難への応酬を続けた。
「ふん…買ったばかりの定期券を無くしても普通に一日を過ごして、カフェに寄るお金を持ち歩いている伊予さんにとっては弱者ではないのですか?」
「刃を向かわせてくる者を弱者と呼ぶのはどうかと思います」
「一つの見方からはそう言えましょう。しかし、後半生の名誉と自由を引き換えにやらねば人にメッセージを聞いてもらえない棄民のことを都合で強者と呼ぶのは、同じくどうかと思います。自分の見たいものだけを見るのはご自由ですが、それ以外の世界が潔く自動的に消えてくれることにはなりません」
そう断言しながら彼女の顔を眺める「女好き」の目は、平静そのもの。
何回も唇を開いて反論を試みた伊予だったが、「だから何」辺りで生理的嫌悪で思考が止まってしまうことに己の局促さを思い知らされ、苛立ちを感じずにはいられなかった。
だから、相手のせいにした。
「…聖人みたいな言うことですね。器というべきでしょうか」
「こんな他愛ない話でムキになるくらい自分に器量なんてありません。しかし、もし本当に私に、伊予さんが仰ったように言い放題する権利があるとしたら、これだけを言わせてほしい。通り魔の方を、伊予さんは自分とこうしてはっきりと距離を置いて違うものだと強調していますが、棄民を作り出した今時の搾取社会からは、大した違いはありません。彼のような最底辺の人が通り魔になると決心した瞬間までは…いや、きっと今でも彼らを食い物にした世界に私たちがいます。そして、彼らがこのような犯罪行為で数少なくなっていくなら、この搾取の食物連鎖のピラミッドを支えるのは、私たちになります。良し悪しのことではありません、そういう『結果』が残るだけのことです。そしたら今度搾取されるのに耐えられずナイフを握ってしまうのは、伊予さんご自身、または親しい間柄にいる知り合いになるかもしれません。嫌い相手だから、その人との向き合いを粗末しては、悲劇を繰り返すだけのことです」
それから、きっと二人は他のことも話しただろうが、何故かその言葉だけは、ずっと伊予の頭の中に蟠って消え去らなかった。
なぜなら、彼女の職場ではその翌日、同期に入社した同僚が解雇を言い渡されたから。