共通ルート3.マグロ
自宅という何もなくただ漆黒に占拠された空き部屋に押し入った青年は、靴も脱がないまま、灰色のダウンジャケットのナイロン生地の騒々しい音の中で、倒れる形で玄関に座り込んだ。
何もない、というのは、誇張ではない。物件が賃貸された時のままで、今でも扉を出るだけで大家に返せるような空き巣である。
しかし、静寂の中で、青年には、微弱だが確かに笑い声が聞こえた。
「新しい女を口説くのに元カノに力を借りるの?とんだ『女好き』ね。」
流れていくように耳元からスッと消えていく、女性の声。その声を引き止めようと、反射的に彼は素早く手を伸ばしたが、暗い空気の中にはもちろん何もない。
「…因果応報め…」
扉に背もたれて、青年は自嘲げに呟いて、スマホを取り出した。
黒く映るスクリーンから発する暗澹たる光に映し出された手の輪郭。フランネルの手袋に包まれながら、人の肌がそうであるかのように滑らかな曲線的起伏を示してる。しかし、よく見ると薬指の輪郭線だけがぎこちなく、まるで石のように見える。しかも、片手だけでなく、両手ともである。
スマホからの発信音が突如途絶え、代わりに沈黙が広がった。
「女好き」は思わずスマホのスクリーンを二度見したが、確かに通話中と表記されている。
「麗月ちゃん?…またご機嫌斜めなの?」
「直球で言われちゃうと困るな、マグロ先輩に八つ当たりできなくなるじゃない?」
冷やされたナシのカットの食感に近い、潤いとコシを備えた若い女性の声だった。
「したいの?」
「今私が遭っているごちゃごちゃなことに、先輩も一枚嚙んでるからね」
「当ててみよう。ヴィジョンを描いたから、文化庁に調査されてて、今は仮放免?」
「それじゃ今の電話傍受されちゃうよ?冗談はなしにして。マグロ呼ばわりされる辺りからもう分かってるんでしょ?」
そう言われると、「女好き」も思わず俯いた。麗月の示唆に思うところがあるのだ。
麗月と「女好き」の関係は、冷感症を意味する「マグロ」という言葉を無遠慮に垂らせる仲とは、本当のところ少し違う。少なくとも、相手が本物のマグロだと言い切れるような夜を二人は共にしたことはないし、付き合っているわけでもない。それでも、いざ本当にそういう関係になってもおかしくないと感じるのは、二人に共通した心の病加減のせいである。愛し合っているというのはまったく噓というわけではないが、たまたま、互いにこの世に愛するものを見つけられない者同士で理解し合ってしまった故に、それぞれが抱えていた厭世さにさらに拍車がかかったと言った方が正確であろう。人間として何かが決定的に欠如していたとしても、綺麗なままの自分で自動的に終われないのは、人生とは何とも嘆かわしいことだ。
そういう意味で、異性の身で知り合えたことは、麗月と「女好き」にとっては微かな救済であったとも言えよう。
だから、麗月が上流階級の男に身を売ったと知っていたにもかかわらず何も行動しなかった自分に、「女好き」は罪を感じていた。
もちろん、心を許した男女だから、という理由は大きいのだが、それと同時に、男の問題を女性、しかも年下の女性に人任せして自分が高みの見物をしていることに彼は嫌悪感を持っていたのだ。
「麗月ちゃんが美術館に引っ越した件に関しては、快く思ってはいない。けれど、そう決めたのは麗月ちゃん自身だし、仕事の助けになるとも思った。麗月ちゃんから何も相談されなかった以上、干渉しようがなかったのさ」
言い訳に聞こえるが、大人の付き合いは時にこういうものだから、「女好き」は、麗月に噓をついているとは思っていない。しかし、相手の次の言葉を耳にした彼は、心にナイフを刺された痛みに襲われた。
「美大出でもないのに、画家が仕事の私の助けに?本当は一人の男から助けたところで、私の問題を、先輩には本質的に解決できないと分かっているからではなくて?」
「…私を辱めるために言っているのなら、もう効果が十分出ているから、ここまでにしてほしい」
「そう…私ね、まだ処女よ」
その発言の意味を理解するのに、「女好き」はおよそ3秒沈黙した。
「引っ越してからは少なくとも一ヶ月以上に経っているはずだが?」
「面識がないのよ。今でも住所と金を与えてくれるだけで、どういう顔をしている人なのかさえわからないの。だから面白がってその人に取り込まれたけど…明後日の夜初めて会う約束をした。一人に自分の全てをあげたら、その人のものになってしまうみたいな気持ちになっちゃうから…」
「明日は用事があるかもしれない」
「ふーん、欲しくないんだ」
「そうじゃない、あなたの利益になりそうなことだ。もともと、電話したのはそっちの話をしたかったの」
「利益?どういう話…まさか?燼琉璃と言っているじゃないよね?」
麗月の声に驚き以上に喜びが露わになっていることに一安心した自分に対して、「女好き」は背筋が凍ったのを感じつつも、その感覚を払うように強引に注意力を引いた。
「ああ、今日、通り魔事件にあったんだ。二人殺されて、三人目は私が助けてやったんだけど、どうもくさくて…明日は最も近いアジトに偵察しに行きたい。押収した燼琉璃をあなたに接収してほしい。真夜中に運送用車を調達するための金がないんだ」
「美術館のトラックは用意できるけれど、報復を受けたりはしないよね?」
「上手くやれば目撃者は出ない。だから明日は会えない…太陽が沈むまではひたすら準備をする、万全を期したいんだ。それから、トラックの運転手は、口外しないような、信頼できる者を手配してほしいんだが…」
「女好き」はジャケットの袋に入れてある柔らかいカードの触感を愛でながら、麗月に噓をついてしまったことに申し訳なく思った。
「もちろんそうするけど…えっ?来るの?」
「女の子にそこまで言わせて応じないのは男としてはどうかと思うよ?」
「もう…でも、そしたら、起きるのは午後になっちゃうよ?着替え、大変だから…」
「そこは許して。ヴィジョンで興味を持った男はいずれもう一枚のヴィジョンを要求してくるもんだから、用意してデートに臨むに越したことはないでしょ?」
もしこの言葉が真実であれば、自分は、麗月が自分に気をかけることより、彼女が安定した人生を過ごすことを望んでいることを意味するのだろう。それを本物の愛だと呼ぶ人もきっといるだろうが、逆に何の権限も持たないのにこちらから寄与するのがバカバカしく見える。自分から何かをしたいほどの情熱があれば、こうも後手に回ることもなかった。どの道、ナンセンスである。
麗月にマグロと蔑まれても文句を言えないな、と「女好き」は苦笑するしかなかった。
だが、肝心の麗月がそれに気づかないのであれば、自分を許せる余地もできたわけだ。そこまで彼女が神経質でないことに、救いを感じなければならない。
「わかった…痛んでしまったら子爵に気づかれるかもしれないから、優しくしてね」
「伊達に400年生きたもんじゃないよ、その前にちゃんと休んどいて」
子爵という呼び方に多少引っかかったのも、麗月とこの手の応酬ができたのは、「女好き」にとって、心地よいことだった。