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あなたを正しく愛する方法  作者: ジカンサイガイ
第一巻 愛スルコト即チ原罪
2/6

共通ルート2.あなたに正しく出会う方法(下)

 ガキーン!


 金属が堅物(かたもの)にぶつかる音が、伊予の人生で最も長い一秒間響き満ちた。それと同時に、網膜の前に広がる(まぶた)の肌色の闇に、影が降りかかる。

 痛みは感じない。

 しかし、だからこそ解せぬ、攻撃を防いでくれるものなんてないはずだ。

 そう思いながら、ほんの少しだけ目を開いて覗き見上げる伊予。

 肌色の闇とアイラッシュの鉄格子(てつごうし)隙間(すきま)には、見知らぬ灰色のダウンコート。

 その灰色に包まれた青年が、自分を上からかばう形となって、頭上に掲げた彼の拳は、鉈の刃を受け止めている。


 冷静に考えると、肌で刃物を受け止めてああいう音がするはずはない。そもそも、この青年がどこから現れたのか。もし彼が路地の向こう側のあの通行人だったら、どうやってこの距離を一瞬にして縮めてきたのか、という不可解な疑問が複数残っているけれど、この瞬間命が救われたことを実感した伊予は、そんな疑問を諸共よしとして、今まで体中を満たしていた緊張の奔流から解放され、一息ついた。

 そしたら、緊張の代わりに、今度は激痛が脹脛(ふくらはぎ)から這い上がるように感じた。

 足が、継続的な緊張状態で痙攣(けいれん)してしまっていたのだ。倒れたのも、それが原因だと。

 もちろん、これが意味するのは、痙攣から解放されない限り、立ち上がって逃げることもままならぬ彼女は、青年に守ってもらうしかないという情けない現実である。


 サングラスの大男も、青年の突如とした出現に驚きを覚えたようで、すぐ第二撃を加えることなく、鉈を握ったまま二歩ぐらい下がった。狼狽(うろた)えている彼に追撃をかけるべく、青年は飛びかかり、正面から鉈を奪い取ろうとしても、大男に押され気味で力比べになかなか勝ち目が見えない。

 そして、さすが通り魔をやるだけの肝玉(きもだま)があるというべきか、力比べで血の気を取り戻した大男も、「関わられてしまっては青年も切り刻むまでだ」と言わんばかりに、力を入れて再び鉈を振り回した。

 間合いに居残ると危ないと判断したか、青年もまた同じく体勢を立て直すように間を取り、まだ地面に倒れ込んだままの伊予の前を塞ぐ形で、彼女の安否を確認するよう一瞬目を向けた。


 その時、彼が見つめたのは他でもない自分の瞳だと、伊予はなんとなく感じ取った。

 見た、のではなく、感じ取った、というのは、何故かその瞬間のことをよく覚えていないからだ。

 青年の眼差しは綺麗だった。しかし、不快に思わせるほどあまりにも純粋で透き通っていて、まるで瞳を通して自分の全てを見抜きたくて、雲の上の日差しのような輝きも、底なしの深淵のような奥行きも感じさせる視線だった。

 そんな目に、伊予は慣れていない。

 そんな目で自分を見る者に、伊予は反応する術を知らない。

 その視線に含まれたものを、伊予は、気にしつつも、反射的に知りたくないと思った。

 だから忘れることにした、だから知らないようにした、だから関わらないようにした。

 伊予が覚えているのは、彼に見つめられていたという認識に留まった。その感覚は、彼女にとって、生肌で太陽コロナの火花を摘むくらい刺激的なものであった。


 だから、青年の頭上に頭蓋骨(ずがいこつ)を裂けるほどの勢いで鉈を振り下ろそうとする大男の姿が、伊予は自分の中のコンプレックスと重なった気がした。しかし、それも瞬き一つの間に過ぎず、気づいたら伊予はまた青年に期待を寄せ始めた。

 そして、伊予に送ったそんな深い視線が噓だったと思わせるくらい、青年は素早く腕を組んで大男の腕を防ごうとした。

 が、一瞬、ほんの一瞬しか相手の動きを止めなかった。

 その一瞬の出来事である。

 正面にいる青年を押える大男の肩は、どこからともなく脇の下から伸びてきた二本の腕に力強く組まれた。その両腕は、灰色のダウンコートの袖に包まれている。

 状況を理解できずに、大男はすぐさまその拘束を振り切れなかった。

 そして、この援護(えんご)が作ってくれた隙を逃さずに、青年は大男の顎に、脊椎(せきつい)脱臼(だっきゅう)させてしまうのではないかと思わせるほど強力な掌底(しょうてい)打ちを見舞った。

 苦悶なうめき声を吐きながら、すんなりと大男の体は崩れ落ちた。サングラスのせいで表情は見えないが、失神したと言わんばかりに無様な倒れ方であった。

 鉈をその手から蹴り飛ばすと、これ以上の反抗はないと見て、勝利宣言紛いにウル○ラマン譲りの自己満足の頷きをしながら青年は深呼吸をした。

 後ろから大男を押さえた腕はいつの間にか消えていた。もちろん、大男の背後には誰も居なかった。まるで、最初からそうだったかのように。


 およそ千七百文字で説明したこの一連の格闘は、伊予が倒れてから長くとも8秒足らずのものだった。

 結果的に観客気取りになってしまったが、彼女にとっては、長い8秒間だった。

 最初の恐怖から、絶望、期待、懐疑、そして気を失って倒れた大男の図体を眺めて実感した安堵と慰藉、伊予は、雪崩(なだれ)込んだ感情の奔流に心の(せき)を切られた。ただただ思考停止気味でそこに座り込んだ彼女に、青年はすぐ近くまで近づいて、手を差し伸べた。

 その手を握るべく、伊予は頭の中が真っ白なまま腕を上げた。

 しかし、ない。

 何もない。

 青年の手がそこにあるはずのところに、何も存在しない。

 その不可解な事象にいきなり現実に呼び戻された伊予は次に、手どころか青年そのものまでも消えていることに気づいた。

 静かな空気の中に、大男と自分以外に人間の気配がしないことは、伊予に新たな困惑を生んだ。


 (幽霊…?)


 冗談ではない。大男は確かに倒れている、それは見ればわかるほど明白な事実だ。

 ちょうどその時、背後から。


 「ごめんなさいね。まだ力が入らないように見えるから、正面から引っ張るのはよくないと思いまして」


 と、まるで出来たてのうるち米団子みたいなもちもちな声が鼓膜(こまく)に響いた。

 青年は、微笑みに近い柔らかい表情で背後から伊予の右に回って、再び手を差し伸べた。

 そんな彼に、伊予はやや呆けている顔を見せた。


 (いつの間にそんなところに行っちゃったの?…錯覚か?)


 フランネル質の手袋に包まれた青年のその手に自分の手を重ねると、伊予は、まるで石のように硬い指だな、と思った。

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